【メディア時評】大阪・関西万博をメディア・イベント史から振り返る~放送は全体像を俯瞰し得たか

飯田 豊
【メディア時評】大阪・関西万博をメディア・イベント史から振り返る~放送は全体像を俯瞰し得たか

批判から熱狂へ

2025年日本国際博覧会(2025年4月13日~10月13日/以下、大阪・関西万博、大阪市で開催)には、4〜7月の間に10回ほど足を運んだ。

私はこれまで、テレビ技術史への関心の延長線上に、万博の歴史を「映像博」という視座から捉えてきた¹ 。この万博も依然として映像技術への依存が大きい一方、多くのパビリオンが触覚技術を活用していた点が印象的だった。特殊なデバイスを使用する場合、アテンダントによる丁寧な誘導が不可欠で、一度に多数の観客を受け入れにくいという課題があるものの、事前予約・当日登録制を採用したからこそ実現できた試みといえよう² 。

もっとも、会期の前半は事前予約制が比較的有効に機能していたうえ、予約の有無にかかわらず待ち時間も短かったが、周知のとおり、後半になると混雑が増して予約が取りづらくなった。そのうえ、7月にはすでに酷暑に疲弊していたため、私自身は8月以降、一度も会場を訪れなかった。

いや、はじめからそのつもりだったのだ。というのも、これまで日本で開催された万博の歴史を振り返れば、会期中に批判から熱狂へと転じ、後半に混雑するのは想定の範囲内だった。

1970年の日本万国博覧会(1970年3月15日~9月13日/以下、大阪万博、吹田市で開催)も当初、新聞や雑誌で懐疑的な論調が目立った。1960年代後半、高度経済成長の陰で政治不信が高まり、安保闘争や大学紛争が続く「政治の季節」にあって、テレビ全盛の時代になぜ万博を開くのかという疑問が絶えなかったのである。

ところが、開幕が近づくと様相は一変した。海外要人の来日ラッシュに後押しされ、1969年11月に日本新聞協会、NHK、民放連によって日本記者クラブが設立される。在阪紙を中心に増ページ競争が加熱し、広告出稿も急増した。批判的な記事でさえ、「人々の意識をこの巨大な「お祭り」に向けて集中させる補完的な効果」³ を持ったとされる。

テレビに目を向ければ、在阪民放テレビ4局(毎日放送、朝日放送〔当時〕、関西テレビ放送、読売テレビ放送)による開会式中継(3月14日、10:30~13:30)は民放連の企画による初めての共同制作番組で、民放テレビ全局で生中継されたことは広く知られている。会期中には連日、万博関連番組が放送された。「東は週刊誌万博、西は新聞万博、日本全体はテレビ万博」と呼ばれ、史上最高の来場者数(6,421万8,770人)を記録した。こうして万博批判は結果的に、社会的熱狂を誘発する導火線となったのである。

「SNS万博」?

2005年の日本国際博覧会(2005年3月25日~9月25日/以下、愛・地球博、長久手市ほかで開催)もまた、インターネット時代の到来を背景に、開催意義そのものが問われた。環境破壊への懸念も強く、当初の世論は冷ややかだった。しかし会期が進むにつれて地元リピーターが増え、評価は一転して高まる。

愛・地球博では、中日新聞、NHK、中部日本放送(当時)、東海テレビ放送、名古屋テレビ放送、中京テレビ放送、テレビ愛知、電通が協働し、「デジタル時代を見据えた日本初の本格的なクロスメディアの取り組み」と銘打った「統合運用情報」を試みた⁴ 。その一方、ネットでは「万博ブロガー」たちが精力的に情報発信を行い、「IT万博」とも呼ばれた。

それに対して、大阪・関西万博では言うまでもなく、SNSが圧倒的な存在感を示した。開催の賛否をめぐる論争から、来場者による個人的な体験の共有まで、膨大な投稿が行き交った。少なくとも「人々の意識」を動員する手段としては、かつて雑誌、新聞、放送が担っていた役割の多くをSNSが引き継いだことは確かである。それゆえ「SNS万博」と総括する論調もあるが、それは現代のメディア環境において必然的な帰結であり、万博そのものの批評にはなり得ない。

