【渡辺考の沖縄通信⑦】80年目のタイムトラベル

渡辺 考
【渡辺考の沖縄通信⑦】80年目のタイムトラベル

フリーの立場になって、一年の節目を迎える。映像制作、そして雑文書きを続けているのだが、それにしても、よく旅行をした日々であった。国内は、沖縄、広島、長崎、福岡、山口、京都、大阪、東京。海外は、韓国(済州島)、中国(ハルビン)、イタリア。瞑目すると、異なった空間の多種多様な情景が浮かび上がる。そして種々様々な人々の表情も――。

さて、2025年、テレビ番組を中心に映像作品を振り返ると、時間軸を過去にセットしたものが多かったと感じる。そして、その時間旅行(タイムトラベル)は、「昭和100年」を標榜したノスタルジックでセンチメンタルな傾向もあったが、決して朗らかに楽しめるものばかりではない。私自身、3つの番組を手がけたが、そのいずれもが、太平洋戦争をテーマにしたものだった。自身の映像制作を軸に、「タイムトラベル」を試みながら、心に去来する断片を記し、この一年を振り返る。

1章 広島

広島に足を踏み入れた一月某日、あたりには吹雪が舞っていた。

フリーになって最初の仕事が、NHK広島放送局からの依頼だった。手がけることになったのは、被爆80年プロジェクトの一環の「未来へつなぐヒバクシャからの手紙」。広島局では、2007年から被爆者や遺族から手紙をつのり、それをもとに数々の番組を作っていた。寄せられた数は、2,200にものぼる。母を失った被爆者はこう書く。「お母さん、どこに逃げたの。毎日探したけど、見つけてあげられなかったね。ごめんなさい。千の風になって、いつでも私の側に来てくださいね」。姉を失った人は、「どうか安らかに眠らないで、怒って私を刺激し、私に勇気を与えてください」。

被爆者の平均年齢が85歳を超えるなか、この年も、被爆者が、自身の体験をどのように未来へつなごうとしているのか、次世代への継承をテーマに手紙が寄せられていた。

貴重な手紙の現物に触れたあと、広島局の外に出ると、寒さはいっそう深まっていた。長崎での取材経験はあったが、広島の原爆にこれまでしっかりと向き合ったことのない私にとって、肌を刺すような冷気は、本気で取り組む覚悟があるかとの硬い問いかけのようだった。鉄路に軋みを響かせる路面電車の車内からもれる橙色の光が、車道を優しく照らしているのが心に沁みた。

まだNHKに入ったばかりのフレッシュなふたりのディレクターとともに、過去に寄せられたものも含め大量の手紙を読み、つづられた思いや背景に迫ろうと取材を進めた。NHK、民放問わず広島で作られた原爆関連番組もできうる限り見た。休日も図書館に通い、原爆関連本を読み進めた。でも、見ても読んでも、尽きることはない。そして、あまりにも知らないことばかりで、自身の無知と勉強不足を痛感させられる日々となった。

手紙を寄せてくれたふたりの被爆者と実際に会い、話を聞くことができた。いまだに消えぬケロイドを全身に持つふたりの体験は、その場で受け止めきれない重みを帯びていた。各々の被爆地も実際に歩いたのだが、すっかり都市化した風景に往年の残滓はなかった。

ある夜、宿泊先の部屋に帰り、路面電車の地響きを聞きながら、いま自分がいる場所の時間軸を80年遡らせようと、想像のなかでのタイムトラベルを試みた。1945年8月6日午前8時15分。しかし、にわかに得た文字情報の羅列ばかりが頭に浮かび、リアルな光景など想像できなかった。焦げつくほどの熱線や爆風で傷を負う自分を考えると、その瞬間に到達する前に恐怖で思考が停止した。自分に原爆に関する番組を作る資格などあるのかという疑念ばかりが浮かびあがっていた。

迷いが続いた。

そんなとき、広島市内の市立基町高校・創造表現コースの試みを知った。生徒たちが被爆者と交流し、じっくりと体験談を聞き取る。そして被爆者の記憶に残る光景に焦点を絞り、一枚の絵にする取り組みだった。十数年続いていて、完成した「原爆の絵」は200枚以上にのぼるという。被爆体験を一度、内面化し、それを絵筆によって形にする。目を見開かされる思いだった。

