【インタビュー 井上弘・元TBSテレビ社長】もう少し"ヤンチャ"なものがほしい<テレビ70年企画>

編集広報部
【インタビュー 井上弘・元TBSテレビ社長】もう少し"ヤンチャ"なものがほしい<テレビ70年企画>

テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社へと発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。

ここでは、これまで日本の放送界をけん引し、発展させてこられた主要な方々の声を聞き、"オーラルヒストリー"として記録し後世に伝えていくとともに、これから放送界で活躍していく若い人たちに放送の持つ可能性を感じてもらう目的で、インタビューを掲載します。今回登場いただくのは、2012年から18年まで民放連会長を務められた 井上弘・元TBSテレビ社長です。


――なぜ放送の世界、それもTBSに入社しようと思われたのでしょうか。
入社は1963年です。私たちが就職する頃は、ちゃんとお勉強して成績がよい人たちは、お役人になるか、銀行や鉄鋼業などの巨大産業に就職するのが一般的でした。戦争前の頃には「新聞記者には部屋を貸さない」という話がありましたが、マスコミにはアウトロー的なイメージが少し残っていました。今は、大変規範が厳しくなっていますが、その時分は比較的緩い業界だった。だから、私みたいないい加減な学生は緩そうでいいかなと思ったのです。それと(勤務地が)東京にしかないしね。ドラマや報道といった、しっかりした目標をもってお入りになった方がほとんどでしたが、私はいい加減で、動機不純なんですよ。

――東京大学文学部では社会学を専攻されたと聞いています。
マスコミ関係と農村社会学のゼミもあったのですが、専攻は産業社会学、尾高邦雄先生のゼミでした。非常にまじめで立派な同級生がいて、その人についていけば何とか卒業できるかなという、これも動機不純でした。尾高先生は名門の出で立派な先生ですが、私は本当に不肖の弟子で、先生にあまりお目にかからないようにして過ごしていました。ゼミの同期はみんな一般の会社に就職していて、マスコミ関係に行ったのは私だけだったと思います。

――当時、東京大学からテレビ局に行く人は多かったのですか?
文学部は就職先があまりないですから、応募した人は多かったですね。雑誌は採る人数が少なく、それからNHKや新聞社が上というランクがありました。

人事部で仕事を干され、その後、営業・編成へ

――入社後はどちらに配属されましたか?
TBSの試験に応募した(全体の)数は、700―800人だったのではないでしょうか。それで20何人か採用されたはずです。最初は放送実施部にいました。今だと放送部というのでしょうか。(送出準備のために)購入番組のフィルムを編集したり、手作業でCMを入れたりしていました。放送の仕組みがわかるので、新人を配属していたのです。

でも、ドラマをやりたい人は面白くないから、1年ぐらいすると出ていくわけです。僕だけははっきりした希望先がないので、3年ぐらい残されていたかな。それでぼやっとしていたら、編成課長から来いと言われて、編成部に1年半くらいいました。ここの仕事は楽しくて忙しくて、これが仕事なのだと思いました。現場との付き合いが多く、先輩から有名なプロデューサーなども紹介してもらえました。

ある時、のちに民放連の会長になる山西由之さんから、当時は編成局長でしたが――「人事がおまえを取りに来たが断っておいた。人事なんか行くもんじゃない」と言われたことがあります。ところが、1週間たったら人事部への辞令をもらってしまいました。

ちょうど70年安保の年です。「TBSは(経営規模に比べて)300人社員が多いから新卒採用をしない」というお達しがあったので、調べてみたらあるところで人件費が二重計上されていた。それを指摘したら、翌日から仕事がなくなりました(笑)。下司(げす)の勘繰りですが、学生さんたちが"にぎやか"だったことが、採用をしない裏の理由だったのかもしれません。私がそういうことをして困ったのでしょうね。そのまま3年、放っておかれました。毎日、することもないのに5時半までいなくてはならず、これは最悪でした。気概があれば辞めたのでしょうが......。

その次が営業です。営業なんて、私は人見知りだから、嫌だなと思ったのです。景気のいい時代だったので、営業は本当に派手なところでした。当時の局長に「すぐゴルフを始めろ」と言われ、麻雀のほうはつきあいきれないので、できるのに「できません」と答えました(笑)。

営業の中では、年を食っていたので外勤をと言われました。でも、スポンサーのところへ行っても、話すことがないのです。電通のTBS担当が、自社の若い社員に「(井上と話をするのは)時間の無駄だから、もっと有意義な人と話しなさい」と教育していたという笑い話までありました。しばらくしたら、たまたま大きなスポンサーの課長で馬の合う人がいて、行くとお茶したりするようになった。すると、広告会社の人も何を話したかが気になって、私に聞きに来るようになって......。そこからコツみたいなものがわかって、他のスポンサーをつかまえられるようになったのです。