メディア・イベントとしての万博

万博とメディアの関係を理解するには、取材や報道の分野での協働を超えた双方の密接な関わりにも目を向ける必要がある。大阪・関西万博にも多くのメディア企業が"共創パートナー"として参画した。民放局の取り組みの一部は、本サイトで既報のとおりである。

明治期以降、新聞社や放送局が主催または共催するスポーツ大会、博覧会や展覧会、音楽会や講演会などの催し物などの事業活動(=メディア・イベント)は、紙面・放送を通じた言論・表現活動と並んで、重要な社会的役割を果たしてきた。一連の事業活動は日本特有の発展を遂げ、それゆえ1970年の大阪万博にも、多くの新聞社や放送局が躊躇なく参加を決めたのだった。

裏を返せば、「報道と興行をいかに両立させるか」という難題が、当時から問われ続けてきたことを意味する。そこで以下では、日本の放送局が大阪万博といかに関わったのかを簡潔に振り返り、大阪・関西万博をその延長線上に位置づけてみたい。

報道と興行のはざまで――NHKと大阪万博

NHKは当初、大阪万博の実体を摑みかねていた。ところが1967年、モントリオール万国博覧会に取材班を派遣した際、オリンピックと同様、公共放送の使命として、海外報道機関との調整をはじめ、さまざまな国際協力要請があることを認識する。その後、日本万国博覧会協会から海外向けのプレスサービスを委託され、多数の職員が出向した。

大阪万博へのNHKの関わりは枚挙にいとまがないが、膨大な関連番組が放送されたことに加えて、NHK交響楽団の参加を含めて、クラシック音楽の催しが目立つ。また、「フェスティバルホール」や「万国博ホール」などで、多数の催事を手掛けている。また、技術支援としては、「テーマ館」「電気通信館」「国連館」などの映像展示に協力しているほか、「鉄鋼館」などの音響施設にはNHK技術研究所(現 NHK放送技術研究所)が全面協力している。

NHKは開幕前、「万国博関連の番組では[中略]出来るだけ忠実にフォローするが、これとは別に報道番組としては批判すべきものは遠慮なくびしびしと批判する」⁵ という基本方針を掲げていた。だが、この姿勢が完徹できたとは言い難い。終わってみれば、「万博報道ほど、無批判的なご祝儀番組はめずらしい。このことは、報道機関の今後の姿勢に大きな問題をなげかけている」⁶ といった批判も強く、報道と興行の両立は未解決のままだった。

協賛事業への参加――大阪・朝日放送と大阪万博

在阪民放のなかで、大阪万博にもっとも積極的に参加したのは、地元・大阪の朝日放送(以下ABC/現 朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ)であろう。会期中に放送された番組の本数も多く、1,200件以上の映像が現存していることから、現在、「EXPO'70映像アーカイブ 〜6000万人が見た未来」を公開している(外部サイトに遷移します)。

ABCは、万国博協賛事業の第1号として「世界の交通警官がやってくる=世界のおまわりさん」を提案し、京都国際会館で「世界交通安全会議」を開催したほか、開幕に先立ってドキュメンタリー番組『世界のおまわりさん』を放送している(1969年9月〜70年3月)。

さらに、協賛事業の第2号として「世界の美しい親善使節(ミス・ユニバース)がやってくる」を企画。日本が大会のホスト国として定着するきっかけとなり、1975年の沖縄国際海洋博覧会、1985年の国際科学技術博覧会、1990年の国際花と緑の博覧会での開催につながった。

もともとABCは「万国博を考える会」⁷ の梅棹忠夫、加藤秀俊、小松左京と深い関わりがあった。いずれも同社が発行する『放送朝日』⁸ の常連執筆者で、梅棹と加藤は同社の番組審議会委員でもあった。大阪万博のシンボルである「太陽の塔」をデザインした岡本太郎を彼らと引き合わせたのも、同社の出版事業がきっかけだったようである⁹ 。彼らは万博を文明史的に捉えたうえで、大阪万博のテーマや基本理念の策定に携わっている。

万博批評の困難

大阪万博の閉幕直後、雑誌『マスコミ市民』の企画として、万博担当記者の匿名座談会が開かれている。そこで記者たちが反省点として挙げたのは、プレスセンターに過度に依存したこと、それゆえ万博を文明史的に捉える視点が欠如していたことだった。

