テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社へと発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。
ここでは、これまで日本の放送界をけん引し、発展させてこられた主要な方々の声を聞き、"オーラルヒストリー"として記録し後世に伝えていくとともに、これから放送界で活躍していく若い人たちに放送の持つ可能性を感じてもらう目的で、インタビューを掲載します。今回登場いただくのは、1985 年に当時としては前例のない22 時台の報道番組『ニュースステーション』を初代プロデューサーとして担当し、新しい報道番組のスタイルを確立させた、テレビ朝日の早河洋会長です。
――テレビ業界を目指そうと思われたきっかけは
大学では放送研究会に所属していて、2年のときに大学生対象のドラマコンクールにシナリオを書いて応募することになったのです。シナリオなんて初めて書いたのですが、これが加盟する20の大学の中で一番良い評価をもらい、高名な作家にも褒められ、自分には才能があるのか、と思いました(笑)。そこで、日本で初めてのワイドショーだった『木島則夫モーニングショー』のアルバイトに入り、その後、木島事務所を手伝っているときに当時のNET(日本教育テレビ、現テレビ朝日)の募集があったので応募して、という流れでした。
――入社後は、報道部門を長く歩まれたのでしょうか
初年度の実習を終え、2年目に23時半からのニュース番組のディレクターをやり、その後、警視庁や外務省の記者クラブで記者としての経験を積んでいきました。30代の中頃には米国の特派員を希望したのですがかなわず、番組のディレクターやヨーロッパの移動特派員などをやりました。
その後、1980年頃に「報道の時代」の予兆みたいなことが起きたのです。TBSが今も続く『報道特集』をスタートし、日本テレビも『TV・EYE』(1980年-82年)を始めた。テレビ朝日は金曜日の23時台に『BIG NEWS SHOW いま世界は』という報道番組を1980年4月に開始、そのディレクターを担当しました。その一方で報道スペシャルのような番組も担当し、アメリカの大統領選や核戦争の危機などをテーマに3本作りました。その後、筑紫哲也さんを迎えて『TVスクープ』(1983年)を手がけました。スタッフの数は少なかったのですが、「ロス事件」や「グリコ・森永事件」「大韓航空機事故」「アキノ大統領暗殺」などの大事件を特集し、民放連賞やギャラクシー賞を受賞したことが自信になりました。このスタッフがそのまま、1985年から始まった『ニュースステーション』に合流したのです。
――これまでのテレビ人生の中で一番印象に残っているのは『ニュースステーション』でしょうか
それはもちろんそうですが、私の中では、先ほどの『BIG NEWS SHOW いま世界は』が印象深いのです。この番組で、82年に石原慎太郎さんと大江健三郎さんにヨーロッパを取材旅行してもらって、最後はベルリンです。ベルリンの壁を見ながら対談してもらいました。全く考え方の違う二人が、壁の向こう側は東ドイツという展望台で語り合う。7年後に壁は崩壊するのですが、その予兆を捉えたような気がして、これは自分では代表作だと思っています。そういう発想が『ニュースステーション』の企画の中に生きたような感じがします。
――80年代に、22時台の枠を全部整理して帯のニュース番組をつくるのは、大変だったのでは
久米宏さんがTBSを退職後オフィス・トゥー・ワンというプロダクションに入り、報道番組をやりたいという意向を受けて企画された『ニュースステーション』ですが、実は最初、TBSに話が行ったのです。ところがTBSで断られて、それでテレビ朝日に来たのです。当社の社長は新聞社出身で、ニュース志向が強く、即断したそうです。営業的には電通の買い切りだったという理由も大きかったと思いますが、それまでも月-金の22時台の視聴率は13%とか14%でしたので、何でそんなリスクを背負うんだという議論はありましたね。
そんな経緯で始まった『ニュースステーション』ですが、私の先輩で看板プロデューサーの小田久栄門さんからプロデューサーをやれと言われて担当することになりました。小田さんは私がゴールデンで担当した報道特番などの視聴率がとれなかったのに信用してくれたんですね。
