ファミコン発売から40年 ディスプレー装置争奪戦とテレビの情報端末化

速水 健朗
ファミコン発売から40年 ディスプレー装置争奪戦とテレビの情報端末化

テレビゲームの成熟期とテレビの黄金時代

若年層のテレビ離れが指摘され始めたのはいつか。『風雲!たけし城』(TBS系、MC=ビートたけし)が始まり、ドラマの『男女7人夏物語』(TBS系、主演=明石家さんま)が放映された1986年である。テレビの全盛期を思わせる両番組が誕生した時期になぜテレビ離れが始まっていたのか。86年に指摘された、教育研究全国集会なる教職員による研究会議での発言にその発端を見て取ることができる。

ファミコンに子どもたちがどれほど長時間にわたってはりついているか、それはテレビの長時間視聴を優にこえている。しかも子どもたちは一人きりでファミコンと対し、家族たちとはなれ小宇宙を形成している」*

これは、ゲームの長時間プレーで家族だんらんの時間が奪われている。そんな懸念の指摘だが、同時にゲームがテレビの視聴時間に影響を与えていることも踏まえられている。ファミコン第一世代がテレビ離れの最初の世代でもある。

かつて日本人は、ほぼ毎日テレビを見ていた(見ないという人の割合は、1970年代末の時代で2%*)。ちなみに最初にファミコンに触れたであろうファミコン第1世代も、元々はテレビに浸りきっていた世代だ。欽ちゃんの「仮装大賞」(日本テレビ系、79年〜)、『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』(フジテレビ系、80年〜)は、放送日がいつなのかが学校の教室で話題になった人気テレビ番組の代表だ。これらは、全盛期の視聴率で30%代を記録し、さらに家族でお茶の間で見るものの代表でもある。ゲームの時間で家族のだんらんにひびが入るという教師の指摘も、誰もがテレビばかり見ていた時代という背景が前提にあるのだ。

メディア研究者の佐藤卓己は「中高生にとって、テレビはなお友達と共通の話題をもつための情報源であったが、それは数ある選択肢の一つにすぎない」*ものになったと当時の状況を説明する。テレビ離れは、完全なテレビとの断絶ではなかった。テレビも見るしゲームもする世代。テレビがオンリーワンの特権的なメディアではなくなり、可処分時間を複数のプラットフォームが競いあう時代が、ここから始まっていたということ。

スマホやタブレットが普及し、若年層のYouTubeやTikTokの視聴が増え、テレビを見る時間が減っているという、この種の議論は、いまどきよく見られるものだが、実はすでに40年前に始まっていたのだ。

受像装置としてテレビに触れた記憶

ファミコンの発売は83年である。当たり前だがファミコンは、一家に一台レベルでテレビが普及していることを前提とした商品だった。

初期ファミコンは、テレビの背面のRF端子(アンテナ部分)に付属の接続用部品でテレビに接続する必要があった。アンテナとの接続は、子どもにしてはちょっとした電気工事だった。ちょっと後の世代であれば、RCAケーブル(赤白黄の端子のもの)で簡単に接続できた。どちらの方式かで、メディア体験としてのファミコン観に違いがあるかもしれない。

日本初の国産家庭用テレビゲーム機である「テレビテニス」(エポック社、75年)は、UHFのアンテナに電波を飛ばす接続方式のゲーム機だった。つまり、「テレビテニス」はテレビの周波数帯に割り込むということ。テレビのチャンネルは、1〜12のVHFの帯域と、UHF通称Uチャンネルの13〜62に分かれていた。テレビゲームの接続の記憶が、テレビそのもののメカニズムに触れる原体験となったのは、筆者だけではないはず。ちなみに、ゲームの内容は、アタリ社の「ポン」に似た画面の両サイドにパドルがあり、その間でラリーを行うシンプルなもので、白黒表示だった。75年当時のカラーテレビ普及率は約90%。つまり、すでにほぼ各家庭にカラーテレビが行き渡っていたわけだが、日本のテレビ放送の全番組がカラーオンリーになるのは、77年のこと。白黒メディアの時代とデジタルのテレビゲームの誕生期は、思いのほか近かった。

