長年、勤めてきたNHK退職を目前に控えた、昨年末のことである。一本の電話を受けた。NHK広島放送局に勤務する後輩ディレクターからだった。
「こうさん。広島で、何カ月か、長期滞在して、番組手伝いませんか」
私は、自分の耳を疑った。
広島に? 私が?
実は、その直前に、わがNHK遍歴を振り返っていたところだった。20数年、日中戦争、太平洋戦争を中心に現代史に関する番組にたずさわり、長崎放送局、そして沖縄放送局での直接の勤務を通して、二つの地域の戦争は見つめ続けてきたつもりだ。しかし広島には直接的な縁はなく、これまでしっかりと向かい合うことができていなかったという後悔にも似た感情に襲われたばかりだったのだ。
後輩曰く、NHK広島放送局が長年継続してきた原爆関連番組の最新号を手伝ってほしいとのこと。こうして、私の独立後の第一歩は、広島で踏み出すことになったのである。
<筆者も参列した広島市の平和記念式典(2025年8月6日、冒頭写真を含め写真は全て筆者撮影)>
今回は、奇縁で結ばれた広島の放送局が、原爆投下80年に、どのように8月6日に向かっていったのかを見ていきたい。
核兵器被害の本質に迫る NHK広島放送局
NHK広島放送局は、夕方のニュース枠を軸として、「わたしがつなぐ」をキーワードに数多くの企画リポートを放送した。さらに、ウィークリーの特集枠「コネクト」でも若手ディレクターを中心に、次世代に被爆体験をどのように伝えるかを模索してきた。私自身、前述したように、入局したばかりの若いディレクターふたりと力を合わせて一本の番組をまとめることができた(コネクト「未来へつなぐ ヒバクシャからの手紙」NHK総合で4月25日放送〔中国地方のみ〕)。
その番組制作のために私は、3カ月あまりを広島で過ごしたのだが、そのとき、後輩の一人は、こんなふうに気概を語ってくれた。
「広島、長崎に、被爆80年の節目に居合わせたということに、私たちみんなが大きな責任を感じています。そこで何をしたか、広島、長崎からも問われるし、過去と未来からも問われる。多くが県外からやってきた私たちひとりひとりが、他人事でなく、自分事として取り組むことに意味があるように思います」
8月6日にNHK総合で放送したのが、NHKスペシャル『広島グラウンドゼロ 爆心地500m 生存者たちの"原爆"』である。タイトルの通り、グラウンドゼロ=爆心地で半径500m以内にいながら、奇跡的に生き延びた78人にスポットライトをあてた。
"核兵器が人間に与える悲惨の本質・全体像をあらためて徹底的に伝えること"。担当ディレクターが、80年の節目に、レガシーとなりうる番組として、何を伝えるべきかを考え続けた結果の選択だった。最も被害の程度が悲惨だった地域を深掘りすることで、本質に迫りうるのではないかと思い至ったからだという。
詳細にわたって原爆のメカニズムを説明しながら、それを経験せざるを得なかった被爆者の方々の苦しみをつぶさに描いた。つまり、「理系」と「文系」の要素両面で原爆を見つめていた。実証的科学的アプローチで「頭」に、78人が語った110時間に及ぶ証言テープで「心」に訴えてくる総合的作品である。
このテーマは、これまでの積み重ねが結実したものでもあった。
1960年代後半、NHK広島放送局は、実態が不明だった爆心地の取材を始め、遺族や、疎開などで離れていて助かった住民への聞き取りをした。それが、「爆心地復元運動」という市民運動に発展し、かつてそこにどんな人々が暮らしていたかの検証につながった。そこに広島大学の研究者らが参加・協力し、やがて78人の生存者が確認されたという底流があったのだ。
科学的検証の細やかさに原爆が持つ恐ろしいメカニズムを実感させられたのと同時に、被爆体験を語る人々の声を丁寧に紡ぐ姿勢に強く心を動かされた。
「核兵器を人間に対して使うとこんなことが起きるのだという強い警告を、78人の代わりに世界に発しなければならないと思いました」という担当ディレクターの言葉は深く胸に刻み込まれた。
「被害」と「加害」の両面を見つめる 広島テレビ放送
これまで『碑』(1969年放送)をはじめ、原爆をテーマとする数々のドキュメンタリー番組に力を注いできた広島テレビ放送(広テレ)。被爆80年を念頭に昨年末から始めたのが、「NEVER AGAIN」キャンペーンである。プロジェクトを率いた取締役編成戦略局長の岡田純一郎さんに聞いた。
