【阪神・淡路大震災から30年】ラジオ関西 被災した地域の人々と同じ目線で

丸山 茂樹
【阪神・淡路大震災から30年】ラジオ関西 被災した地域の人々と同じ目線で

1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災。マグニチュード7.3の大地震は国内で観測史上初の震度7を記録し、関連死を含めて6,434人が亡くなりました。被災地の民放各局は本社や社員自身が被災した中で、情報を発信しました。その大震災から今年で30年。民放onlineでは、兵庫県域局や在阪局の方に当時の振り返りや経験の伝承などについて寄稿いただきました(まとめページはこちら)。

今回は、ラジオ関西OBの丸山茂樹さんです(冒頭写真は被災したラジオ関西社屋)。


関西で大地震は発生するのか......? 阪神・淡路大震災が起こる前、ラジオ関西の早朝ワイド番組『谷五郎モーニング』担当プロデューサーとして、私は幾度かそれをテーマに取り上げていた。1993年7月の北海道南西沖地震で奥尻島を大津波が襲ったとき、いち早く番組で義援金を募り、関西で大地震が起きる可能性について特集した。94年10月の北海道東方沖地震も詳報した。94年秋に兵庫県猪名川町で群発地震が起きたときは、なおさら熱心に取り組んだ。そしてゲストに招いた地震学者の「関西では100年から150年間隔で大地震が発生している」という見解を、「みなさん注意しましょう」というお題目とともに一度ならず放送していた。

地震発生時

30年前の1月17日のあの瞬間、私はラジオ関西の局内で6時半からの放送に間に合わせるべく、共同通信からのファクス原稿を編集していた。「長い地震だなあ......」と思った。天井や窓の外に視線を漂わせながら「これは危険だ」と事務机の下に滑り込んだ。間一髪だった。背後から書類の詰まった戸棚が、重い音とともに倒れかかり机で止まった。事務机の下の狭い空間で、震度7の大揺れを受けていたが、不思議と恐怖感はなかった。それよりも、頭を思い切りバシッとシバかれた気がした。

「お前は関西に地震が来ることを、本当に信じていたのか。本気で放送していたのか。 教えてやる。これが本物の地震だ」

私はそれまでの底の浅い放送姿勢を誰かに痛罵された気分だった。恐れ入っていた。やられたなと思った。

放送は――

机の下からなかなか抜け出せなかった。物品が折り重なり、阻んでいた。ようやく這い出て大部屋を見渡すと、非常自家発電の明かりに浮かんだ局内は、崩れたコンクリート壁が巻き上げた土埃で白濁していた。何者かが大きな手で机や書棚、ロッカーなどをかき回したゴミ置き場みたいで、そのむごい景色のなかで私は、「これでラジオ関西も終わりかもしれないな」と思った。

プレゼンテーション1.jpg

<局内の廊下の壁は地震で剥がれ落ちた>

後になって幾度も質問された。「逃げることは考えなかったのか? 余震によるビル倒壊のことは?――」考えなかった。なぜと聞かれても明快に返事ができない。この今をどう伝えるのか、それだけが頭にあった。当時局内に11人いたスタッフは屋外に自主避難して、残ったのは机の下でもがいていた私だけだった。机から這い出た後、私はなんとか副調整室にもぐりこんだ。CMバンクシステムの重量級装置が傾いている。壁際に並んでいた3台の録音素材送出の再生装置がデコボコと列を乱していた。レコードプレーヤーのターンテーブルには、スタッフが既に用意していた1曲目のレコードが乗っているのが目に入った。トーンアームをそっと持ち上げる。ターンテーブルが回った。針を落とした。どこからか音楽が聞こえてきた。副調整室を飛び出し、大部屋の社内モニタースピーカーの下まで走っていった。おお、電波を通してレコードの曲が聞こえている。放送が生きている。

13分5 秒の停波の後、罹災したラジオ関西の電波は生き返った。

ラジオができること

「何でもいいからしゃべれ! 今あなたが見てきたことを全部しゃべるんだ」私は、屋外への自主避難から戻った藤原正美アナウンサーにトークバック(副調整室からスタジオ内の出演者に呼びかける装置)で怒鳴った。彼女の喉は震えて、声にならない。「こちらは神戸市須磨区にあるAM神戸(ラジオ関西)です。みなさん落ち着いて行動してください」耳もとに吹き込むように、さらにトークバックで伝える。その一方で社員名簿を探し出し、手当たり次第に社員に電話をかけた。「会社が大変だ。すぐ出てきてくれ」

しかし思うように情報が集まらない。社員からの小さな情報をスタジオの中になぐり書きの原稿で入れる。「ラジオ関西の社員は、地震に関する情報を入れてほしい」と、通常ならあり得ないことだが電波で呼びかけた。何人かの社員からの電話をスタジオとつなぎ、メインパーソナリティの谷五郎氏には、「神戸の今がどうなっているのか、眼に見えるように聞き出してくれ」と求めた。社員が駆けつけてくる。中継チームが飛び出して行く。総務も営業もない、職場の垣根を飛び越えた、自発的で機敏な動きだった。

スライド4.JPG

被災地は停電している。テレビはだめだ。ラジオだけが頼りなのは容易に想像できた。中継チームからの放送や、社員からの電話レポートを仕切りながら、今ラジオができることは何か、それを考えていた。当直の技術部員に指示して、電話リクエストに使う電話をチェックした。8時前に"電リクのラジ関"の受付番号を放送で伝えた。「あなたに代わって安否を伝えます。ラジオ関西までお電話ください」すると電話が一斉に鳴り出した。電話受けは、集まった社員だれもが交互にやってくれた。これは阪神・淡路大震災の7年前、長崎大豪雨の際、長崎放送(NBCラジオ)が通常番組を中止して安否情報を流し続けたことを事例学習していたことから思いついたものだった。

われわれの目線は、被災した地域の人々と同じ高さにあった。リスナーからの電話は、2週間で6万通に達した。最初は「自分は無事だ」「○○さんは無事か?」というものが大半だった。その後、「ここに水がある」「赤ん坊のミルクがない」といった生活情報が増えた。さらに「人工透析ができる病院はないか?」「子どもが生まれそう」などの命にかかわる緊急情報が相次いだ。そして「○○病院は受け入れる」という情報が即座に寄せられた。それをまたラジオで流した。安否情報は「どこか風呂に入れるところは?」といった行政への要望へと変わっていく。寄せられた伝言のすべてを電波に乗せた。平常時ならウラをとるべき情報が洪水のごとく流れ出たにもかかわらず、大きなトラブルは起こらなかった。被災者と被災者をつなぐ信頼の絆があった、と今は思う。

マイクの向こうにリスナーの顔が見えていた。被災者が必死にかじりついて放送を聞いているという実感があった。リスナーと一緒に番組を作っている、と誰もがそう感じていた気がする。異常な災害現場は、その場にいる者にしか感知できない磁場を作っている。だからこそラジオ関西は、震災情報局になりえたともいえる。そして、「関西にも地震はあるのだ」と訳知り顔で繰り返し放送していた自分自身に、今も大いに恥じ入っている。

本物の天災は忘れたころに必ず、必ずやってくる。


【編集広報部注】
ラジオ関西のウェブサイトには、震災報道の記録をまとめた「震災報道の記録『被災放送局が伝えたもの』」(外部サイトに遷移します)が掲載されています。

最新記事