ファミコンよりも早くからテレビに接続する機器として登場したのは、家庭用ビデオ再生機である。80年代に10万円を切るハードが登場し、ビデオテープの低価格化も重なり、急速に普及した。ビデオ登場以降、人々は、テレビ放送をリアルタイムに見るだけでなく、録画して後で見たり、繰り返し見たりするようになった。ビデオはテレビの拡張の意味を持っていたのだ。ちなみに、ファミコンは必ずしもテレビと隔絶していたわけではない。『たけしの挑戦状』『さんまの名探偵』らのタレントゲームがヒットした。ほかにも所ジョージ、田代まさし、『カトちゃんケンちゃん』『舛添要一 朝までファミコン』など、多くのタイトルが存在する。これは、ファミコン以外のハード、ホビーパソコンのゲームタイトルにはない特徴だった。

テレビへの接続をめぐる水面下の争い

ファミコンのライバルのひとつに、当時の少年たちに愛されたホビーパソコンという分野がある。ファミコンとは違い、海外のものも含むRPGやシミュレーション、アドベンチャーゲームなど、より時間のかかる本格的なゲームをプレーできるのが特徴だ。多くのパソコンは専用のCRTディスプレイに接続するものだったが、中にはテレビに接続するものもあった。シャープのX1や共通規格のMSXなどがそうだが、ここでは極めつけのマイナージャンルを取り上げてみたい。

パイオニア製のコンピューターでレーザーディスク(LD)と接続するPalcomだ。属する規格で言えば、家電メーカーが相乗りした共通規格MSXなのだが、LDと接続したゲームがプレーできるのはこの機種だけだった。

LDの映像データは番地が割り振られ、CDと同じくランダムアクセスが可能だった。この機能を生かし、ゲームの展開に沿って再生する映像を変えていくのだ。映像のクオリティーは、映画や本格アニメーションと同等である。そこが同時代のゲームとの違いだった。プレーヤーの関与は極めて少ない。例えば、当時、遊んだことのあるLDゲームの『バッドランズ』は、自分がガンマンでサソリや化け物、敵のガンマンなどと戦う。戦うとはいえ、キャラが動かせるわけではなく、敵の登場に合わせてボタンを押すだけ。タイミングが合えば先に進めて、合わなければライフが減る。ゲーム性が低い。インタラクティブ要素が少しある映画と言ったところ。LDゲームは、ほどなくして消えたがアーケードゲームとして爪痕を残している。『ドラゴンズレア』は当時のLDゲームでゲームセンターに置かれ、アメリカにも輸出された。Netflix『ストレンジャー・シングス』のシーズン2には、このゲームが登場している。

失敗した「キャプテンシステム」と接続装置としてのテレビ

ほかにもテレビとの接続を目指し失敗した機器やサービスはたくさんあるが、もうひとつもはや誰も覚えていない前提で説明が必要な「キャプテンシステム」を挙げてみたい。

85年に電電公社が民営化しNTTとなり、同時に「ニューメディア」という言葉が使われた。自由化された電話線や衛星放送を利用した新サービス全般の呼び名だ。その大本命にキャプテンシステムがあった。双方向の画像、文字の通信サービス、ニュースや天気情報が配信され、オンラインショッピング、チケット販売、銀行の口座利用のサービスなどが利用できる。つまり、インターネットのWWWのサービスを、その普及より10年も早くにスタートしたのだ。先進性が高く、もしこれが成功していたら人々はインターネットなんて使わなかっただろうくらいのサービスだった。だが、さまざまな理由で失敗に終わった。

