【渡辺考の沖縄通信④】歴史に耳をすませるとき

渡辺 考
【渡辺考の沖縄通信④】歴史に耳をすませるとき

ひめゆり学徒隊を取材するなかで......

「誰がいったい、あんな戦争を始めたんでしょうかね」

怒りのこもった目で、そう訴えるのは、97歳の山内祐子(さちこ)さんだ。沖縄戦のさなか、日本軍の病院で看護補助にあたり、その半数余りが亡くなったひめゆり学徒隊の一人である。私は、この一年あまり、折を見て撮影クルーとともに彼女のもとに通い、戦争に奪われた若き日々についての聞き取りを続けている。行くたびに思い知らされるのが、戦場の過酷さと、その現実を耐え忍んだ生命力の強さ、喪失感、そして諦観だ。

「いつまで生きていられるか、一歩前に行くと死ぬのか、後ろにさがると死ぬのか。そういう状態だから、死の恐怖を乗り越えて、もはや何も考えられずに身体が自然に動く。死んだら死んだでその時はその時で終わりなんです」

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<ひめゆり学徒隊だった山内祐子さん>

山内さんを軸にひめゆり学徒隊の取材とロケを進めていくなかで、奇しくもひめゆりを入り口に沖縄戦の歴史の記憶が、再び問い直される出来事があった。

2025年53日、那覇市で開かれた改憲派のシンポジウムで、一人の国会議員が「ひめゆりの塔」周辺の説明書きについて言及したのがことの始まりである。彼が何十年も前に訪れた際に、こんな内容の文面があったという。「日本軍がどんどん入ってきてひめゆり隊が死ぬことになった。そしてアメリカが入ってきて沖縄は解放された」。この議員は「歴史を書き換えられると、こういうことになっちゃうんですよ」とも述べていた。

発言は、沖縄県内外から強い反発を招いた。

4日後、議員は東京で会見を開き、報道について「発言が切り取られている」とし、記者の「思い込み」でなされたのではないか、と主張した。しかし、発言そのものの撤回はしないという姿勢を崩さなかった(その後、最終的には撤回と謝罪に追い込まれた)。

歴史をどの視点で見るのか

この事態に沖縄の放送局はどのように向き合ったのか。

琉球朝日放送(QAB)は、情報番組『CATCHY』の中で十数本のストレートニュース、そしていくつかの特集を組んでいる。それらを横断すると、沖縄戦をめぐる歴史認識や教育が問われた過去の事例もあげながら、この問題の一過性、特異性ではなく、連続性を見つめようとしていることがわかる。

記者の塚﨑昇平さんに話を聞いた。塚﨑さんは、「誰の視点で歴史を見るのか」という点を強調してニュースや特集を編んだという。

「沖縄県民の間で語り継いできた沖縄戦の歴史は『軍隊は住民を守らない』という言葉が象徴するように日米に翻弄された住民の視点の歴史です。決してどちらかの国家の為政者の視点ではなく、米国を擁護する意図は全くありません」

「日本軍に虐げられ米軍に『助けてもらった』と感じた住民も米軍に保護された瞬間だけ『切り取れば』多くの証言がありますが、その後の米軍統治下の圧政や現在まで続く基地問題などにレンジを広げれば『日本軍が悪で米軍が善』などという単純な構図で語れるものではありません」

「どの視点でとらえるか」という問題は、現在の米軍基地問題についても広く及んでいると語る。

「私たちが米軍基地に批判的な目を向けるのは、基地と隣り合わせで生活する住民の立場から騒音や事件事故、基地拡張、さらには有事の攻撃対象になるリスクなどの問題があるからです。この『住民視点』が抜け落ちているのが議員の歴史観の問題点であり、さらには基地問題をめぐる視点にも大きな影を落としていると思います」

5月3日のシンポジウムをテレビ局として唯一収録していたのが琉球放送(RBC)だった。憲法記念日ということで護憲派と改憲派、どちらの集会もカメラを出して取材していたという。発言を受けて、翌週56日の『RBC NEWS Link』で特集を組んだ。

その後、RBCは、「日本軍が住民を守らなかった」という史実を示す過去の番組を再放送することで、議員の発言を否定することを検討していたという。実際には、再放送には踏み込まず、『RBC NEWS Link』で数度にわたって議員のその後の発言撤回に至るまでの動きを報じ、発言をノーカットで見られるようYouTubeにアップした。

今回の問題を受け、淡々と歴史的事実を粘り強く伝え続けることが沖縄の放送局の役割だと痛感したと話す。

「やはりRBCがこれまでに記録してきた体験者の証言を幅広い形で伝えることが大事だと思っています。『事実としてこういう証言が残されている』ことを示し、最終的な結論は視聴者に託してもよいのではないかと考えています」

取材の蓄積が沖縄戦の記憶をつなぐ

「あの発言は決して許されるものではありません。しかし、何があっても沖縄戦の体験が揺らぐことはなく、逆に無知が平和を壊すのだと再認識する大きな契機をつくったことは間違いないと思います」