――オフィス・トゥー・ワンという外部の、それもどちらかというとエンタメ系に強い制作会社が入ってきて、これまでとは違う形で報道番組を作ることになったときの社内の雰囲気は
あまりよくなかったです。先方は直前に手がけた『TVスクランブル』(日本テレビ、1982-85)という番組で、久米宏さんと横山やすしさんの対話が人気を呼んで、波に乗っていたんです。報道だけでなくテレ朝全体が、なんでプロダクションが入るんだという感じで、この融和がとても難しかったです。
また、ニュースに放送作家が入るというのは戸惑いました。自分がそれまでに学んできた制作手法や演出と全然違うように動いていったのです。最初の1年は視聴率は9%台だったと思うのですが、もともと13から14%ぐらいあったところなので、社内を歩くときはうつ向きかげんでした。また、時間的に夕飯が食べられないし、午後は会議が続くし、フラフラで廊下の模様が歪んで見えていました。
この番組は、前例がないんです。しいて言えば『ニュースセンター9時』(NHK、1974-88)ですが、まねをするものがない。だから、久米さんとか小宮悦子アナなども含めて、100人のスタッフに「こっちのほうにいくよ」と言ってもなかなかそうならないんです。ただ、日航機墜落事故が起きた85年の年末特集とか、年が明けた1月のスペースシャトル・チャレンジャーの事故、そして2月のフィリピン革命などの大事件を報道するときに、なんとなく融和する可能性が見えてきたように思います。
ちょうどスタートから1年たった86年の11月、伊豆大島・三原山の噴火があって、夜の生中継で、島民1万人の避難の状況とか、溶岩の流れなどを生々しく伝えたのです。これはうちだけでしたし、そういうライブ性のある報道をやると視聴率が取れるということがわかったのです。その流れは私が報道の人間としてやってきた番組作りとマッチしていて、そこで数字が取れるとプロダクションの人たちへの説得力にもなる。その結果、88年から視聴率が15から17%程度を取るようになり、その後は高視聴率を安定して獲得し、20%なんていうのは当たり前になったんですね。この頃になるとスタッフも一体化したし、心地よい成功体験となりました。やめなくてよかったなと思いますね。
<『ニュースステーション』関係の早河会長提供写真>
5周年記念パーティー(左上)、1989年1月の社長賞受賞(右上)、
下の2枚は出演者の久米宏さん、小林一喜さん、小宮悦子さん
――メディア研究者の立場から『ニュースステーション』について尋ねたいことがあります。米国の政治学者、エリス・クラウスが日本の政治と放送の関係を研究し、その延長線上で「NHKのニュースは面白くない。その対極にあって面白いのが『ニュースステーション』だ」と言っているのです。彼の結論は、『ニュースステーション』はどこを向いているかというと、視聴者を向いている。政治家を向いているNHKのニュースと、視聴者を見ている『ニュースステーション』のニュースとの違いは何かということを『NHK vs 日本政治』(東洋経済新報社)という著書で書いていて、私はそれはある意味すごく当たっていると思うのです。『ニュースステーション』を育てた経験から、ニュースに求められているものはどんなことだとお考えでしょうか。
『ニュースステーション』を始めるときには『ニュースセンター9時』(NHK)なども分析したのですが、NHKニュースの共通項は"官報的である"ということですね。そして、"一方通行"だと感じます。私たちは対極で、官報的ではなく庶民的というか、大衆的で視聴者目線です。"非NHKニュース"を意識して作ると、「中学生でもわかるニュース」というようなキャッチフレーズが生まれてくるんです。
例えば火山が噴火すると専門家はマグマのことを説明しますが、視聴者はマグマが地下でどうなっているのかわからない。だから模型を作って、ぱかっと開けるとマグマが見えるみたいな、そういう手作り感が必要なのです。視聴者が何を知りたがっているか、実はそこを通り過ぎているわけですよね、ニュースの世界が。政局もそうです。政権が中曽根康弘から竹下登へ移って、最後は社会党(当時)の村山富市まで本当にくるくる変わりました。それがわかりにくいので、"安・竹・宮"(安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一)3人の人形を作ったんです。それを使って、誰と誰が連合して、という説明を久米さんがやるんです。そういう細かい表現は、今までになかった。今や当たり前になっていますが、NHKとの対比で、そういう知っていそうで知らないことをちゃんと提示しようということになったのです。