「夕方のニュース番組『テレビ派』でも、月に一度『NEVER AGAINスペシャル』として大部分を割き、被爆80年をテーマに取りあげています。また、月1回のドキュメンタリー枠も、すべて原爆に関するテーマで放送してきました」
現在も広テレのウェブサイトでその一部を見ることができるが、歴史的アプローチから未来への継承まで、幅広いテーマで原爆に向き合った。
「NEVER AGAIN」キャンペーンの集大成が、8月2日に放送された85分の特集『キノコ雲の上と下』である。番組は「被害」と「加害」という相反する立場への問いを軸に据え、原爆投下を担ったエノラ・ゲイの搭乗員の戦後をも追った。手記や肉声テープをもとに、彼らの心の奥底に迫っている。
番組を担当したのは渡邊洋輔さん。7年前、エノラ・ゲイ搭乗員の証言テープが原爆資料館に寄贈されたのを知ったことが、企画の出発点だったという。
「米兵がどんな思いで任務に臨み、その後の人生で何を感じていたのか。証言を聞くと、"正義感"が苦悩や葛藤に変わっていった搭乗員がいたことがわかりました。原爆被害を伝えることはもちろん大切ですが、彼らの視点から原爆投下を見つめることも必要だと思ったのです」
翌年に訪ねた北京で知った事実も、被害と加害を合わせ鏡として見つめようする己の姿勢を強化することになる。
「日本軍による毒ガス使用で多くの市民が亡くなった展示を見ました。そこには広島県竹原市の大久野島で製造された毒ガスが使用されたと記されていたのです。はたと気付かされました。広島では原爆被害を訴える一方で、加害の側面について知る機会がほとんどないということに」
帰国後、渡邊さんは大久野島の取材を開始。毒ガスを使用した元兵士や、中国側の被害者に話を聞いた。
「元兵士の証言からは罪悪感や葛藤、苦悩が見えてきました。一方、被害者は今も消えない心の傷を抱えていました」
こうした取材が結実して『毒ガスの痕(きずあと)』(2021年放送)に至る。
「原爆投下も同じで、被害の視点だけでなく、加害の視点からも捉えること、そして現場にいた兵士の心情に迫り、経緯を含めて伝えることが重要だと思いました。そこから今回の『キノコ雲の上と下』につながっていったのです」
エノラ・ゲイの12人の搭乗員のほとんどは、自分たちが投下するのが原子爆弾であることを知らされていなかった。副操縦士のルイスもそのひとりだ。彼は、軍事施設を破壊するだけだと思い込んでいたという。密かに記した日誌に残されたこんな言葉にハッとさせられる。「街が消滅するとは思っていなかった。広島に与えた被害は、われわれの予想をはるかに上回っていた」。ちょっと乱れた走り書きで、自省の言葉が続く。「私たちは、いったい何てことをしたのか」
番組では、広島・長崎で被爆した二重被爆者・山口彊さんの孫と、祖父が原爆投下機に乗っていた米兵の孫が対話する場面も描かれた。
「ただ、被爆者と加害者の苦悩を並列に扱うことは本意ではありません。被爆者の"赦し"を強調することで、原爆投下を矮小化してしまうことは避けたいのです」
そのうえで、渡邊さんはこう語る。
「戦争が起きれば何がもたらされるのか。善悪ではなく、戦争という構造そのものが人間や組織を誤った方向に導いてしまう。戦争が終わり、軍人が鎧を脱ぎ、人間に戻れば、対話を通じて立場や国境を越えて歩み寄れる――その可能性を信じたいのです。逆に言えば、戦争がそれを不可能にしてしまう」
渡邊さんは、最後に強く言い切った。
「ひとたび戦争が始まれば、原爆投下のような最悪の結末に至る。歴史がそれを証明しています。だからこそ、核の脅威が高まる今、この現実を再認識する必要があるのです。戦争で犠牲になるのは市井の人々であり、戦争は言葉にならない傷痕を残すということをこれからもしっかりと伝えたい」
「映像の力」で80年前の出来事を自分事に 中国放送
中国放送(RCC)も、これまで原爆に関する数々の番組を作ってきた。そして、節目節目には大型のシリーズ企画を打ちたてている。一貫してこだわっているのが「映像の力」である。
20年前の戦後60年には、被爆2カ月後に日本映画社が撮影した映像を取りあげ、60年後の広島の街の様子と対比させ、歳月の積み重ねの意味合いを伝えた。現在もRCCのウェブサイトからそのいくつかを見ることができるのだが、焦土の映像と重ねることにより、何げなく当たり前な平時の広島の光景が、切なく愛おしく感じられる。
戦後70年にスポットをあてたのが、「70年は草木も生えない」と言われた焦土からの復興の歩み。広島平和記念都市建設法や地場企業の再建、カープ球団の発足などについて、30回のシリーズ企画を放送した。