10年ほど営業をやって、40歳過ぎに編成課長になりましたが、この営業の経験は役にたちました。番組を成り立たせる駆け引きがだんだんわかり、大物のプロデューサーにかわいがられると情報量が多くなりました。たくさんの番組の提案が自分のところに来るようになり、自分からもいろいろ提案できて、とても楽しい時代でしたね。

編成にいた頃に、報道系の企画をという話が当時の山西由之社長からあり、僕が22時にニュース番組を作ろうと提案しました。でも、編成の先輩2人から「この時間にやっているドラマをどうするんだ」という反論があって軽く負けてしまいました。仲の良かった電通の中尾さんから「TBSがやらないなら、22時のニュースの提案を他にもっていっていいか」と聞かれたので、「ニュースの編成はそう簡単に変えられないから、いいよ」と答えたら、テレビ朝日に提案が行き『ニュースステーション』になったのです。

電通というのはいい商売相手で、面白かったですね。彼らとケンカしたり、うまく向こうの力を使ったりして仕事をしていました。いい企画をスポンサー付きで持ち込まれそうになった時に、電通の担当に「別のスポンサーの名物宣伝部長に話をしたのか」と匂わせたら、結果としてそちらのスポンサーに決まったことがありました。その名物宣伝部長には、視聴率が悪かった番組の打ち切りの時に、CM枠の調整で無理を聞いてもらったりしました。いまは、大技をやるようなスポンサーもいなくなったし、スポット中心になっているので、時代が変わっていますよね。

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草創期の"ヤンチャ"な雰囲気とテレビの志

――話はつきないのですが、そろそろ本題について伺います。井上さんは、テレビの70年のうち50年以上をテレビと伴走されていますが、この70年をどう評価されていますか。
最初のややヤンチャな時代の─それは気のせいかもしれないし、若かったからかもしれないけれど─のほうが、何か、テレビ番組をつくる人たちの思い、思い込み、志が強く感じられたような気がします。

会社が大きくなって利益が出るようになって、番組はどっちかというと面白くなくなったような気がします。TBSから飛び出したテレビマンユニオンの制作者の人たちとか、当時は自由に番組を作っていたような印象があります。あの人たちも、若い頃は規範に入らない人たちだったのでしょう。テレビって、もうちょっとヤンチャで冒険心があってもいいよ、とは思うのですが、今はいろいろ規則が厳しいから難しいかもしれませんね。

ジャーナリスト的特権と危険地取材の責任

――役員になられた後は、規則を守ってくれという立場だったのではないですか。
まあそうですね。でも、先日ある人と話していて、今のイスラエルとハマスの戦争は、何が本当か分からないという話になりました。私たち放送局としては、現地に人を出すのが全てではないけれども、ジャーナリストと称してやや特権的な顔をする以上は、本来、危険なところへも行かざるを得ないのではないか。いつの間にかフリージャーナリストにそういうところは任せてしまっている。そういう議論をもっと現場と議論すべきだったと思います。その点は、私としては欠けていたかもしれませんね。危険なところに行かせて、何かあれば会社の責任になるから、その部分から逃げていたのかもしれない、と思っています。

インターネットがこれだけ普及した時代に、速報性においてテレビはインターネットに勝てないわけですよね。昔はテレビに速報性があったわけだけれど、勝てなくなったときに、テレビジャーナリズムというのはどうすべきなのか......。引退して外から見ていて、どうすればいいのかな、と考えています。

――TBSはもともと報道に強いと言われている放送局ですから、社内で議論はされていたのではないですか。
私が現役の頃、一番の議論になっていたのは、"見せるニュース"か、"見せなきゃいけないニュース"か、ということでした。次第に"見せるニュース"で視聴率を取るというのが主流になっていって、必要なことを伝えるニュースが後に退いていったという経緯があります。つまり、徐々に見せて楽しいというか、"見せるニュース"というのに変化していったなという気はします。ただ、それは各局もみんな同じなんじゃないですかね。

――TBSは、気骨のある人をキャスターに起用し続けるなど、ジャーナリズムへの意識が高い放送局だと自分は思っています。
あれは私のえこひいきだって言われているのですが、好悪の問題ではなくて、放送局には異色な人がいてもいいのではないか、そういう人が作った作品でも放送基準に逸脱しない限り、個々の作品について議論は自由ですが、あってもいいというのが僕の意見です。報道だけでなく、ドラマの制作者でもそうです。自己主張が強くて周りからは不人気でも、そういう人がいないと、光るもの、際立ったものが出てこない気がします。自己主張の強い人たちが角を突き合わせて、最後によいものが出てくるというのが、放送局の一番いいかたちではないでしょうか。