被爆体験を安易に重ね合わせることなどできない。

でも、だからこそ被爆者の方々の残された言葉、そして肉声をしっかりと受け止め、できうる限り考え続ける。

苦しいけれど「わがこと」としてギリギリのところまで想像すること――。

高校生たちの活動は、未来への時間旅行でもある、と感じた。

私は、広島市内の中学生、そして高校生と一緒に手紙を読んでもらうことにした。そして、被爆者たちの体験、そして思いをどのようにつないだらいいかを一緒に考えてもらった。私の考えも及ばぬようなさまざまな案が出され、希望を感じた。4月末、ゲストを招いたスタジオも含め、「コネクト『未来へつなぐヒバクシャからの手紙』」として結実させることができた。いまを生きるひとりひとりが「わたし=当事者」となり、被爆者から託された思いをつないでいく。番組は、被爆継承を一考するきざはしにはなったと思う。

2章 東京

東京の番組プロデューサーから、驚く知らせが届いたのは、広島滞在中の某日だった。NHKの倉庫から、知られざる戦時下の音楽資料が発見されたというのだ。当時、第一線で活躍していた作曲家たちの手による楽譜で、1930年代後半の日中戦争から太平洋戦争にかけての時代に作られたものだという。

広島取材の合間をぬって上京し、その現物を目の当たりにした。まず、その量に圧倒された。「行進曲 神風特別攻撃隊」「英霊讃歌」「真珠湾の軍神」「提督戦死」などなど253にのぼる。勇ましいタイトルに、戦争の影を感じると同時に背筋が凍りつく思いを抱く。

オーケストラ曲や吹奏楽、いわゆる「クラシック音楽」といわれるジャンルである。そして、これまで世に知られることのなかった作品群である。古関裕而、服部良一、成田為三......。錚々たるメンツの名前が目をひく。

当時、政府も軍関係者も「音楽は軍需品」というスローガンのもと、音楽は戦争を進める道具と考えていた。

楽譜を委嘱したのは、NHKの前身の日本放送協会。ラジオを通してこれらの音楽を流すことで人々の気持ちを戦争へと駆り立てた。

いったい、どういう音色なのだろう。そして、どのように受け止められていたのか。私たちは、この253の楽譜をもとに、ドキュメンタリー番組を作ることとなった。

こんな曲があったのか――。253の曲のひとつは、沖縄をタイトルに背負う楽譜だった。「沖縄絶唱譜」。1945年6月23日(22日とも)の沖縄での組織的戦闘終了の直後に国民的作曲家が作ったものだった。童謡「赤とんぼ」や「この道」で知られる山田耕筰である。

曲は決して勇ましいものではなく、山田特有の抒情に満ちた美しく哀しい旋律で、歌詞の日本語の響きが、たおやかな音楽に結実していた。しかし、最大の問題がその「歌詞」だった。「沖縄絶唱譜」のサブタイトルには、こんな文言が踊っていたのである。「牛島司令官の辞世の句」。

歌詞は、このようなものだった。

 矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国(みくに)護らん
 秋を待たで枯れ行く島の青草(あおぐさ)は 皇国(みくに)の春に甦らなん

沖縄戦を指揮した第32軍司令官・牛島満中将が自決前に詠んだ辞世の句。死んでも天皇と日本のために何度でも甦って戦う、という内容である。それをそのまま、山田は歌詞に用いたのだ。

私は、沖縄戦研究の第一人者で沖縄国際大学名誉教授の石原昌家さんに「沖縄絶唱譜」の演奏を聞いてもらった。

「歌詞がなければ、荘厳な曲だなと。でも、日本軍の作戦で殺されていったようなものですからね、そういう意味では、聞かせたくないなあ、沖縄の人には」

沖縄での戦いは、本土決戦を遅らせるための、持久戦だった。結果として、県民の4人に1人の命が奪われた。さらに、昨年、牛島の辞世の句には軍の意向で手が加えられていて、国への忠誠がより強調されていたことが判明した。

戦争継続を鼓舞する内容に改ざんされた辞世の句。それを音楽にしたのが「沖縄絶唱譜」だったのだ。

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<「沖縄絶唱譜」の取材中の一コマ>

発掘の成果は、Eテレの戦後80年特番『音楽はかつて"軍需品"だった〜幻の楽譜に描かれた戦争〜』(2025年8月16日放送)として結実した。政治学者・音楽評論家の片山杜秀さんが寄せてくれたコメントが、胸の奥に刻まれている。「『沖縄絶唱譜』は、沖縄の痛みを美しさでごまかしたプロパガンダの音楽でもある。山田だけではない。多くの作曲家が時代の歯車となっていった。80年前生まれたこの美しい曲を、置き所のない不幸なものとしてしまったのが戦争なのだ」

