【阪神・淡路大震災から30年】Kiss FM KOBE "キスナー"から寄せられる情報が大きな助けに

岸本 琢磨
【阪神・淡路大震災から30年】Kiss FM KOBE "キスナー"から寄せられる情報が大きな助けに

1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災。マグニチュード7.3の大地震は国内で観測史上初の震度7を記録し、関連死を含めて6,434人が亡くなりました。被災地の民放各局は本社や社員自身が被災した中で、情報を発信しました。その大震災から今年で30年。民放onlineでは、兵庫県域局や在阪局の方に当時の振り返りや経験の伝承などについて寄稿いただきました(まとめページはこちら)。

今回は、Kiss FM KOBE(兵庫エフエム放送)で当時、技術担当をされていた岸本琢磨さんです(冒頭写真は地震の揺れで機材が移動したダビングスタジオ)。
なお、当時の正式社名は兵庫エフエムラジオ放送であるが、本記事では「Kiss-FM」と表記します。


震災当日

1995年1月17日火曜日の早朝5時46分。前日、兵庫県北部のスキー場で友人とスキーを楽しんだ私は眠りについて間もなく、トラックが家に突っ込んだかのような激しい揺れで飛び起きた。当時27歳だった私の記憶に残る父の第一声は、「戦争の空襲みたいや」だった。その後「揺れ戻しが来るから準備しとけ」が2つ目の言葉だった。

自室では「無線機器だけでも無停電に......」と思って放送局の無停電電源装置に憧れて自作していたバッテリーフロー装置が停電で作動、自局の放送が流れた。薄暗い階段を慎重に下り、割れた皿の破片を避けながら台所に向かう。5時30分に炊けていた炊飯器のご飯とポットで沸いていたお湯で作ったお茶漬けをすすりこみ、両親に「放送が流れてるから、放送局は無事や。行ってきます」と告げ、父の原付バイクを借りて家を出た。

実家は神戸市長田区の高台にあり、急な坂道を下りながら長田神社方面へ向かった。神社前のバス停付近では、両側の建物上部から炎が噴き出しており、その下をくぐり抜けて長田五番町の交差点へ進んだ。阪神電車の大開駅付近では中央分離帯が約4メートル陥没し、新開地へ向かう途中では三菱銀行(当時)の三角看板鉄塔が道路に倒れそうなほど傾いていた。

自動車が多く、道はなかなか思うように進めない。平衡感覚を失いそうになりながら、原付バイクを走らせた。神戸港(中央区)の中突堤(なかとってい)中央ビル内にあるKiss-FM局舎に到着したのは午前8時過ぎ。非常階段を使い主調整室(マスター)のある裏口から登局すると、通路には倒れたロッカーや散乱した磁気テープが山積みになって足の踏み場がなかった。

マスター裏.jpg

<マスター裏では床がひび割れ㊧、天井がはがれた㊨>

クリエイティブルームに電気は来ていない。すぐにスタジオから延長タップを大量に用意して、裸電球の照明、FAX受信やプリンターなどの電源を確保。スタジオに入るとアンプと調整卓の電源などが入ったラックがオープンテープレコーダーに寄り掛かるように斜めに倒れていた。スタジオで前日からの泊まりのメンバーと簡単なあいさつを交わし、放送機器は無事であることを確認。幸いにも局内にけが人はいなかった。

クリエイティブルームに戻ると、FAXが大量の紙を吐き出しており、停電から復旧した3時間ぶんの情報や追加情報が次々と届いていた。余震のたびにすぐ情報を入れ、新しい情報を15分や30分おきに放送した。余震が続く中、とにかく沈黙することだけは避けなければと思い、送出し続けた。

数時間後、局員も多数出社し、われわれ外注のメンバーに状況確認。外注の他のメンバーも夕刻から夜にかけて続々到着。猛者は大阪の寝屋川から自転車で登局した。

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<当時、局舎が入っていた中突堤中央ビルの1階入口>

1995年当時、Kiss-FMはバイリンガル放送で、日本語と英語、フランス語と英語、などと多岐にわたって放送していた。発災日の午前10時頃には英語での放送も行っていた。当時のスタッフとサウンドクルー(DJ)の提案で「英語しか分からん人もいるかも知れへん」と、日本語原稿をスタッフとサウンドクルーにリライトしてもらい送出した。それが功を奏して、外国人のリスナーからも「放送を聞いて避難ができた」など感謝の言葉が寄せられた。

発災翌日以降の問題

放送を維持するためには、多くの課題があった。停電で起動した発電機の燃料確保、トイレ用の水、局内に避難してきた社員の寝床確保、そして放送継続に必要な人員確保など、問題は山積みだった。

特に情報収集は困難を極めた。神戸市災害対策本部からの情報だけでは不十分で、"キスナー"(Kiss-FMリスナー)から寄せられる情報が大きな助けとなった。当時リクエスト手段として主流だったFAXを通じて、赤ちゃん用ミルク、おむつ、離乳食、水の要らないシャンプー......など、いろいろな物がさまざまな場所で配られていることを情報としてキスナーが送ってくれていた。これを活用し、被災者が必要とする物資の供給につながればと思い、放送していた。間違った情報にならないように、できるだけ裏を取り、情報を流していった。

サテライトスタジオ「マリスタ」.jpg

<サテライトスタジオ「マリスタ」はCDが散乱>

時間がたつにつれ、情報は徐々に民間から行政へ移り「自衛隊運営のお風呂」「船による代替交通」「鉄道代替バスの運行状況」など、被災者の日常生活を支える情報が主となった。しかし、復興期間中には東京で起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件など他のニュースが注目され、神戸への関心が薄れていく様子を目の当たりにし、「情報とはこうして風化していくものなのだ」と実感した。

経験を継承するために

当社では、2015年に「1.17プロジェクト」を立ち上げ、毎年1月17日の特別番組では、神戸市中央区の東遊園地で行われる「阪神淡路大震災1.17のつどい」からの生中継や、「知る、備える」をテーマにしたインタビューを届け、震災の記憶を風化させない取り組みを行っている。また、毎年1月は兵庫県の「減災月間」として位置づけられており、この期間中、サウンドクルーが「減災への取り組み」を呼びかける減災対策スポットを放送し、大規模災害への備えを呼びかける。

そして、震災から30年の今年は、地元兵庫県のラジオ局でともに阪神・淡路大震災を経験したラジオ関西と、あの日の「出来事」を、今までの「頑張り」を、皆さんの「声」で遺していくプロジェクト『REC KOBE 1995』を立ち上げた。震災から30年がたった今だからこそ、未来に遺しておきたい「あの日のこと」「あの日への想い」「後世へのアドバイス」「頑張ったあの人の背中」「各企業の取り組み」などを音声データでアーカイブ化して、CMや番組など放送を通じて発信。1月17日に初めての試みとなる2局同時生放送を実施した。

2025年3月にはラジオ放送が100周年を迎える。ラジオメディアは震災だけでなく、水害や雷害といったさまざまな自然災害への対応でも重要な役割を果たしてきた。

これからもリスナーに寄り添い、一緒に考え続ける存在であってほしいと願う。

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