能登半島地震の被災地はいま 石川県輪島市視察リポート(2025年5月1日)

編集広報部
能登半島地震の被災地はいま 石川県輪島市視察リポート(2025年5月1日)

2024年11日に発生した石川県能登地方を震源とする地震(「令和6年能登半島地震」)は、石川県輪島市と志賀町で最大震度7を観測、この地震により津波が発生したほか、家屋の倒壊、山崩れなどが能登地方の各地で起こり、甚大な被害が出た。また、同年920日から23日にかけて、能登半島地震の被災地である能登地方が記録的な大雨(「令和6年奥能登豪雨」)に見舞われた。21日から22日には輪島市、珠洲市、能登町に大雨特別警報が石川県内で初めて発令され、この豪雨により河川氾濫、土砂災害などが発生した。
能登半島地震から14カ月が経過した2025年51日、堀木卓也・民放連専務理事の視察に同行し、輪島市を視察する機会を得たので現状をお伝えする。(編集広報部)
※写真は民放連撮影。


★能登地図.jpg

のと里山空港ウェブサイト(※外部サイトに遷移します。以下同じ)より>

1. のと里山空港から輪島市市街へ

石川県輪島市は、本州中央部日本海に突出した能登半島の北西端に位置し、80キロメートル余りに及ぶ海岸線や能登半島の山なみなど優れた自然環境に恵まれている。面積426平方キロメートルのうち山地が約8割を占めており急峻な地形により平地はきわめて少ない。人口は約20,000人(25年5月1日現在。輪島市公式サイトより)。

東京から輪島市に行くには、羽田空港から「のと里山空港」に飛行機で行き(約60分、12便)、同空港から車で輪島市中心地に行く(約30分)ルートが最短。通常、この羽田―能登路線は混んでいないそうであるが、今回の日程はゴールデンウィーク期間中だったためか、往路朝便はほぼ満席だった。

のと里山空港から車で輪島市を走ると、地震と豪雨による山崩れが各所に発生しており、工事中または、今も崩れたままの斜面が残っていた(=写真①②)。また、損壊家屋の解体・撤去は、公費解体制度により一定程度進んでおり(輪島市全体で約7割)、本年10月の完了予定で作業が進められているが、市内各所に未撤去や作業中の家屋・ビル等がみられた。被災者の避難所は425日にすべての避難所が閉鎖され、被災者は「仮設住宅」(=写真③④)や親戚の家などに移っている。

①山崩れ.jpg

②山崩れ.jpg

<各所で土砂崩れの復旧作業が行われているが、重機は不足しているという>

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<各所にさまざまなタイプの仮設住宅が建つ>

  

2. 輪島朝市通り跡~損壊・焼失した建物は撤去完了し、更地に

1,300年の歴史を有すると言われる「輪島朝市」は、日本三大朝市の一つに数えられ、能登を代表する観光名所として名高かったが、能登半島地震による損壊と大規模火災で、200棟以上の住宅・店舗など約5万平方メートルが焼失した。朝市通り跡周辺(輪島市河井町)は、公費解体により今年425日にようやくがれきの撤去作業が完了し、2030年度までの再生を目指して区画整理の測量が始まっている。

実際に現場に立つと、かつて朝市で賑わっていた面影はなく、ただただ辺り一面に更地が広がっていた。周辺の街並みに比べて、朝市通りだけ町全体がすっぽり消失しており、あまりの落差に衝撃を受ける(=写真⑤⑥⑦⑧)

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<測量が行われる朝市通り跡/今年4月から始まったライトアップ用のライトが道路脇に並ぶ>

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<石畳、電柱・街灯、石柱などが残る朝市通り>

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<「朝市御休憩処」の跡>

 3. 輪島港~部分的に漁を再開、全面再開にはハードルも 

【輪島港の概要】※「輪島港復旧・復興プラン」(25年6月9日公表)より
・船舶を安全に避難し、停泊する、全国36ある避難港の1つとして重要な役割を担っている。
・市街地部には、マリンタウンが整備され、クルーズ船が寄港する旅客船岸壁や観光施設であるキリコ会館、イベントなどを催す観光交流施設、マリーナなどが配置され、大規模災害時は、防災拠点としての機能を有する能登地域の核となる港となっている。
・県内最大の漁船数、漁獲量を誇る水産基地を有している。