「沖縄絶唱譜」が実際にラジオで放送されたかどうかは、いまも記録がなく不明のままだ。音楽という心に素直に響く芸術までも、戦いの手段にされてしまう――。あらためて戦争の酷さを思い知った。

3章 沖縄

広島、そして東京で仕事をしている間も、沖縄には頻繁に戻っていた。長期にわたって大事な人を継続取材していたのだ。

元ひめゆり学徒の一員の山内祐子(やまうちさちこ)さん、98歳。

本島北部・やんばるの今帰仁村(なきじんそん)に暮らす彼女のもとを、沖縄県立向陽高校の生徒たちと幾度となく訪問し、貴重な話を拝聴した。

絵が得意な山内さんは、自身の体験を紙芝居にまとめていた。それだけに、時間旅行に向かうための視覚的な想像力は、広島のときより深まった気がした。陸軍病院壕や南部激戦地など、沖縄戦の現場は、何度も歩いたことがあったことも補助要素となっていただろう。しかし、その場所がどのような匂いだったのか、どんな音が響いていたのか、寒暖は如何なるものだったか、など五感をともなう想像は叶わなかった。戦世(いくさゆ)への時間旅行は安易ではないとあらためて感じた次第である。山内さんが幾度となく、「あんたたちには想像できないはずよ」とちょっと怒気を含んだように語った言葉が痛切に刻まれた。

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<向陽高校の生徒たちと山内祐子さんの話を聴く>

番組は、沖縄の仲間(GODOM沖縄 ※外部サイトに遷移します)の協力をあおぎ、NHK福岡放送局『ザ・ライフ特別編「ラストメッセージ ひめゆり学徒の"紙芝居"」』(2025年810日放送)として結実した。

山内さんの取材は続いている。向陽高校の生徒たちが、さらに若い世代に沖縄戦を伝えていきたいとの思いで、山内さんの紙芝居を引き継ぐことになったのだ。現在進行中のこのことは、別途しっかりとお伝えしたいと思う。

振り返ると、戦後80年という節目に、私自身、強く意識していなかったのだが、一年を通して「歴史の継承」にこだわっていたことに気づかされる。それは世代を超えた大切な「記憶の時間旅行」だと感じている。

4章 職業・旅人

テレビ番組とは別に、2025年一年を通じてカメラで追い続けているのが、歌手デビュー60年の節目を迎えた加藤登紀子さんである。

分断が深まる時代にあって、歌と言葉を通じて自分にできることをしたい――その思いから、現代史の重要な地点をめぐろうとしていることを知り、ぜひその姿を映像に記録したいと考えたのだ。

4月には韓国・済州島を訪れ、3万人もの市民が犠牲となった4・3事件の現場を登紀子さんとともに歩いた。8月6日には広島へ赴き、さらに、8月末には、戦時中に彼女が生まれた中国、旧満州のハルビンにも同行した。今後も登紀子さんの歩みを追っていくつもりだが、この映像の行き着く先については、まだ私自身にも見えていない。

目まぐるしく空間を移動し、同時に時間を行き来するような旅を重ねるなかで、私は自分の肩書きをひとつ増やすことにした。「旅人」である。

旅をすれば、さまざまな人と出会い、多様な価値観に触れることができる。思考の枠は自然と広がっていく。だからこそ、これからも旅を続けていきたい。そんなことを考えながら、年の始まりのいま、不思議なことに、自分はいまだ成長の途上にあるのだと、強く実感している。

このところ、沖縄の上空が騒がしい。ジェット戦闘機が飛び交う回数が、明らかに増えているように思われる。

忌野清志郎さんはかつて、「狂ってきたこの世は騒がしいぜ こんなとこからは逃げるに限る」(『明日なき世界』)と歌った。そして、避難先として宇宙旅行に出かけることを想像している。だが、一週間ほどで戻って来ると、進軍ラッパが響き、ジェット機が飛び交うような場所に変容していたと悲観的にまとめた。――もちろん、こんな旅には決して出たくない。

清志郎さんのこの歌が、永遠に杞憂で終わることを、ただ強く祈るばかりである。

本年は、誰もが朗らかに過ごせるものであってほしい。

そして私は、出会いを求めてあらたな旅に出ることになるだろう。

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