出来事を記録する使命感と悩み 記録する意義を再確認【私の民放ドキュメンタリー鑑賞記】⑦

城戸 久枝
出来事を記録する使命感と悩み 記録する意義を再確認【私の民放ドキュメンタリー鑑賞記】⑦

ローカル局が「地域密着」「長期取材」による優れたドキュメンタリー番組を放送していることは知られていますが、その局以外の地域の視聴者が目にする機会が少ないという現状があり、ドキュメンタリー番組の存在や価値が社会に十分に伝わっていないという声も聞かれます。
そこで「民放online」では、ノンフィクションライターの城戸久枝さんにローカル局制作のドキュメンタリーを視聴いただき、「鑑賞記」として紹介しています(まとめページはこちら)。ドキュメンタリー番組を通して、多くの人たちに放送が果たしている大切な役割を知っていただくとともに、制作者へのエールとなればと考えます。(編集広報部)


『カメラを止めた、あの日-被災者を撮るということ-』

北陸朝日放送(テレビ朝日系列「テレメンタリー2025」で202545日放送)
「撮って何がうれしいんだ。ふざけんじゃねえよ。金のネタにでもするのか」
能登半島地震が発生した2024年1月1日。倒壊した建物のそばでカメラを向けた被災者に、そんな言葉をかけられた報道カメラマンがいた。逃げるように現場を離れ、カメラを止めた彼は、その日、再びカメラを回すことはなかった。

これは、北陸朝日放送輪島支局の輪島市在住の報道カメラマン、小田原寛さんが、カメラを止めたその日から、その事実に向き合い続けた魂の記録だ。

小田原さんも被災者の一人である。自宅は半壊し、裏山は崩れかけたまま。彼は地震のあと、力強く集落の復興に立ちあがった。重機などの復旧に必要な資格は自ら取得した。「俺たちの美しいまちを破壊しやがって」と誰にぶつけていいかわからない怒りに涙を流す小田原さん。だが、彼の前にさらに厳しい現実が立ちはだかる。希望を込めて作っていた米は、9月21日に発生した能登豪雨により全滅したのだ。それでも、またここから立ち直っていくしかないと前を向く小田原さん。彼は自分の姿をさらけ出し、被災者として「撮られる」ことであの日の出来事に向き合おうとしているように見えた。花火大会の撮影で、カメラを向けた女の子の「未来に向かって歩いていってほしい」という言葉に彼は涙を抑えることができなかった。

最後に、番組のディレクターが、現在、神奈川県川崎市で居酒屋を営んでいる冒頭のあの被災者に会いに行く。倒壊したビルの下敷きになった自宅で、妻と長女を亡くしたその方は、今もなお、倒壊した建物の下でまだ生きていた長女を助け出せなかったことを悔やんでいる。小田原さんにカメラを向けられたときのことはよく覚えてはいない。そんなことはどうでもよかった。ただ、目の前の家族を救いたいのに救えないという極限に彼はいた。番組のなかで小田原さんとその方が再会する場面はない。だが、それでいいと思う。

カメラもペンも、向けられた相手にとっては、凶器になりうる。当事者の痛みは、当事者にしかわからない。記録として残さねばならないという使命感は、撮る側の身勝手な言い分なのだ。私も、戦争体験の取材をするなかで、「お前にわかるわけがない」「利用しているのではないか」という声をかけられることもあった。自分がどのような立ち位置にいるべきなのか、思い悩んだときのことを思い出す。私たちにできることは何なのか。それは、今もあの日と向き合い続ける小田原さんと同じように、自分たちが取材する意義を問い続けるしかないのだ。

『みちしるべ 高校生と命のビザ』

西日本放送(日本テレビ系列「NNNドキュメント'25」2025518日放送)
第二次世界大戦中のヨーロッパ。ナチスに迫害を受けた多くのユダヤ人が、中立国であったリトアニアにある日本領事館に押し寄せた。彼らが求めていたのは日本の通過ビザ。シベリア鉄道から日本を経由して第三国に逃れるために必要だった。当時、リトアニア領事官の領事代理だった杉原千畝は、外務省の反対があったにもかかわらず、ビザを発給し続け、約6,000人のユダヤ人の命を救った。

番組が追うのは、杉原千畝の妻、幸子さんが通った香川県立高松高校の生徒たちによる杉原千畝について学ぶ3年間のプロジェクトだ。なぜ、杉原千畝はビザを発給し続けたのか。自分たちが杉原夫妻の立場だったら、そんなことはできただろうか。賛成、反対の立場から、高校生たちは議論を重ねていく。