輪島港は能登半島地震により岸壁や海底が数メートル隆起したことにより、約200隻の漁船が座礁して動かせなくなり、漁業に不可欠な物揚場(ものあげば)などの施設にも大きな被害が出た。

2024年7月に「仮桟橋」(=写真⑩⑪)が設置され、また水深を確保するための浚渫(しゅんせつ)によって漁船の移動が可能になり、同年10月末から漁を一部再開した。しかし、漁船はまだ半数程度しか出航できておらず、生業(なりわい)として成り立っていないとのことである。全面再開に向けて陸上施設の復旧や港内の浚渫作業が継続されている。

前掲の「輪島港復旧・復興プラン」によると、短期復旧は概ね23年の完了を目標とし、中長期の創造的復興は約10年をかけて段階的に進めるとしている。

⑨輪島港の隆起した岸壁.jpg <地震で隆起した岸壁>

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<漁船からの水揚げのために設置された仮桟橋>

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<漁船から仮桟橋を挟んでベルトコンベアで水揚げするため、以前よりも手間がかかる>

⑫桟橋は未修復.jpg

<地震で崩れた輪島港の桟橋は未修復部分が多い>

4. 奥能登豪雨で川が氾濫した久手川町地区~撤去・復旧作業続く

2024年9月の奥能登豪雨によって輪島市全体で11人が亡くなった。視察した久手川(ふてがわ)町では、塚田川が氾濫して住宅4棟が流され、中学生ら4人が亡くなった。能登半島地震により上流でせき止められていた土砂が、集中豪雨で一気に流出し被害が拡大したとみられている。

視察時も損壊した家屋の残骸、山から流れてきた大量の流木などを撤去する作業が続けられていた。地形的な要因のせいか、川の片側の被害が大きい。家屋の跡地に集められた日用品などが豪雨の恐ろしさを物語る。

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<土砂災害で大きな被害を受けた塚田川流域。川を挟んで写真右側の被害が大きい>

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<昨年の奥能登豪雨で氾濫した塚田川。通常の水量は少ない>

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<家屋跡に流された日用品などが置かれていた>

⑯土砂や流木の撤去作業が進む.jpg

<土砂や流木の撤去作業が進む>

5. 輪島塗の工房~不屈の「輪島キリモト」

輪島市を拠点に200年以上の歴史を有する輪島塗の工房「輪島キリモト」は、木地づくりから漆塗りまで一貫生産して販売し、漆の家具、建築内装材なども幅広く手掛ける。震災と洪水災害を乗り越えようとする同社の「不屈の精神」は多くのメディア・番組で取り上げられている。

7代目の同社・桐本泰一(きりもと・たいいち)代表から、▶世界的な建築家の坂茂(ばん・しげる)氏の協力のもと、国や県などの補助金を得て設置した仮設工房、▶海外の顧客とオンラインで接客できる会議システム、▶地震で廃棄される輪島塗を再生する「レスキュー&リボーン」プロジェクト等について説明いただいた。

仮設工房はビールケース、砂袋、紙管、ボード、断熱材などを用いて重機を使わずに、20243月に2日間(計13時間)で1棟、5月に2日間(計12時間)で1棟という短期間で建てたもの(=写真⑰⑱)。同年9月の洪水で仮設工房は床上まで冠水したが、建物自体は無事だった。また珠洲市の同構造の建物は、震度6強の地震にも耐えたという。