そういう工夫が、わかりやすいニュースにつながったと思いますし、各局の報道番組のスタイルに影響を与えたかもしれませんね。
――テレビの将来像については、どのようにお考えですか
現状は、いわゆる総世帯視聴率(HUT)、総個人視聴率(PUT)が特にコロナ以降、急激に低下しています。その影響で広告収入が低下しており、本業以外でどうにかして収益を確保しないと立ち行かなくなるわけです。そこで、各社はデジタル化とインターネットの分野にウイングを広げている。テレビ朝日の場合はAbemaだったり、TELASA(テラサ)だったり、TVerは各局と共同でやっていますけれども、そういうインターネット系のメディアを収益源にすべきだと考えています。
コンテンツも、地上波で放送したものをもう1回CSで流すなどマルチユースを進めていますが、これを動画配信に持っていく、TVerに持っていく、そうやって複数のところから収入を得る必要がある。その根底には、広告収入はこのままずっと下がっていくのではないか、という強い懸念があります。
ただ、例えば米国のP&G社は、一度インターネット広告に軸足を完全に移したけれど、商品の売り上げに貢献しないということでテレビに戻ったんです。インターネット広告に向いている商品やサービスもあると思うのですが、スポンサーは時代のトレンドでネット戦略に傾倒し過ぎているという感じがします
少子高齢化は、もっと加速していくと思います。今までのコアターゲットと言われている人たちの価値観などが変化していますし、今までターゲットとしていなかったシニア層がどんどん増えていくわけですから、そこに向けた住宅や金融、保険、健康など多くの広告主が存在するので、そこを取りに行かなくてはいけないと思います。
――NHKと民放の二元体制、そして民放についてはネットワークがあるという業界の構造は、今後も変わらずに続いていくとお考えですか
かつて民放の重鎮の方が、「民放のネットワークは5つも必要ない」と述べたことがあります。なくなると考えたうちのひとつは、テレビ朝日系列でしょう。しかし、私どもが総務省に提案した、「系列内の複数地域で同一放送を可能とする」制度改正が今年実現しました。これは、やがて必要となるときが来る、と考えたからです。東北など一部の地域は、ローカル局に広告を出稿する企業が少ないですよね。しかも広告費全体も縮小していくなかで、そういう地域の局は大変苦しむことになると思います。
キー局の側から見ると、ローカル局は営業ネットワークであり、私たちの番組を放送してくれる存在です。そして、報道機能がある。その機能を維持するためには、今は経費削減と地域密着を徹底することだと思っています。キー局を中心にしてネットワークを形成している報道の機能や営業の側面はありますが、ローカル局にとっては徹底した地域密着しかないわけですから、それを忠実にやって、合理的な運営、経営をしていけば、当分は大丈夫だと思います。
また、中継局の共同利用の話も進んでいますから、そういう放送制度の変化とNHKとの協力関係などがあれば、すぐに5つが3つになることはないんじゃないか。将来的にも、系列間の合従連衡はあり得ないと思いますが、系列局の中では複数地域で一緒にやろうとか、そんな知恵が出てくると思います。以前から系列局には、とにかく経費の見直しや地域密着を進めて自治体などのステークホルダーに対してできることを熱心に取り組めば道が開けるかもしれない、と指導や助言をしています。
――NHKとの関係は、どのようにお考えでしょうか
NHKは、大河ドラマや連続テレビ小説、紅白歌合戦、それからニュース、スポーツ、特にドキュメンタリーは特ダネ的なものもいっぱいありますし、『NHKスペシャル』はレベルが高いと思います。だから、民放のまねなんかはしないでほしい。視聴者の絶大な信頼を得ているわけですから、自信を持ってくださいと申しあげたい。そのうえで、二元体制だと言うのであれば、そういう良質な番組制作を忠実にやり、一生懸命その輪を広げていけばいいわけで、視聴率重視とか商業化のほうに傾くと、それは民放も反発しますよね。
