中国放送・寺岡俊さん 被爆2カ月後の映像を見つめ直し、伝える核兵器の非人道性【戦争と向き合う】⑫

寺岡 俊
中国放送・寺岡俊さん 被爆2カ月後の映像を見つめ直し、伝える核兵器の非人道性【戦争と向き合う】⑫

シリーズ企画「戦争と向き合う」は、各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていく企画です(まとめページはこちら
第12回は中国放送の寺岡俊さん。被爆して間もない広島の姿を刻んだフィルムをもとに、撮影時の惨状やエピソードを紹介し、被爆の記憶を受け継ぐ人たちの思いを伝えるシリーズ企画「ヒロシマの記録 film of HIROSHIMA」を紹介いただきました(冒頭写真は被爆者に取材する筆者㊧)。(編集広報部)


見渡す限り焼け野原となった街。かろうじて原形をとどめている建物。病院は、大やけどを負った人や診察を待つ人たちであふれかえる。子どもたちの学び舎は臨時の救護所となり、教室には力なく床に伏す患者たち。頭髪が抜けた少女......。被爆して間もない広島の姿を刻んだフィルムがあります。これは、日本映画社(現・日映映像)のスタッフによって1945年9月下旬から10月にかけて撮影されたものです。

東京の倉庫で密かに保管されていたこのフィルムは、1993年に見つかりました。私たちはフィルムの所有者と協力関係を築き、映像に写る場所や人物への取材を重ね、この映像とともに、被爆の惨状を伝えてきました。

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<被爆から2カ月後に撮影された原爆ドーム Nichiei Eizo/RCC>

被爆80年が迫った2023年、私たちはこの映像や地元紙の中国新聞などの新聞社が所有する被爆直後の写真を、ユネスコの「世界の記憶」への登録を目指して取り組みを始めました。そして同年11月、日本政府はユネスコへの推薦を決めました。

これを契機にこのフィルムをあらためて見つめ直そうと始めたのが、シリーズ企画「ヒロシマの記録 film of HIROSHIMA」です。企画は2024年5月からスタート。これまで積み重ねてきた被爆者へのインタビューなども見直し、過去の素材も活用しながら、核兵器とはどのような兵器なのか、そういった点を丁寧に描こうと考えました。

米軍からの接収を逃れたフィルム

このフィルムは、被爆2カ月後の広島と長崎を写しています。広島の映像は、およそ2時間あります。撮影した日本映画社は、日本政府の原爆調査団の補助機関として位置づけられていました。しかし、占領の開始と同時に調査の主導権はアメリカへと移り、日本映画社も引き続き撮影を担当しました。撮影班は、「生物」「物理」「医学」など、調査に対応する形で編成されました。撮影された内容は、記録映画「The Effect of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki」にまとめられましたが、米軍の中でも長期間、極秘扱いとされていました。詳しい経緯は分かっていませんが、1993年に見つかったフィルムは、米軍からの接収を逃れたものでした。

このフィルムの特徴的な点は、治療を受ける患者の姿がまとまった形で記録されていることです。原爆が人体にどのような影響を与えたのかが、この調査の目的の一つだったからです。それは核兵器の非人道性の記録といえます。広島の街は、たった1発の爆弾によって破壊され焼き尽くされました。しかし、核兵器の非人道性は、一つの都市を破壊する威力だけではありません。今なお被爆者の体を蝕み続ける放射線の被害を忘れてはいけません。そのことを伝えた企画の一つを紹介します。

放射線の被害

爆心地から2.4キロ離れた大芝国民学校(現広島市立大芝小学校)に、ある親子の姿が捉えられていました。原爆投下後、かろうじて倒壊を免れた校舎が臨時の救護所になっていて、親子は教室に敷かれた布団に横たわっていました。

当時31歳だった竹内ヨ子コ(よねこ)さんと、娘の陽子さん(当時12歳)です。陽子さんは頭髪が抜け、2人とも力なく横たわっています。幸い2人に大きなケガはありませんでしたが、被爆から1カ月後、突然体調を崩しました。

2人を撮影したカメラマンは、このときのことをこう書き残していました。
「頭髪は抜け、糸のように痩せた腕を土間へ横たえている12歳になる女の子に、今日はとても心引かれる。『助かりますか』案内の医師に聞いてみた。我が児に比べて不憫が胸いっぱいに込み上げてきた。『アメリカのチクショー奴(*め)。この親子をどうか助けてやってください』と神に祈って帰る」(医学撮影班 山中眞男カメラマンの日記より。*部分は編集広報部注)

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<力なく横たわる竹内陽子さん Nichiei Eizo/RCC>

「アメリカのチクショー奴(め)」頭髪が抜けた12歳の少女は力なく横たわり 被爆2か月後に撮影されたフィルムに残る放射線被害【ヒロシマの記録】(外部サイトに遷移します)から

ヨ子コさんは、撮影された数日後に亡くなりました。そして、その1カ月後、母を追うようにして陽子さんも息を引き取りました。

この話は決して2人だけが特別だったのではありません。8月6日の惨禍を生き抜いた人たちが、何日も後になって体調を崩し息絶えていく。こうした悲劇は後を絶ちませんでした。

あれから79年が過ぎ、大芝小学校には、元気な子どもたちの声が響きます。そして、学校には、当時救護所だったことが分かる資料もあり、ヒロシマの記録は次の世代へと受け継がれていっています。

被爆の実相を伝える

2024年5月から始まったシリーズ企画ですが、最終的には、ドキュメンタリー番組としてまとめる予定です。そのプロローグとして、2024年8月6日には特別番組『ヒロシマの記録―"地上の地獄"は映像に遺された―』(外部サイトに遷移します)を制作しました。撮影に関わったスタッフのインタビューや、制作日誌をもとに撮影された経緯や場所、その時の状況、そして、そこにまつわる物語を丁寧に描きました。

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<特別番組『ヒロシマの記録―"地上の地獄"は映像に遺された―』(2024年8月6日放送)>

また、このフィルムに記録されたモノクロの映像を、より身近に感じてもらえるようにするため、カラー化するプロジェクトも始めています。特別番組では、広島が焼け野原だったときを知る被爆者に、テストで色をつけた映像を見てもらいながら、当時の状況をあらためて取材しました。

カラー化プロジェクトは現在も進行形ですが、その当時を知る人が少なくなり、完璧に色をつけるのは難しいと考えています。しかし、たとえ一部だけになったとしても、被爆者が見た景色に近づけることができれば、被爆の実相がより伝わると考えています。

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<被爆者にテスト的にカラー化した映像を見てもらい検証>

未来に向けて

まもなく被爆80年。この79年間、被爆地を含め、メディアは核兵器廃絶を訴え続けてきました。しかし、ロシアによるウクライナ侵攻以降、核兵器使用の危機はかつてないほど高まっています。それと同時に、唯一の戦争被爆国である日本でも「核武装」を求める声が上がっています。それを見聞きするたび、多くの人にとって核兵器は「ただ威力が大きい爆弾」としか認識されていないのではないかと危機感を抱いています。

このフィルムの映像は「決して過去の出来事ではなく、起こり得る未来でもある」と考えています。そして、それは「回避しなければいけない未来」でもあります。世界情勢が不安定な現代だからこそ、「いま私たちが生きる世界に核兵器は必要ない」と訴え続けていきたいと考えています。

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