「兄ちゃん? キヨや」
2019年、ハンセン病元患者の山城清重さんが、約60年ぶりに兄の勇さんと対面したときに発した言葉です。
顔に深いしわを刻んだ2人が、手を取り合って抱き合う。肩を組む。言葉を交わす。私はハンセン病問題の取材に加わったばかりの時期で、目の前で起きていることを、カメラマンと共に無我夢中で取材することしかできませんでした。
なぜ清重さんが自分のことを「キヨ」と呼んだのか。この再会がいかに奇跡で、希望で、貴重だったのか――。それを深く理解できたのは、後になってからでした。
大阪市にはかつて「外島保養院」というハンセン病療養所がありました。しかし、1934年の室戸台風直撃で壊滅し、岡山県に移設されて現在の邑久光明園となりました。そのため、邑久光明園には今も関西出身の入所者が多く、療養所を出た多くの元患者や家族が、関西で暮らしています。だからこそ関西地区での報道が必要だと考えた先輩記者の柴谷真理子は、2010年頃からハンセン病問題に取り組み始めました。差別・偏見に苦しむ当事者の取材を重ねるなかで「療養所の最後の1人まで取材を続けなければならない」と決意し、19年に私が取材に加わりました。
その年は、ハンセン病問題が大きく動きました。家族にまで差別が及んだ国の責任を認める判決(家族訴訟)が確定し、家族を対象とした新たな補償制度が創設されたのです。この判決が後押しとなり、約60年ぶりに再会を果たすことができたのが、冒頭の清重さんと勇さんです。
清重さんは10歳で岡山県の長島愛生園に収容され、そのまま家族と断絶しました。 家族訴訟の判決のあと、偶然兄弟が生きていることがわかり、「自分は捨てられた」と恨む気持ちや葛藤がある中、会いに行く決心をされました。
「兄ちゃん? キヨや」(仏壇に向かって)「お父ちゃんお母ちゃん、キヨが帰ってきたよ......」
再会の瞬間、清重さんは自分のことを「キヨ」と呼びました。後で知りましたが、子どものころ両親や兄弟たちに「キヨ」と呼ばれていたのだそうです。これだけで60年分の空白が埋まるわけではないけれど、思わず口から出たその一言に、家族への思いや抱えてきた寂しさが詰まっていました。
それから5年。清重さんは6回里帰りをしました。補償金を使って兄弟と共に実家の墓を建て直し「ゆくゆくは俺もここに入る。安心や」と話しています。そして、勇さんと会話するときだけ、やはり自分のことを「キヨ」と呼びます。私は2人の姿に「家族関係の回復はまだ間に合う」という希望を感じています。
一方で、ハンセン病問題は根深く、今も過去を隠し家族と断絶している人がとても多いことも現実です。法律が変わっても差別や偏見が現存し、当事者の傷ついた心はまったく癒えていません。この理不尽さと悲しさを知った1人として、責任を持って取材を続けていきます。
いつも大切なことを教えてくださる「ハンセン病関西退所者原告団・いちょうの会」「ハンセン病回復者支援センター」の皆さんに、お礼申しあげます。