また、20以上の言語に翻訳され、世界中で読み継がれている漫画『はだしのゲン』についても取材。歴史認識の違いを背景に、核保有5大国の中で唯一出版されていない中国で、読者に届けようと奔走する翻訳者を追い、TBSテレビ『news23』の特集で放送した。担当した藤原大介さんは、若くしてJNN北京特派員を務めた経験を持つ。
「北京で反日デモを取材した際、日本を揶揄するシュプレヒコールとともに、原爆のきのこ雲の写真が掲げられていました。先の戦争の被害国では、広島・長崎の訴えが必ずしも届いていないことを痛感しました。核なき世界を目指すなら、大国中国を巻き込むのは必須です。中国でも人気の漫画という手法で、日本の加害責任も描いた『はだしのゲン』に可能性を感じ、現地を再訪し、取材したのです」
そして今年は、戦後60年のときと同様に、被爆2カ月後に撮影された日本映画社の記録映像にこだわった。東大教授の協力を仰ぎ、AIを使ってカラー化を試みたのだ。
鮮やかに彩色された被爆地、広島。細部の情報が立ちあがり、それまでわからなかった空気感まで伝わってくる。白黒映像だと、「過去の出来事」として他人事としてとらえてしまいがちであるが、カラーのリアルさは、私たちの日常の地続きで、自分事として鋭利なナイフを突きつけられるようだ。
AI技術にも限界があるため、当時を知る被爆者や専門家の目を通してできる限りの検証作業を重ねた、とプロジェクトを率いた報道制作局専任局次長の小林康秀さんは語る。
「被爆者が見た『当時の広島』に近づける修正に最も時間をかけましたが、同時に大元のモノクロームの映像が一番貴重であることも痛感しました。比較し視聴することで、放射線への恐怖もあるなかで決死的撮影に挑んだスタッフが当時いたという重い事実、その結果、私たちが被爆の惨状を知ることができることをあらためて感じてほしいのです」
また、広島の原爆の歴史を世界に伝えたいという思いから、これまで記録した被爆者の証言を英語に翻訳し、原爆の惨禍を伝える3部構成のドキュメンタリー『Hiroshima:All the Days that Follow』(外部サイトに遷移します)を制作し、8月3日に放送した。小林さんは、これまでのドキュメンタリーは、原爆に関する最低限の知識があることを踏まえていた、としてこう語る。
「そのまま英訳しても、海外の人に対して行き届かない部分があったのは事実です。ですので、制作当初から海外向けを意識し、広島を訪れなくても被爆の実相に触れることができる作品を意識しました。RCCに蓄積された膨大なドキュメンタリーアーカイブスの中から、厳選された被爆証言などの記録を再構成しました。3部構成に分割しているのは、教育的なディスカッションの場で活用しやすくするためです」
8月終わりに放送されたのが、NHK広島放送局制作のETV特集『ヒロシマからの手紙~"原爆"を綴ったアメリカ人たち~』(8月23日放送)である。そこで焦点をあてられたのが広テレの『キノコ雲の上と下』と同じ加害側の視点。原爆開発にあたった米科学者たちの悔悟から始まり、トルーマン大統領の心中まで迫ったのだ。私は初めて知ったのだが、原爆投下の正当性を主張し続けていたトルーマンは、その一方で、ある人物に宛てた手紙にこう綴っていた。「核兵器は市民を大量虐殺するという点で毒ガスや生物兵器よりもはるかに悪だ」。つまり、「国家の大義」の影に「個人の良心」もあったのだ。戦争の複雑性を痛感すると同時に、だからこそ、それを回避するための不断の努力と思考が必要なのだとあらためて思った。
総合的に戦争を捉えること――。80年目の節目の番組群と向き合うことで、見えてきたのは、原爆関連番組の現在地点のみならず、未来への予感だった。
*
8月6日。午前8時15分。平和記念公園は、祈りと静寂に包まれ、ただセミの鳴き声だけが響いていた。
夕刻になり、私は、多くの被爆者が水を求めて集まった元安川のほとりに赴いた。
目の前にいた小さな子が、火がともった灯籠をそっと流れに置いた。「世かいからかくへいきがなくなりますように」と書かれた灯籠は、ゆっくりと薄暮の流れに乗って消えていった。
<元安川を流れていく灯籠>
(編注)2025年9月2日に一部加筆しました。
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