RKB毎日放送・大村由紀子さん BC級戦犯の取材から見えたもの 戦争体験者から次世代へのメッセージ【戦争と向き合う】⑮

大村 由紀子
RKB毎日放送・大村由紀子さん BC級戦犯の取材から見えたもの 戦争体験者から次世代へのメッセージ【戦争と向き合う】⑮

シリーズ企画「戦争と向き合う」は、各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていく企画です(まとめページはこちら
第15回はBC級戦犯をテーマに番組・映画をつくっているRKB毎日放送の大村由紀子さん。この取材を始めるいきさつや内容の紹介とともに「戦争の惨禍」を伝える意義を執筆いただきました。(編集広報部)


私が戦争を伝える番組を作りはじめたのは、いつからか――。実は50歳近くになるまで、短いニュースリポートを作ったことはあっても、真正面から番組制作のテーマとして向き合ったことはなかった。私が小学生だった1970年代、平和授業で実際に戦争を経験した人たちから直接話を聞く機会が多くあり、生々しい証言に身震いした。母は福岡大空襲の際、川に身を沈めて、ヒルが身体に吸い付き、水がだんだん生ぬるくなる中で戦火をやり過ごしたという話をしていた。要は怖かったのだ。しかし、年を重ね、また憲法改正の議論など社会の空気が変わっていく中で、若い世代に戦争を伝えなくてはならないという気持ちが強くなった。

一次資料を通じて体験者の思いを......

本格的にリサーチを始めたのは、戦後70年を迎える少し前からだった。戦争を伝える番組を制作するには、とにかく手間と時間がかかる。戦争体験を語れる人は時間がたてば少なくなってくるし、古家を処分したりして資料も散逸する。証言者を探そうとリサーチを進める中で、地元の戦争資料館に展示されていたBC級戦犯の遺書に行き当たった。

遺書を書いたのは、米軍が管理していたスガモプリズンで死刑執行された藤中松雄さん。福岡県嘉麻市の出身で元海軍一等兵曹だった藤中さんは、1950年に28歳で命を奪われていた。直筆の遺書は21枚。丁寧に鉛筆で書かれた小さな字が、便箋をびっしりと埋めていた。妻や二人の幼い息子に向けて、優しい言葉遣いながらも、はっきりと「戦争絶対反対」という強いメッセージを発していた。ご本人が亡くなっていても、一次資料を集めれば、その人の思いを伝えることができるのではないかと考え、資料探しに本腰を入れることにした。

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<法廷での藤中松雄さん>

東京裁判で東條英機元首相ら7人が死刑になった「A級戦犯」を知っている人は多くとも、現場の兵士や軍属も含めて戦争犯罪に問われた「BC級戦犯」を知る人は少ない。しかし、日本が占領していたアジア太平洋各地で開かれた約50の法廷で裁かれて死刑を執行されたのは920人にも上る。BC級戦犯の多くは「捕虜虐待」で、藤中さんが関わったのも、墜落した米軍機に搭乗していた米兵3人を捕虜として処遇せずに殺害した「石垣島事件」だった。BC級戦犯を唯一国内で裁いた横浜裁判で元日本兵41人に死刑が宣告されたケースだったが、研究している人がおらず、国立公文書館や国会図書館で一つ一つ資料を当たっていくことにした。

「世界永遠の平和」を叫んでほしい

法務省は1960年ごろからBC級戦犯の元被告や弁護人らに聞き取り調査を実施し、資料の提供を受けていたが、公開されたのは国立公文書館に資料が移管された1999年以降で、多くは氏名がすべて黒塗りになっていた(最近は黒塗りのない資料原本が公開されるようになった)。藤中さんのご子息にお会いしてお話を聞いてみると、藤中さんが亡くなった当時はまだ3歳だったとはいえ、なぜ父親が戦犯に問われることになったのかを正確にはご存じなかった。国立公文書館にあった石垣島事件関係の資料は、氏名がすべて黒塗りだったが、かろうじてアルファベットが振られていた。被告になった46人にどのアルファベットが振られているのかを割り出す作業は難航したが、藤中さんを特定することはできた。その資料を集めて読んでいくと、藤中さんが調べの段階では上官をかばって「自分が自発的に刺した」と述べていたが、法廷では「上官からの命令で刺した」と証言していたことが分かった。事件や裁判の経過が分かると、藤中さんが、「戦争絶対反対」を唱え、息子たちやその孫にまで「世界永遠の平和」を叫んでほしいという遺書の言葉が深く胸に刺さった。

