1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災。マグニチュード7.3の大地震は国内で観測史上初の震度7を記録し、関連死を含めて6,434人が亡くなりました。被災地の民放各局は本社や社員自身が被災した中で、情報を発信しました。その大震災から今年で30年。民放onlineでは、兵庫県域局や在阪局の方に当時の振り返りや経験の伝承などについて寄稿いただきました(まとめページはこちら)。
今回は、震災後に生まれ、震災30年の報道に携わった読売テレビ放送の神田貴央さんです(冒頭写真は、2025年1月17日に神戸市の東遊園地で行われた追悼式典「1・17のつどい」)。
教科書上の「阪神・淡路大震災」
私は阪神・淡路大震災が発生してから4年後に神戸市で生まれました。小学校のころには毎年、犠牲者への追悼と復興への思いが込められた歌「しあわせ運べるように」を歌いました。今でも歌うことができます。ただ、子どもだった私には、歌詞に込められた意味や思いまで読み解くことはできませんでした。神戸の街が受けた被害は、テレビでの映像をとおしてしか知らず、教科書に載っていた震災は「歴史上の出来事」でした。
私が神戸支局に配属されたのは2024年の夏。震災30年の報道で、何を伝えるべきなのか。明確な目的がなく、震災を経験していない私にとっては手探りのスタートでした。在阪局の記者は毎年1月17日に兵庫県内各地で開催される震災の追悼行事を取材します。しかし、これまで応援記者の1人でしかなかった私には、当時の話を聞ける取材相手はいませんでした。取材相手を探していたところ、先輩社員にある親子を紹介してもらいました。
亡くなった兄を思いつづける母を見続けてきた妹
高井千珠(ちづ)さんは震災当時32歳で、双子の母親でした。阪神地域の実家で被災、家屋の倒壊で、双子の兄・将くん(当時1歳)が亡くなりました。千珠さんの心には深い傷が残り、震災後も将さんの分までご飯を作ったり、幼稚園に通うためのカバンを作ったり、将くんに思いをはせながら生活を続けてきました。その様子を見ながら、成長してきたのが妹のゆうさんです。
ゆうさんは小学生のとき、「私と将くん、どっちが死んだらよかった」と尋ねることがあったそうです。思春期に入ると、生活態度を注意する千珠さんに対して、「兄が死んだからお母さんは私を自由にさせてくれない」と言って、ぶつかりました。千珠さんは当時を振り返って「将くんを失ったことを悲しんでばかりいた。ゆうさんには気を遣わせ続けてきた」と話しました。ゆうさんは今年32歳、震災当時の千珠さんと同じ年齢になります。兄や兄を思う母をどう思ってきたのかという問いに、「まだ言葉にできないんです」と答えました。
<高井千珠さん㊧と娘のゆうさん㊨>
「亡き兄を思う弟」周囲の期待とのギャップ
ほかにも、取材を受けてくださった親子がいます。震災で子どもの兄妹を失った米津勝之(かつし)さんと、震災後に生まれた次男の凜さんです。凜さんは小学校に通い始めた際、亡くなった兄が使っていたランドセルを背負うことを選びました。亡き兄を思う弟のけなげなストーリーは映像や活字でメディアに取り上げられました。
<米津凜さんが背負ったランドセル>
私とのインタビューで凜さんは、「ランドセルを背負ったのは両親が喜んでくれると思ったから」と明かしました。小学校や中学校では、周囲から「震災で亡くなった兄を思い続ける弟」として見られ続け、自分の本心との差に気付き、葛藤を感じ始めたといいます。そして、いつしか震災の話を避けるようになっていました。ようやく震災と向き合うことができるようになったのは、成人してからのこと。現在22歳の凜さんは特別支援学校の先生として働いています。「兄のことを考え続けてきた自分の経験を生かして、命について子どもたちに伝えたい」と思いを新たにしていました。
<米津凜さん>
震災を知らない私たちの世代へ
今年で震災から30年、ひとつの世代が入れ替わるほどの時間が過ぎました。私が生まれ育った神戸の街は復興を遂げて、震災の影はすっかり消えてしまったように見えます。しかし心の傷は世代を超えて残っていました。大切な人を失うことは、失った本人だけでなく、その子どもたちの世代にまで影響を与えていました。もしかすると、神戸で生まれ育った私の友人にも震災で傷ついた家族の子どもがいたかもしれません。そのような意味では、震災は未経験の世代にとっても、遠い存在ではありませんでした。
私たちの報道にはあの日の出来事を風化させないという使命があります。震災を知らない私のような世代が増えるなか、震災に向き合ってもらうには、まず震災が身近に存在するものであると知ってもらう必要があります。そのように考えたことから、今回、親子の関係をテーマにしたVTRを制作しました。
一方で、当事者の悲しみばかりを伝えるVTRはもう十分という声も届きます。読売テレビでは入社4年目に、視聴者センターの研修で、視聴者からの声を直に聞きます。1月17日の直後に研修を受けた同期は、「被災者の悲しみを伝えるのはもうよいから、当時得られた教訓を伝えてほしい」という声を複数聞いたそうです。阪神・淡路大震災の発災日を、防災のきっかけにすることは重要な視点だと思います。震災の悲惨さや痛みを知らなければ、教訓も頭に残りにくいのではないでしょうか。
今、神戸市内で街頭インタビューをしても、「"1・17"が何を意味するのかを知らない」という声を簡単に聞くことができます。視聴者が次の震災に備えるきっかけにするためにも、これからも被災者やその家族と向き合い、声を拾い上げていきたいと思います。