8月27日中央審査【参加/22社=22 件】
審査委員長=水島久光(東海大学教授)
審査員=石澤靖治(学習院女子大学教授・元学長)、みたらし加奈(臨床心理士、公認心理師)、安田菜津紀(フォトジャーナリスト、認定NPO 法人Dialogue for People 副代表)、山﨑晴太郎(セイタロウデザイン代表、クリエイティブディレクター)
2024年の特別表彰部門「放送と公共性」には、この部門が設けられた2006年の31事績に次ぐ22事績の応募があった。その数の多さのみならず、扱われた一つひとつのテーマの重さに、審査会を終えてもしばらくのあいだ、私はこの講評を書くことをためらい続けていた。放送などマスメディアの影響力の低下が言われて久しい。では新しいデジタル・ネットワークがその代わりの機能を果たしているかと言えば、情報の島宇宙化は加速し、アテンションエコノミーの強い磁力のもとに、消費されやすい話題ばかりがタイムラインを埋め尽くしている。
今回の応募事績の多くには、そうした情報空間の隙間に、ともすると落ち込み、忘れ去られてしまうような問題を丁寧にすくい上げ、そこにあらためて現代的な光を当て、アジェンダ設定を行う、意欲的な番組や活動が並んだ。審査を通じて目から鱗が何十枚も落ちるような感覚を覚えた。「現代的な光」とは、ここ数年のSDGsの膾炙で広がったダイバーシティ(多様性)やインクルーシブ(包摂)の理念である。やや流行的にキレイゴトとして扱われる懸念もあるが、それでも社会に沈潜するさまざまな矛盾を率直な疑問として発見するアプローチにはなっているようだ。
最優秀=関西テレビ放送/14年にわたる関西地区のハンセン病問題報道(=写真)や優秀=山口放送/「部落差別と人権」に関する報道はこの国において古くから扱われてきた人権問題である。しかしそれは決して過去の出来事ではない。いまだそれは解消されない傷を関係者に残し、新しい世代にも続きかねない差別意識の根強さを浮彫りにした。
優秀=CBCテレビ/トゥレット症に関する一連の報道活動、優秀=北海道テレビ放送/ろう学校の手話教育のあり方をめぐる一連の報道は、人知れず生きづらさを抱えた人々に眼差しを注いだある種のスクープといえよう。「知られていない知識」を丁寧に伝える報道内容とともに、「排除なき社会」の実現に、真摯に向き合う姿勢に感銘を覚えた。
優秀=読売テレビ放送/兵庫県警連続自殺問題の真相追及 一連の報道活動の粘り強い取材は、権力への対峙というメディアの原点機能を再認識させてくれた。ハラスメントや暴力が広がる社会情勢や、警察官に密着した番組で不適切な内容があったことに敷衍させて考えると、「和解」は決着ではなく、次の大きな課題への入口であることも印象づけた。
今年は入選事績以外も、心に残る取り組みでばかりあった。声なき声、小さな声を日の当たる場所に引き上げ、番組を状況改善の一歩に結びつけた努力を高く評価できる事績や地に足がついた環境問題への取り組み、放送を教育・啓発教材づくりに展開し、今後に期待できる意欲的事績が並んだ。
しかし全体を見たときに、やはり圧倒的に「人権」に関わる問題に注目が集まったことは、応募事績の数とともに一つの傾向として強調しておくべきだろう。放送は社会の鏡であることを考えれば、意識の高まりがあったとはいえ、この結果は決して手放しで喜ぶべきものではない。
ただし入選事績をよくみると、問題への接近方法にある変化が見られることに気づく。共通するのは、大所高所からトップダウンで社会問題を掘り下げるというよりも、現場での気づきから丁寧に知見を重ねていく真摯な取材姿勢である。
特に目立ったのは、生きづらさに苦しむ当事者との偶然の出会いを大切に、カメラアングルに目線を重ね(CBCテレビ、山口放送など)、その至近距離からの小さな声に専門的知見を添えて、確実に視聴者に届けようとする工夫など、多様な視点に配慮し情報を構成する力量である(北海道テレビ、CBCテレビなど)。そうした場面が数多く生み出された背景には、若い記者たちの瑞々しい感性と、率直な問いを愚直に重ねるしぶとさがあり、いくつかの放送局ではこうした若い力を組織的に育み、支援する体制づくりも随所に見られた(関西テレビ、読売テレビなど)。それとともに、これまで放送がおのおのの問題にどう取り組んできたのか――その不幸な過去や現在にメディアの加担や不作為はなかったかといった、自らに再帰的に批判の目を向ける姿勢(関西テレビ、山口放送など)や、取り上げた題材だけにとどまらず、問いの裾野を社会課題の本質(北海道テレビ、読売テレビ)に広げようとする意欲も垣間見えた。
いずれにも「テレビの底力」が見え、実にたのもしく感じた。
放送の社会的地位の変化は、凋落とだけ捉えるべきではなく、新しい放送の誕生の契機でもあるのだ。この特別表彰部門は、それを社会に問いかける役割を担っている。事績の「公共性」を問うことは自らの思考・行動の「公共性」を問い直すことでもある。身の引き締まる思いである。