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<藤中松雄さんが遺書に記した「世界永遠の平和」への願い>

国同士の戦争で実際に殺し合うのは普通の人たち

一方、同じく福岡県出身で、福岡大空襲で母が犠牲になった翌日に、自ら志願して米兵の処刑に加わった元陸軍大尉の冬至堅太郎(とうじ・けんたろう)さんは、32歳でスガモプリズンに入所した日から6年にわたる日記を残していた。紙や鉛筆の入手が困難だった拘置所で、一行につき小さな字で二行分書かれた日記には、スガモプリズンでの日々が詳細に記録されていた。留守宅の妻や幼い息子の身を案じる心情や、空襲で亡くなった母を慕う気持ちも綴られている一方で、戦争責任を負うべきは本当は誰なのか、「戦犯裁判では個人的なことしか問われていないが、国民が選んだ政府が起こした戦争であれば、国民に責任があるのではないか」といった考えも書かれている。

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<スガモプリズンでの日々を日記に残した冬至堅太郎さん>

日記の中で冬至さんは、米兵を処刑したことを妻に話すと、妻から「その飛行士には奥さんや子どもがいたでしょう」と言われたことを回想している。冬至さんは妻に返す言葉がなかった。そして「しかし、これが戦争というものだと思った」と書いている。看守を務める若い米兵に母が空襲で亡くなったことで「今でも米兵に対して怒りをもっているか」と尋ねられ、「全然もってない。母はアメリカ人に殺されたのではなく、大きな戦争のために死んだとしか思っていない」と答えている。国同士の争いで実際に殺したり殺されたりしているのは、家族がいる普通の人たちだということだ。そして個人同士に恨みはない。

冬至さんは、1人目こそ志願して処刑したが、その後は次も次もと命令され、結局4人を手にかけた。戦犯裁判の判決は死刑だった。死刑囚として過ごす間、同じ棟にいた藤中さんを含め26人が死刑執行のために旅立っていくのを見送った。1950年6月に朝鮮戦争が始まってからほどなくして、冬至さんは終身刑に減刑された。10年をスガモプリズンで過ごしたのち福岡へ帰り、68歳で生涯を閉じた。

資料が少なく、遺族の証言も得にくい取材

藤中さんも冬至さんもずいぶん前に亡くなっているが、お二人の遺族は取材に応じてくださった。しかし、これはBC級戦犯全体から見ればまれなことで、普通の人たちが「戦犯」に問われたことで、世間から冷たい目でみられ、元戦犯の人もその家族も、戦後長い間、語ってこなかった。公文書館の戦犯資料に記された個人名が戦後70年を過ぎても黒塗りだったというのは、そうした事情があったのだと思う。国内のスガモプリズンは海外の拘置所と比べれば、少なくとも座って日記が書けるくらいの待遇ではあった。また米軍の裁判資料は公開されているので、裁判の検証も可能だった。しかし、アジア太平洋各地で裁かれたBC級戦犯については、過酷な待遇や裁判の審理がずさんであったこと等は伝え聞くものの、資料の入手も容易にはいかず、また残されているものも少ない。

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<横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)>

冬至さんは、スガモプリズンだけでなく、アジア太平洋各地で死刑になった戦犯たちの遺書をまとめることを思い立った。日記によれば、1952年4月のサンフランシスコ平和条約発効から4カ月後に「戦犯死没者遺稿編纂」の発起人になったとある。そして翌年、701篇を掲載した『世紀の遺書』が巣鴨遺書編纂会から発刊された。

繰り返してはならない「戦争の惨禍」を伝えたい

こうした「すでに亡くなった人たちが残したもの」を積み上げて、戦後80年を機に『巣鴨日記 あるBC級戦犯の生涯』を制作した。テレビ版に加えて、長尺版として映画も製作した。公文書館で見つけた藤中さんの資料については、JNNのニュースサイト、TBS NEWS DIGで「あるBC級戦犯の遺書」として連載中である。

日本国憲法の前文には「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」国民主権を宣言して、憲法を確定するとある。社会の基盤である憲法の成り立ちがそうであれば、繰り返してはならない「戦争の惨禍」とは何かを、国民一人一人に伝え続ける必要があるのではないか。日記や遺書などは「伝えてほしい」と思った戦争体験者からのメッセージであり、公文書は国としての次世代へのメッセージだと思う。ここから読み取れるものをさらに深めていきたい。 

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