インターネット配信事業の問題もそうです。インターネットを使ってこういうことをやるんだと言えばいいんですよ、はっきりと。公共放送なのですからね。私たち民放と違って、国民・視聴者から集めた受信料を使っているわけだから、視聴者には全て説明する責任があると思うのです。NHKはデジタル化とか、放送の主要な部分で貢献度は高いと思いますし、多くの良質な番組によって、国民・視聴者を楽しませ、励ましてきたということは理解しています。だからこそ、NHKは民放と二元体制を構築するポリシーを持たなければいけないと思うのです。そこは明確に求めたいですね。
――放送行政について、こんな政策を実行してほしいなどの考えはありますか
民放のネットワークが減らないようにしてほしいですね。なくなると思われた私たちも、今では脆弱な部分はありません。行政には、来るべき時代のイノベーションや技術革新、人口動態、経済の変化などにビビットに反応してもらいたいと思います。
――これから放送界を担っていく若い人たちに向けて、放送の未来のイメージを
Z世代などの若い人たちは、視聴者としても今までとは全く違う人種ですよね。ところが、その人たちがテレビ局に入ってくる可能性があるので、どうなっちゃうんだろうっていう話を社員向けのあいさつでしたんです。"タイパ"重視で早送りする人たちが、テレビでドラマを作ったり、報道で時間のかかる仕事をできるのかということですよね。テレビに対する憧れというか、夢みたいなものは弱くなって、格段にインターネットのほうに傾斜しています。それゆえにテレビ受像機で映像を見るという行為は分散しているわけですよね。あと5年ぐらいはなんとかなるかもしれませんが、その先ということを考えると、テレビ番組の制作者、そういう人材をどう確保するのか。また、入ってきた人材をどうやって教育、研修していくかが課題になると思います。
社会全体の未来形では、自動運転の車やドローン、AIを仕事にどのように使うのかを考えなくてはならないでしょう。テレビはいろんな技術革新を乗り越えてきました。モノクロからカラーとか、フィルムからENGとか、デジタル化といった進化がありましたが、今後向き合うテクノロジーの進歩は、コンテンツの中身にまで相当影響してくると思います。ただ、そうはいっても、ドラマで描くのは愛とか死とかエッセンシャルなことですよね。こういうものは変わらないだろうと思います。それからスポーツの感動や真剣な闘いの魅力というのも変わらないでしょう。そういう意味で、テレビそのものは2030年代くらいまではなんとか維持できそうな感じはするんです。そういう新しいテクノロジーを使った企画も生まれるでしょうし、そこで、あの当時の『ニュースステーション』を超える『ニュースステーション』を作ろうじゃないか、みたいになれば面白いんじゃないかと思いますね。そういう若者がいればいいと思います。
それから、インターネットの普及で基本的には個人がメディアになっていますから、そういうものによって新しい何かが生まれる可能性もありますよね。だからあまり悲観的に考えないようにしています。私のような立場の人間が悲観的に考えてヒステリックになるのが一番駄目なので。
――最後に、これからのテレビマン、テレビウーマンにエールを
結局、テレビは映像の世界ですから、ドラマやバラエティ、スポーツ、ドキュメンタリー、報道など、どのジャンルにおいても面白いものとは何か、サムシングニューは何かということを探し求めることですね。放送法をよく読むと、公共的な役割として災害報道が義務として記述されていますし、障害のある人たちに向けた字幕放送とか、解説放送などもあります。そのように、世のため、人のために存在しているところが、戦後、放送が一番変わったところだと思います。私たちがそのようなことを意識して番組を作っていくことは、大変意味があることなんだと伝えたいですね。
(2023年10月19日、テレビ朝日本社にて/取材=上智大学文学部教授・音好宏、構成=「民放online」編集長・古賀靖典)