そう力強く語るのは、沖縄テレビ放送(OTV)記者の山城志穂さんだ。

沖縄戦体験者が深い傷を抱えながらも語り紡いでくれた言葉を守っていかなければならない――。今回の発言を受けてOTVでは、ストレートニュースはむろんのこと、沖縄戦について伝えるレギュラー企画「戦世から80年」に加えて、特別企画「沖縄戦の体験はゆるがない」と題した全5回のニュース特集を放送した。

体験者に加えて、沖縄戦の記憶継承に取り組む戦後生まれの世代にも取材を重ね、さまざまな視点から「沖縄戦の体験」について考察した。

「生の声が聞けなくなったとき、沖縄戦を伝えることや平和教育の説得力はどう保たれるのか......。その焦りと同時に、沖縄県民が能動的につくってきた平和と、それを支える数々の証言や史料が残されていることに気付かされました。私たちは残されたものを大いに活用しながら、沖縄戦の実相を歪めようとする動きに対する防波堤を築いていかなければならないとあらためて思っています」

「沖縄戦の終わりから80年。今年は未来に向けて記憶をつなぐ始まりの年だ――」

山城さんが出会った沖縄戦体験者の言葉だ。

「私は一つの希望を見たような気がしました。小さくなりつつある声に真摯に耳を傾け、過去に向き合い、学び続けたいという人々がたくさんいる。これからを生きる世代に記憶が託される節目を今迎えているのかもしれませんね」

NHK沖縄放送局では、細かくデーリーニュースでこの問題を扱い、全国放送でも『NHK NEWS おはよう日本』や『ニュースウオッチ9』で特集を組んだ。

各放送局の取り組みはそれぞれだが、見えてきたのは、これまで不断に積み上げてきた貴重な証言や番組を盾に毅然として歴史の歪みに立ち向かおうとしている姿である。

教育が持つ二面性

敗戦後、元ひめゆり学徒隊の山内さんは、小学校の教員になった。

「子どもたちの未来をつくること、それが傷ついた沖縄の復興にもつながると思ったんです。だから喜んで先生になりました」

山内さんが、何よりも熱を込めるのは、教育の持つ二面性である。

「国のために死になさいと教育の力でそう鍛えられて、本当に少しも死ぬということに対して疑問を持たなかったというのはね、どんなに教育というものがね、恐ろしいものかと」

軍国教育を叩き込まれた「軍国少女」が、戦争を体験し、そして戦後、教壇に立ち続けて、子どもたちに触れて、掘りあてた重い自省の言葉である。だからこそ、沖縄で昔から大切にされてきた言葉、「命どぅ宝」(ぬちどぅたから=命こそが宝)を一番の教育の軸にしてきたという。

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<山内さんが死の淵に立たされた喜屋武岬の周辺>

前述の議員は、沖縄の戦後教育についても語っている。「沖縄の場合、地上戦の解釈を含めて、かなり無茶苦茶な教育のされ方をしてますよね」。山内さんら、沖縄の教育者への挑戦状にも受け取られる言葉でもある。そして皮肉にも「無茶苦茶」と断じる当人の背景に横たわる「教育の力」の恐ろしさも感じられずにはいられない。

大江健三郎は、『沖縄ノート』で「沖縄とそこに住む人間とにたいする本土の日本人の観察と批評の積みかさねには、まことに大量の、意識的、無意識的とをとわぬ恥知らずな歪曲と錯誤とがある」と綴る。

語られる歴史には、丁寧な検証と誠実な対話が求められる。とりわけ、沖縄戦のような深い傷をともなった記憶については、なおさらだ。現実に真摯に向き合うことなく、「書き換え」と「無茶苦茶な教育」と断じることに、どれほどの慎重さがあったのか。

山内さんへの数度にわたるインタビューは先日終わったが、ロケの最後に賜った言葉が脳裏に刻まれている。

「とにかく命を守れるためだったら、どんなことでもやったほうがいいなあ。平和に向かっていく人を育てることが何よりも大事と思う」

声なき声に......

6月19日、私は、ひめゆりの塔の前にいた。意識していなかったのだが、奇しくも、この場所にあった伊原第三外科壕が米軍の「馬乗り攻撃」を受けてからちょうど80年目の節目の日だった。ここで、ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護師や兵士、住民などおよそ100人のうち80人あまりの命が奪われた事実を嚙みしめ、私はただひたすら瞑目し祈りを捧げた。

ひめゆりの塔に刻まれたのは、少女たちの無念と哀しみであり、それは軍の命令や戦況の混乱のなかで翻弄された""の物語でもある。

この地に刻まれた声なき声、そしてその背景にある苦しみに、沖縄に暮らすメディアの一員としてこれからも丁寧に向き合って耳をすませていかねばならぬと強く感じてやまなかった。

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