「私は子どもができなくなる手術を受けさせられました」。1997年、飯塚淳子さん(仮名)から報道部にかかってきた1本の電話が、取材の出発点でした。当時は法律の存在すらよく知られておらず、担当者も「そんな法律があったのか」と驚いたといいます。
1948年に成立した旧優生保護法の下で、障害のある命は「不良な子孫」とみなされ、その出生を防止する目的で同意のない不妊手術が行われてきました。被害者は全国で2万5千人以上。1996年に母体保護法に改正された後も、国は「当時は合法であった」と被害から目を背け、自治体に保管されていた手術記録の一部は破棄されました。
私たちは2000年に飯塚さんの被害を訴える番組を制作しましたが、社会を動かすには至らず、追随するメディアはほとんどありませんでした。それでも飯塚さんは県に情報公開請求をし、弁護士会に人権救済を申し立てるなど、地道に声を上げ続けました。転機となったのは2018年。別の女性が国を提訴したことをきっかけに、全国で訴訟が相次ぎました。飯塚さんもその流れに加わります。この女性の義理の姉は「飯塚さんのニュースを見て、初めて手術の存在を知った」と語っており、報道が新たな訴えにつながった瞬間でした。
私は入社して間もなく、先輩記者から飯塚さんを紹介されました。ローカル局ゆえ大きな取材チームを組むことはできず、記者4人が代々引き継ぎながら、細々と取材を続けてきました。私もその一人として飯塚さんの自宅に足しげく通い、その痛みを記録してきました。さらにプロデューサーの発案で、手術に関わった医師や審査委員から証言を集めるシリーズ企画も放送。手術の経緯や当時の社会背景に迫りました。
2024年7月、最高裁大法廷は旧優生保護法を「違憲」と断じ、国に賠償を命じました。歴史的な判決の直後、総理大臣が被害者に謝罪し、補償法も成立しました。しかし飯塚さんは「良い判決が出ても、謝罪をされても、人生は戻ってきません」と話します。16歳で手術を受け、今はもう70代。奪われた時間は戻りません。
今回の受賞は、声をあげてくださった被害者の皆さん、支援団体、そして取材の道を切り拓いてきた先輩方に捧げたいと思います。差別や偏見の覆う社会で、自らの過去を語ることで傷つきながらも「二度と繰り返させてはならない」と訴え続けたからこそ、多くの救済につながったと思います。旧優生保護法の問題は過去ではなく、今も続いています。差別や偏見は根強く、法制定の経緯の検証もまだ道半ばです。被害者の平均年齢は80歳を超え、残された時間は限られています。最後の一人まで声を記録し、社会に伝えることが、メディアに課せられた責任だと感じています。「声なき声に光をあてる」――この原点を胸に、これからも取材を続けていきます。