日々、起きる事件・事故。私たちメディアは競うようにその様子を伝えています。次の大きな事柄が起きれば、そのニュースは忘れられ、また新たな現場が報じられていく......。
今から20年前の2003年、鹿児島で花火事故が起きました。死者10人、建物損壊129棟、「戦後最悪」と言われた大事故でした。現場にいた花火師全員が亡くなったことから、事故原因は特定できず、遺族も口を閉ざしたままでした。当時社会部の記者だった私はただ、警察から得た情報を報じるだけでした。
それから、時がたち――事故を知る記者たちは現場から離れていきました。あわせて遺族への取材の難しさは変わらず、今の鹿児島ではこのニュースを報じるメディアはほとんどありません。
"あの日、何があったのか、どうして事故は起きたのか......"
当社に、この花火工場を追い続けていた先輩ディレクターがいました。71歳、テレビ局に入って48年。そのほとんどをテレビの制作現場で過ごしてきた先輩は花火作りにかける職人の姿に魅了され、この場所に通い続けていました。しかし、あまりの事実の大きさに事故後は、足を運ぶことができなくなっていました。
先輩ディレクターはポツリと話してくれました。
「偶然、花火工場のリーダーに会った。向こうから話しかけてきてくれたんだ」
事故から18年のことでした。これが鹿児島テレビがもう一度この現場に向き合うことになったきっかけでした。今思うと、この"偶然"は"必然"だったのかもしれません。
1年かけて取材への理解をしてもらい、再び現場にカメラが入りました。60人いた花火工場はわずか2人になっていました。花火に夢を託したリーダーは還暦で白髪頭になっていました。リーダーは語り始めました。沖縄出張で事故を免れたこと、失った仲間や弟のこと、そして、事故が起きてしまったことへの罪の意識......これまで知らなかったあの日が見えてきました。
亡くなった10人のうち、遺族の1人が初めて取材に応じてくれました。自慢の息子を亡くした父親でした。母親は花火師になることに反対だったそうですが、"人が喜ぶ仕事だから"と息子の背中を推したそうです。「私に孫はいないんです」。
涙声で話す父親はこの20年、ずっと悔やんで生きていました。みんな哀しみを背負いながら、生きていました。
"20年たってこそ、見える景色がある"
71歳の先輩ディレクターはこの番組をとおして、教えてくれました。
「いいことだけを報じるのがテレビではない。哀しみを抱えて生きている人たちに向き合い、自分たちも傷つきながら取材してこそ、テレビ制作の意味がある」
このドキュメンタリーを最後に先輩ディレクターはテレビの世界から卒業です。
"誰のために、何のために、テレビはあるのか――"
託されたバトンの重みを胸に刻みながら、またここからテレビ作りに真摯に向き合っていきたいと思います。それが哀しみを抱えながら、今も懸命に生きる人たちの未来につながると信じて......。