桐本代表は「たくさんのメディアの方々が取材に来て応援してもらって大変ありがたい」と語った。

(※)桐本代表らが編集し特別対談・エッセイを収録した書籍『輪島と漆』(亜紀書房)が6月24日に発売。

⑰仮設工房の土台はビールケースや砂袋.jpg

<仮設工房の土台はビールケースや砂袋を使用>

★⑱仮設工房で桐本代表の説明を受ける堀木専務.jpg

<天窓やエアコンも備えた仮設工房内で桐本代表㊧の説明を聞く堀木専務理事㊨>

⑲スタジオ建物は浸水を免れた.jpg

<スタジオ建物や車はぎりぎりで浸水を免れた>

6. 白米千枚田~田植え面積は昨年比2倍に

輪島市白米町の「白米千枚田(しろよねせんまいだ)」は、日本海に面した約4ヘクタールの斜面に1,004枚の小さな田んぼが連なる棚田(たなだ)である。世界農業遺産に認定された「能登の里山里海」のシンボル的な存在で、日本の棚田百選や国指定文化財名勝に指定され、奥能登を代表する美しい絶景の観光名所であったが、昨年の地震と豪雨災害で地割れや地滑りなど大きな被害を受けた。

千枚田をのぞむ展望台がある「道の駅 千枚田ポケットパーク」は、14カ月ぶりにゴールデンウィーク期間限定で営業を再開。訪問した51日は汗ばむほどの快晴だったこともあり、多くの人々がお土産やソフトクリームを買い求めていた。残念ながら遊歩道は一部を除いてまだ通行止めになっていたが、展望台から見る千枚田と里海里山が織りなす風景は、忘れられないほどの価値がある(=写真⑳)

訪問時の千枚田はちょうど田植え直前の時期で、使用可能な棚田には水が張られていた。その後、510日からボランティアの協力も得て田植えが行われ、今年は昨年の約2倍にあたる250枚で田植えが行われたという。

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<白米千枚田と里海里山を望む絶景。写真奥と手前部分の棚田は水が張られているが、復旧できていない棚田も多く残る>

 

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<国道249号の千枚田工区は応急工事により2024年12月に2車線通行が可能になった>

 

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<道路を走ると復旧・応急工事の跡や工事中の箇所が数多く残る>


㉓隆起海岸の上の迂回路.jpg<白米千枚田近くの国道249号。写真中央の黒い部分は地震で隆起した海岸の上に作られた迂回路>

7. 坂口茂・輪島市長「全国の多くの方に現状を知ってもらいたい」

 輪島市役所で、坂口茂(さかぐち・しげる)市長を表敬訪問。坂口市長は市職員、副市長を務めて2019年に市長に就任した。

坂口市長は「地震と豪雨で開設した避難所は413日にすべて閉鎖し、避難者は仮設住宅に移ったが、次は恒久的な住まいを確保しなければならない。市内のがれきは7割撤去した。しかし、生活のための生業の再生を含め復旧・復興はこれからだ。2025年度を復興元年として『新しい輪島』に向けて取り組んでいく」と語った。

また、民放連・堀木専務理事に対し、放送事業者に望むこととして「能登半島に関するニュースが減ってきているように感じる。外から見ると復旧・復興しているように見えるかもしれないが、端緒についたところだ。全国の方に被災地・輪島の現状を知ってもらいたい。多くの方に能登、輪島に来てもらい、能登半島の現在や災害の爪あとを見てほしい。それが住民の励みにもなる。そのためにもさまざまな切り口で継続して放送で伝えてもらいたい。それが今後の防災にも役立つのではないか」と述べた。堀木専務理事は「放送を通して息の長い被災地支援を続けたい」と応じた。

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 <会談する坂口市長㊥と堀木専務理事㊨>

 
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<輪島市役所の入り口前も地震被害の跡が残る>

*    *    *


輪島市は、能登半島地震と奥能登豪雨の爪あとがまだまだ各所に残っており、復旧・復興が「道半ば」であることを目の当たりにした。地元の方にお聞きすると、能登半島地震から前を向こうとした矢先に豪雨災害が起こり、精神的なダメージが一番大きかったという。

観光客の受け入れについても、飲食店は徐々に再開しつつあるが、観光客向けに営業しているホテルが少ない(※51日時点)などの課題がある。

市が策定した「輪島市復興まちづくり計画」(20252月)は20353月までの概ね10年を計画期間としており、2011年の東日本大震災の例をみても真の復興には相当な年月を要すると考えられる。

自然、食、伝統文化などが豊かな能登半島が再生できるよう、地元の放送局だけでなく、私たち一人ひとりが現状を知り、「息の長い」応援をしていかなければならない。

 

 

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