訪れたアウシュビッツの強制収容所で、多くのユダヤ人が命を落としたガス室で壁に残された爪のあとに衝撃を受け、リトアニアの元日本領事館(スギハラ・ハウス)では、千畝のもとに押し寄せたユダヤ人との距離感を肌で感じた高校生たち。さらに、杉原夫妻の孫である杉原まどかさんからは、孫から見た祖父母への思いに耳を傾ける。「人として当たり前のことをしただけ」。まどかさんが聞いた千畝の言葉はシンプルだが力強い。学びを深めるなかで、高校生たちの表情がたくましくなっていく。

だが、千畝が発行した命のビザにより生き延びたスギハラ・サバイバーとよばれるユダヤ人の子孫に会うためにイスラエル訪問を計画していた矢先の2023年10月、ハマスの攻撃にイスラエルが反撃、戦闘が始まったことにより、高校生たちのイスラエル行きは中止になった。かつて千畝が命を救うためにビザを発給した人々の国が、いま、戦争を起こしている。戦争により、何の罪もない命が失われる現実が、再び繰り返されてしまったのだ。さらに、杉原夫妻の孫、まどかさんには、「千畝さんが助けた人たちがいま逆に大量に虐殺している」と非難の声が届いたという。まどかさんは「千畝はどんな民族も助けると言った。この話を広げてほしい」と高校生たちに伝えた。

私も戦争体験を聞き書きするとき、加害と被害のはざまで、何が正しいのかわからなくなることがあった。自分たちがこれまで学んできたことは何だったのか......。考えても考えても答えはでなかった。高校生たちは本気で悩みながら、自分たちなりの答えを探そうとしていた。もちろん答えは簡単に見つからないだろう。だが、彼女たちがこれからの将来、戦争について、平和について考えていくとき、これらの悩み苦しんだ経験は間違いなく何物にも代えがたい大切なものになっているはずだ。

『鈴木順子 私は生きる~JR福知山線事故20年~』

毎日放送「映像'25」で2025427日放送(TBS系列「ドキュメンタリー『解放区』」で202561日放送)
2005年4月25日に起こったJR福知山線脱線事故。運転士と乗客106人が死亡し、562人の負傷者を出した。兵庫県宝塚市に住む鈴木順子さん(当時30歳)は、負傷者のなかでも最も重症の一人。本作品は鈴木順子さんとその家族の生きてきた20年を追ったドキュメンタリーである。

事故当時、2両目に乗っていた順子さんは、発見されたとき、意識もなく、年齢も性別もわからない状態だった。医師からは再起不能と言われたが、順子さんは奇跡的に目を覚まし、言葉を発した。

番組は長い年月のなかで変化していく順子さんの姿をとらえていく。言葉が増え、笑顔を見せ、冗談さえも話すことができるようになった順子さん。事故から10年たつころには、料理ができるようになっていた。カメラに映る姿からは、順調に回復しているように見える。だが、高次脳機能障害の影響で、事故の記憶があいまいになった。自分がなぜ車いすなのか、自分は何歳なのか......。「私は電車の事故にあって体が不自由になりました。今は38歳です」

陶芸に取り組む順子さんの表情はなんとも穏やかだ。陶芸を「自分の仕事」と話し、作品展を開くことを目標に、陶芸に取り組んできた。挑戦した大皿に描かれた絵はカクレクマノミ。大きく一匹描かれているが、よく見ると、周囲にも仲間たちの姿が見える。彼女はクマノミが群れであることにこだわっていた。出来上がった作品を見て、「この魚一匹だけではなくて、群れで泳いでいる魚」とかみしめるように言った。記憶障害がありながらも、自分がこの作品を作った思いはしっかりと彼女の記憶に刻まれていた。2025年4月、順子さんと仲間たちの作品展が開催された。

事故から20年。彼女は言う。「どんな20年だったか。ひとことではなかなか言えないです。いろんな方の助けがあってここまで私は生きてこれたと感じている。ありがたいです」

JR西日本の社員の多くは、事故当時のことを知らないという。事故の記憶は風化していくだろう。だが、あの事故で多くの人が犠牲になったこと、そして順子さんのように今も苦しむ人もいることは、彼女の生きる姿を通してしっかりと記録に残っていく。タイトルの「鈴木順子」という、彼女の書いた文字は、何としても生きていくのだという意志が込められているようで、力強さを感じた。

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