86年に古舘伊知郎が家庭用キャプテンアダプターのCMに出演している。音楽はハービー・ハンコック「Future Shock」風で、古舘がラップで商品を説明する。中井貴一のハローダイヤルNTTのラップよりも5年ほど早い。これがラップかどうかは意見が分かれるだろうが。

CMを見ると「キャプテン」は家庭への普及をもくろんでいたことがわかる。家庭用のテレビを情報端末として利用するという発想だった。結局、キャプテンシステムの端末は、駅や公共機関の窓口などに設置されたが、家庭にまでは普及しなかった。外の端末ですら、あーあれねと思い出せる人は少数だろう。サービスが開始されて話題になっていた頃(80年代半ば)、筆者はまだ小学生だったが、見たことはあったような、ないような、少なくとも端末を触った記憶はない。座敷童子や河童の目撃数と重ねられる程度の普及度だったはずだ。それでもサービス自体は、一応2002年まで継続したという。

失敗の理由は、データ転送の遅さ、システムが技術発展とともに更新されていかなかった、端末の数の少なさ、NTT(当初は電電公社)の大企業体質などさまざまに検証されているが、家庭への普及の失敗は、少なくともテレビというお茶の間の王様を情報端末として扱おうとしたことの目算の違いだろう。ちなみに、テレビに情報端末としての機能を持たせる商品企画は、その後もいくつもあったがどれも失敗に終わっている。

団塊世代、団塊ジュニア世代にとってのテレビ

"ニューメディアの時代"にテレビと接続することをもくろんだ数々の装置が失敗に終わる中で、なぜファミコンだけは別格の成功を収めることができたのか。

当時は「ME(Micro Electronics)革命」や「第三の波」(A・トフラーのベストセラー)が流行語になっていた時代である。コンピューターが近い将来に社会を覆い尽くし、それに子ども時代から触れておくことは大事。将来、それが扱えるかどうかで就職や収入に差が出るだろう。そんな親たちの空気(大いなる誤解だったわけだが)と高価なおもちゃを手に入れたい子どもたちの企みは一致していた。

つまり商品名に「コンピュータ」が含まれていた点に意味があったということ。そして、それ以上に「ファミリー」が入っていたことも重要だった。ファミコンは、情報端末ではなく、「ファミリー」向けのコンピューターを名乗った。日本のテレビが、あくまでお茶の間の中心にあることを踏まえてのものだとしたら見事なネーミングだった。

「2020年 国民生活時間調査」(NHK放送文化研究所)で、16~19歳の世代において、毎日テレビを見る人口は半分以下になったと指摘された。

テレビ離れは団塊ジュニア世代から始まったと書いたが、それはまだ決定的なものではなかった。むしろ、この世代は、まだテレビを見ている、結局はテレビ離れしなかった世代である。当時のファミコンもお茶の間のテレビに接続され、親の目を気にして遊んでいたところがある。子ども部屋にテレビがある子は少数派だった。だがその次世代で、テレビ=お茶の間という空間の結びつきは崩壊する。先に取り上げた「国民生活時間調査」で、16~19歳の世代とは、団塊ジュニアのさらにジュニア世代に当たる。

子どもの頃に家にテレビがやってきたテレビ第1世代が団塊の世代である。そのジュニア世代がテレビに接続される機器で育った世代で、さらにそのジュニア世代が決定的なテレビ離れ世代となった。

かつて、テレビは家の中におかれた唯一の映像ディスプレー装置だった。だが現代の家庭には、PC、スマホ、タブレット、体重計、体温計、冷蔵庫やインターホンまであらゆる製品がディスプレーを備えている。そして、各種インターネットを介した動画配信サービスの数々は、テレビという装置を通して見ることに違和感を感じる人もいなくなった。かつてテレビが単なる情報端末であることを拒んできた歴史は、遙か彼方のうっすらとした記憶の出来事でしかなくなった。

*参考文献『テレビ的教養――一億総博知化への系譜』佐藤卓己

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