TVer設立に向けてなぜ動いたか

――包容度の高い井上さんのような経営者が差配されると、よい制作者が生まれるように思います。話はかわりますが、設立を主導されたTVerは、8年を経過して存在感を増しています。アプリは6000万ダウンロードを超え、月に大体3.9億回再生という規模です。テレビの収入を補うほどにはまだ距離がありますが、どのような考えでスタートに向けて動かれたのでしょうか。
私はデジタルのことは全くよくわからないんですよ。パソコンだってやっとの思いで見ているぐらいです。ただ、時代はそっちに流れるのだろうと思ったのです。最初は、いろんなソフトを受け付けて配信する、そういう機構を作れないかと考えました。プラットフォームというのでしょうか。社内で話をしたら、そんなものはもう他の大手がやっているので、今さら参入しても駄目だと言うんですね。そちら方面に詳しい城所(城所賢一郎取締役、当時)からは、相当バカにされました。

プラットフォームが駄目なら、デジタル空間に流すものを作ってはどうかと、次に考えたのです。やってみたいという社員を募って、チームを作りました。しかし、テレビ局の人間にネット向けの短い動画を作らせると、採算を考えずに作り込んでしまうのです。試験的にやってみたのですが、なかなかヒット作は生まれない。そのうえ、売る単位も何千円、何万円と小さい。

それで、何かいい方法はないかなと思って考えたときに、そうか、既に作っているものを流せばいいのでは、と考えたのです。今度は作った番組があるわけだから、権利をクリアすればいい。売る方もやり易いかと思って、電通や博報堂のトップにも商売としてやってくれるかどうか聞いてみました。彼らは、ぜひ、インターネットにテレビ番組を流してほしいと言うのです。それならやれるのかと思って社内で聞いたけれども、あまりはかばかしい返事はない。でも、日本テレビの大久保好男社長(当時)のところに行って、「1社じゃ数が足りないし、今は各社独立してやっていて採算が取れていないようだし、みんなで組んだらできる」という話をした。そうしたら、大久保さんが賛成してくださった。フジテレビの亀山さん(亀山千広社長、当時)やテレビ朝日の早河さん(早河洋会長)、テレビ東京の高橋さん(高橋雄一社長、当時)にも賛同していただいた。販売の問題などがあることは承知していたのですが、総論賛成でした。

ネットワークの問題を指摘する人がいましたが、私はネットワークに対しては閉鎖的に進めるつもりはなくて、実験は在京キー5社でやるが、参加したいところは可能です、と説明したのです。この取り組みは将来のために行うもので、今すぐどうにかなるというものではないと。民放連の理事会の場を借りて説明しましたが、反対する人はいなかった。

ところが現実に動くことになり、各社代表が集まってどういう問題点があるかと検討を始めると、各論では各社の都合や戦略もありますから、議論は結構手こずったようでした。それを解決したのですから、きっと皆さんの相当な努力があって、TVerはできあがっていったのだと思います。

自分でやったのは著作権の問題ですね。芸能事務所から嫌だと言われたらネットに番組を出せないわけです。所属タレントが出演した番組の配信をオーケーしてもらうのは、結構難物でした。各社の社長さんたちは、おまえが言い出したんだから、それは口説いてくれよ、こういう感じになりまして(笑)。それだけは自分で一生懸命やりました。この問題は、伝手をたどって、ある大手事務所の了解をいただいてからは、急に道が開けました。

何でもそうだけれど、何かを立ち上げると、立ち上げてからものになるまで何年間か時間がかかりますね。その期間を短く、早く仕掛けていかないと展開できない。僕はデジタル方面に疎いから、そのくらいの知恵しかもう出ないし分からない。これから何が起きるのか、テレビがTVerという媒体を使って何ができるのかはわかりません。ここから先は、よくわかる方々に考えてほしいというのが正直な意見です。

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<『民間放送』の企画で、野田聖子総務大臣(当時)と対談(2017年12月6日)>

――TVerにNHKを参加させるための働きかけはされたのでしょうか。
私はNHKを参加させたかったのです。当時の籾井勝人会長に「一緒にやりましょう」と何度も言ったのです。まずラジオを口説いたら、テレビもやってくれるかと思って話をしました。これは、籾井会長はすぐにOKしたのです。今、radikoはうまくいっていますよね。テレビのほうは民放側も消極的だったんじゃないかと思います。民放連会長を退任する頃でしたから、それ以上、自説を主張することはしませんでしたが、今でもNHKも入れてちゃんとやるべきだったと思います。そうすれば、NHKにあんなにたくさん「ネットで見られます」なんて宣伝させないで、民放の利益にもなったのにとは思います。民放が、もう少し広い視野で考えられたらよかったですね。

