久しぶりの連載です。今年に入って放送をめぐる環境は世界中で大きく動いている感があります。日々、さまざまなメディア企業や投資グループが、グローバルな規模でのメディアビジネスの再編に動いていますが、自ら番組も制作する大手放送事業者が、放送部門を丸ごと切り売りする日が今、唐突にやってくるとは正直想定外でした。それも制度上、高い公共性を課された「公共放送」(PSB)である英ITVが。
中期的に株価は低下中 身売り自体は避けられなかったか
2025年11月初、英国の多くのメディアが、英国最大の民放PSBsであり、欧州でも屈指の規模の放送事業者であるITVが放送部門を分離した上で、競合である衛星放送Skyに売却する方針と報じました。その後ITVは、「Skyとの間で、買収に向けた予備協議を行っている」ことを公式に認めました。放送部門を分離・売却し、番組制作部門(ITV Studio)を残すというもので、売却予定価格は16億ポンド(3,200億円超)。これにはITVのネット配信事業ITVXも含まれます。またITV Studioではなく放送部門に含まれるITV NEWSも売却の対象になります。
ITVの経営母体であるITV plc.(上場会社)の株価は、買収報道直前で約67ペンスでした。これは4年半前の2021年春頃の約1.3ポンドのちょうど半分です。8年前は1.7ポンドだったとのことですから、中期的に低下傾向であり、最近になって低下ペースが早まったようです。 ITV plc.の株主の大部分は機関投資家です。米国のメディア企業リバティメディアは、最近までITV plc.株の10%を保有する大株主でしたが、2025年秋頃までに持ち株の半分を売却していたことが明らかになりました。
株価が長期的に低迷していたITV plc.は、株主・投資家から常に"成長を見込みにくい放送事業を何とかしろ"という圧力にさらされていました。そのため、身売りの話自体は絶え間なくあったのですが(例えば、大株主のリバティや米国のパラマウントそしてコムキャスト傘下のSkyなど)、まさか放送部門だけを分離してSkyに売るとは、英国の業界関係者もほとんど予想していなかったようです。
日本のキー局が放送事業だけ売るのと同じ?
売る相手が英国のPSBsにとって、(昔の)最大の競合Skyなのもそうですが、この買収の最大のポイントは、制作部門を残した上で、放送部門(放送ライセンス、マルチプレックス・ライセンスを含む)を売却することです。ITVはメディア複合企業の一部ではなく、日本の放送局と同じように、設立当時からの地上波放送事業者です。また、米国の放送局(=ローカル局)のように自らはローカルニュースしか制作しないのではなく、日本のキー局と同様、全国・ローカルニュース、ショー、ドラマと大部分の番組を自ら制作します。その意味でこの売却は、日本のキー局が放送事業(放送免許と伝送・中継設備)を分離して衛星・ケーブル放送事業者もしくは配信事業者に売却し、番組制作・販売部門だけを独立した法人として存続させることと同じと言えます。そんなことが現在の日本で想像できますか? これが実現してしまうのが世界のメディアビジネスのダイナミズムと言えるのかもしれません。
放送収入と制作収入はほぼ同規模
ITV plc.の近年の主要な財務指標を図表にまとめました。2024年の総収入は41億4,000万ポンド(約8,200億円)と日本の在京キー局単体の3倍近い規模です。ITV plcの事業内容は、テレビ放送事業(地上波、衛星・ケーブル)とネット配信事業、番組制作とその国内外での販売・配給、映画制作ですので、日本のキー局持株会社の中の衛星放送を含む放送事業部門とほぼ同じ事業内容です。
放送事業部門であるメディア・エンターテインメント部門と番組制作・販売部門のスタジオ部門の売り上げはほぼ同額です。近年、広告収入は横ばいないしマイナスでしたが、2024年はサッカーの国別選手権大会UEFA EURO2024の中継効果でプラスになりました。ただし、2025年は再びマイナスになることが確実な状況です。広告収入の26%を占めるデジタル広告収入は2ケタ成長ですが、ここ数年、特に力を入れていたITVXのサブスク収入は2024年に大幅減に転じています。また、近年好調に業績を伸ばしていたスタジオ部門も2024年はマイナスでした。この要因としては、2023年の米国での脚本家や俳優のストライキによる制作遅延や、ITV制作番組の主要なマーケットである無料放送市場の低迷が挙げられています。ただ、スタジオ部門は、2025年はプラスに転じる可能性が大きいとみられます。
<図表1. ITV plc.の主要財務指標>
利益では、海外のメディア企業、特に上場企業は、EBITAを代表的な利益・キャッシュフローの指標として用いることが多くなっています。EBITAは"Earnings Before Interest, Taxes, and Amortization"の略で、「利払い、税引き、無形資産償却費控除前利益」のことです。要するに営業利益に無形固定資産の償却費(Amortization)だけ足し戻したもので、有形固定資産の償却費(Depreciation)は控除しています。EBITAは有形固定資産への投資額が少なく、無形固定資産への投資額が多い産業でキャッシュフローの水準を計るのに使用されることが多い指標です。以前の連載で何度もお話ししたように、英国の主要なテレビ放送事業者は、伝送・中継と送出(マスター)まで分離する完全なハード・ソフト分離ですので、有形固定資産への投資額は多くありません。
EBITAは2023年から明らかにスタジオ部門の方が多くなっています。2024年の放送のEBITA増加は大規模な経費削減によるものです。2025年上期のEBITAが放送、スタジオ共に大きく減っているのは、下期に利益率が高いセールスが集中しているためとされています。
なぜ放送を売って制作部門を残すのか?
こうしてみると、スタジオ(制作)部門は売上高でも、利益額・利益率でも放送部門を凌駕しつつあることがわかります。加えて、スタジオ部門には、『アイアム・ア・セレブリティ』『ラブ・アイランド』といった人気リアリティ番組、『コロネーション・ストリート』のようなドラマシリーズなどライツ資産が蓄えられています。英国だけなく、米国をはじめとする世界市場を相手にしているところも、リスク分散や今後の成長余地の観点から有利です。一方、放送部門の売り上げは、これも以前の連載でご紹介しましたように、英国では放送の視聴率・リーチが幅広い年齢層で年々低下しており、その傾向に歯止めがかからないことから、今後リニア広告(地上波、衛星・ケーブルの放送広告)がプラス傾向に転じる可能性はかなり低いと考えられています。デジタル広告については、ITVはアドレッサブル広告のプラットフォームPlanet Vを所有・運営するなど、かなり積極的に取り組んでいますが、その規模はまだそれほど大きくありません。
この状況で、"放送かスタジオか"の2択を迫られれば、スタジオの方を選ぶのは、妥当な経営判断のように思われます。
前編はここまでです。後編では買収をめぐるSkyの側の状況と英国のメディア状況、そしてその将来について見ていきます。
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