たとえば、「プレスセンターで会場内外のできごとが全部掌握でき、[中略]新聞やテレビの報道も、とかく情報サービスの良いところに偏ってしまった」「万国博を伝えるには、政治・経済・文化・芸術・風俗・宗教といったあらゆる側面から、しかもそれらを総合した見かたで分析していかなければならない。ところが実際は、これまでの社会部ネタ、政治部ネタといった枠からなかなかぬけだせず、結局、何も書かないことになっちゃうんですね」「万博に対して文明史的な視点が欠けていた結果、どうもあやふやな報道しかできなかった」といった具合である¹⁰ 。

こうした反省は、その後の万博でも繰り返し表明されている。では、大阪・関西万博はどうだっただろうか。

あらためて、放送に何ができるか

会場を訪れた人、行くつもりのなかった人、行きたくても行けなかった人――それぞれの経験はどのように語られ、共有されたのか。放送はその分断をどこまで伝えられただろうか。そして、そもそも万博とは何かという問いを、どれほど具体的に提示できただろうか。

SNSでは、万博をめぐる賛否が鮮明に浮かび上がった。来場者は喜びや感動だけでなく、不満や失望も率直に語った。公式サイトやアプリの使いにくさ、激しい予約競争、予想を超える混雑、そして酷暑――。会場を訪れても楽しめたと感じた人ばかりではなく、体験の格差は大きかった。

さらに注目すべきは、大屋根リングの設計のみならず、会場全体のデザインをプロデュースした建築家の藤本壮介をはじめ、万博に関わった多くのクリエーターやアーティストたちが、みずからSNSで精力的に発言し続けた(せざるを得なかった)ことである。報道の多くが開催の賛否をめぐる対立構図に収斂し、万博自体の理念や意義をめぐる議論があやふやにしか扱われなかったため、彼らの意図や思考の射程が十分に伝わらない状況が続いた。そうしたなかで、あえて自分たち自身の言葉で説明し、ときには文明史的な考察も交えて語りかけたのである。一連の発言は大きな反響を呼んだ。

このように見ると、放送が長らく先送りにしてきた課題――すなわち、万博をいかに文明史的に捉え、人々の経験を可視化するかという問い――を、SNSが部分的に引き受けていたようにも思える。その意味では、「SNS万博」という総括も、単なる表層的なラベリングではなく、メディア史における転換点を示す記号のひとつとして理解できなくもない。

それでもなお、SNSが形成する情報過多社会においては、全体像を俯瞰する視点が欠落しやすい。断片の背後にある構造を見抜き、個人の体験を社会の記録へとつなぐこと――大阪・関西万博は、放送に新たな宿題を残したといえる。

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 <筆者(写真右端)が出演する関西テレビ放送『カンテレ通信』
(7月20日放送分)は、
万博会場内のカンテレ万博・未来スタジオで収録。
VRセットの技術は万博閉幕後、局内での収録にも活用されている>


¹ 暮沢剛巳・飯田豊ほか『万国博覧会と「日本」――アートとメディアの視点から』勁草書房、2024年
² 飯田豊「視覚と触覚――ポスト「映像博」の模索」『万博学/Expo-logy』第4号、思文閣出版、2025年
³ 吉見俊哉『博覧会の政治学――まなざしの近代』中公新書、1992年
⁴ 『新聞協会報』2005年10月18日号
⁵ 武富明「"すべてGO!"――NHKの放送体制」『放送文化』1970年4月号
⁶ 山本明「「報道の自由」のイデオロギー」石村善治・斎藤文男編『問われた報道の自由』法律文化社、1971年
⁷ 1964年に梅棹忠夫、加藤秀俊、小松左京らで発足。知的なボランティアとして万博のあり方などを自発的に検討し、後に大阪万博の開催理念などを構築した。
⁸ 1954年4月に『月刊・朝日放送』として創刊。58年に『放送朝日』に改称、75年12月号まで刊行された調査研究誌。
⁹ 鈴木崇司「朝日放送と一九七〇年大阪万博」『万博学/Expo-logy』第3号、2024年
¹⁰「マスコミの大作「万博の虚像」」(座談会)『マスコミ市民』1970年10月号

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