――NHKのTVerへの参加については、受信料制度との関係が整理できないとハードルが高いところがあると思っています。さて、テレビ産業はここまで"すごく儲かる産業"だったと思いますが、それはなぜだったとお考えですか。
それは、競合する媒体が少なかったからでしょう。今はいろんな媒体に自由にソフトを出せるようになった。競合相手が多くなってしまったので、それだけ媒体価値が下がっている。ただ、見る側は、視聴形態は変わっているけれども同じものを見ているような気がするんです。私たちが子どもの頃には「三国志」を一生懸命読んだものですが、今でもマンガや映画など形を変えてあちこちで取り上げられている。そう考えると、視聴形態が変わっても、実はソフトの中身はあまり変わっていないんじゃないかなと思います。

それと、スポーツイベントについては、私たちの世代は野球しか知らない時代でしたが、今の人たちはいろんな競技を見ますね。それで全体に(視聴率が)下がっているかもしれないと思います。

TBSと三井グループの関係性

――TBSは三井グループと関係が深く、放送局の中では唯一いわば"財閥系"という性格があると思いますが、どのような理由からなのでしょうか。
理由は単純です。放送局という企業は、意外に内側の社会なのです。外に向かって開けていない。外に向けた「顔」がないわけです。私は比較的、財界人と称する人たちと付き合いがあったのですが、後任の人たちにそういう繋がりがなくなると良くないと考えたのです。私が社長の時に自分の判断で、三井グループの社長会である「二木会(にもくかい)」に入れてもらいました。TBSの初代社長の足立正さんは三井系の王子製紙出身で、TBSの株主には三井関係も多い。ちょうど、三井物産の槍田松瑩社長(当時)が社外役員でおられたし、メインバンクも三井住友銀行でした。そんな縁もあって、二木会に参加させてもらったのです。財閥系で歴史のあるグループですから、社業の広がりが私たちとは全然違う。この繋がりは将来きっと役に立つと思ったのです。その後、TBSへの企業買収の動きがあったときなどには、随分助けてもらいました。

これからの放送について

――これからの放送について、どのようにお考えですか。
ネットワークについては、もう少し方法を考えるべきかもしれません。産業規模が小さくなるならば、普通に考えると数が減るんじゃないかなと思います。地方へ行くとわかると思いますが、「時間距離」というのがあります。隣の県に移動するより東京へ行った方が時間がかからないというところがあるのです。もう一回、ちゃんと個々の利害を捨てて、考えてみるべきじゃないかなと思います。今の形態のままやっていたとしてもね。

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――それは、例えば昔に戻って1つの県には2局としてローカル放送局を生かしていくということでしょうか。それともブロック単位で1つの系列は1つの局にしてしまう、ということでしょうか。
私のイメージでは、県内で横にくっつくのがよいのではないかと思います。例えばあるブロックで一緒になるとすると、大都市の局が中心になり、他の地区の局をみんな無くさなくてはならない。それ以外は送信所になっちゃうわけです。それよりは、徐々に横で合併していったほうが、影響が少ないのではないかなと思います。東北や九州など複数地域をまとめてやれば機能的かもしれないけれど、そこに働いている人の全体を考えると、ドラスティックに九州は1局とか2局でやると、ほかの局はどうなるのか。また、県民性というものもある。今でも"藩が違う"から仲が悪いという所も残っています。地域内で横に連携していった方が、媒体としての親近感といいますか、何かそういうのはあり得ると思います。

そのためには、それはキー局が、系列局のやることをある意味「知らないよ、関知しない」と言わなければならない。沖縄の琉球放送と琉球朝日放送みたいな方式もありますね。まずは手始めにやってみて、それでも、まだ生き延びられなかったら、また何かその先で考えればいい。

――地方局の場合、資本の問題も大変です。
そうですが、背に腹は代えられないんじゃないでしょうか。会社がつぶれるとなったら、考えなければならないでしょう。東京のキー局が政治家などへの働き掛けも含めて、相当強力に動かないと駄目でしょうね。でも、死に物狂いでやってみるしかないだろうと思います。もう自分でやるわけにはいかないけど、現役の人にはエールを送りたいですね。

それと人脈が大切だ、みたいな話もしましたが、個人的な人間関係までは先輩から引き継げませんよね。自分で築いていくしかない。そこは後輩たちに頑張っていただきたいと思います。

テレビ会社に勤めていると、何か普通の人と違う経験をしているのでは?と思ってらっしゃる人が結構います。是非、こうした"不可思議な魅力"を世間の方々が持ち続けるようなテレビ局であってほしいと思います。

(2023年11月14日、民放連にて/取材・構成=民放連事務局長 本橋春紀)

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