オリンピックとテレビの70年【テレビ70年企画】

笹田 佳宏
オリンピックとテレビの70年【テレビ70年企画】

2024年はパリ大会が開催されるオリンピック・イヤーである。2021年に開催された東京大会は、コロナ禍の影響で無観客開催となり、世界中から人々が集まるイベントとはならなかったが、夏季オリンピックは世界最大のスポーツイベントのひとつであるとともに、世界で30億人を超える人々がテレビ・ラジオで視聴するイベントでもある。本稿では、夏季大会を中心にオリンピックを日本のテレビがどのように放送してきたか、その歴史をあらためて振り返ってみたい。

テレビとオリンピックの出合い

前史から話をはじめると、テレビとオリンピックの最初の出合いは1936年のベルリン大会であった。この大会は、ヒトラー率いるナチス政権がオリンピックを国家宣伝の道具としたことで知られている。ヒトラーは、政治的な道具として音声・映像メディアを駆使した。レニ・リーフェンシュタール監督に作らせた『民族の祭典』『美の祭典』の"オリンピア"二部作の記録映画をはじめ、32カ国の放送スタッフが集まり、ラジオで世界に中継されたことから"ラジオ・オリンピック"とも呼ばれた。聖火リレーの前身である「オリンピックの火」リレーのラジオ実況中継も行われ、テレビ中継も国家プロジェクトとして実施された。

テレビ中継は、ベルリン市内を中心とする28カ所の受像所に縦120センチ、横100センチほどのスクリーンを設置し、陸上競技などが上映された。ただ、走査線(画面の水平方向の線)は180本であったことから、何が映しだされているのかよく分からない映像もあったようである。ベルリン大会は、日本で初めてオリンピックをラジオで実況放送した大会でもある。日本初の女性金メダリスト・前畑秀子(女子200m平泳ぎ)が誕生し、NHKの実況アナウンサーによる「前畑がんばれ!」の絶叫とともに時代を超えて語り継がれている。ベルリン大会後の1940年に予定されていた東京大会は第2次世界大戦につながる国際情勢悪化の中、日本が開催を返上、1944年のロンドン大会は第2次世界大戦によって中止に追い込まれる事態となった。

戦後の1948年に開催されたロンドン大会は、敗戦国だった日本は招待されなかったが、一般に向けたテレビ生中継が初めて行われた。ロンドン市中心から半径80キロの地域で見られ、合計で64時間の放送が視聴できたという。「当時ロンドンでは白黒テレビジョン受像機、10万台の普及でしたが、オリンピックの映像が史上初めて家庭で楽しめる時代に入りました」([1])と評されている。また、国際オリンピック委員会(IOC)の公式資料「OLYMPIC MARKETING FACT FILE 2023 EDITION」(以下、「MARKETING FACT FILE」)では、この大会を「放送権料の原則を定めた最初のオリンピック」だと位置づけている。英BBCが放送にあたり1,000ギニー (約3,000㌦) を支払うことに同意するが、同大会のOCOG(Organising Committee for the Olympic Games、オリンピック組織委員会)は英BBCの財政的困窮を懸念し、支払いを受け入れなかったとしている。

「MARKETING FACT FILE」によるとロンドン大会後、1952年ヘルシンキ大会ではOCOGが放送権交渉を始め、1956年メルボルン大会では、放送権交渉が決裂し米国を含む数カ国でテレビ放送ができなくなった。冬季大会として初めてのテレビ放送は、1956年コルチナ・ダンペッツォ大会で行われた。そしてIOCは1958年、オリンピック憲章に、テレビ放送権の支払いについて明文化した。

テレビが全てを変えた

こうした流れを受けて開催されたのが1960年のローマ大会である。日本では1953年にNHKと日本テレビ放送網がテレビ放送を開始、ローマ大会が開催された1960年8月までに民放テレビは42局までに増加した。日本だけでなく世界的なテレビの普及を受けて本格的にテレビ放送が導入されたオリンピックだった。『オリンピック全史』では、「テレビが全てを変えた」との見出しでこの大会について書き出されている。同書によると、「テレビというメディアは新しい施設とさらなる費用を要したが、一方で収益ももたらした。1960年、ローマ大会の組織委員会はテレビ放送権をヨーロッパの放送機構ユーロビジョンに販売。日本のNHKにも少し条件を変更して売った。さらに、米国のCBSとは、当時としては驚くべき高額の39万4,000㌦での契約に成功した。中継局のおかげで、ヨーロッパ12カ国(注「MARKETING FACT FILE」では「18カ国」となっている)の人々が100時間近くの競技を生放送で見ることができた。米国と日本の放送局は毎日飛行機を利用し、編集済みのハイライトを海の向こうの母国に持ち帰ってプライムタイムに放送した」([2])としている。

テレビがもたらした収益が放送権料である。「MARKETING FACT FILE」では、ローマ大会から各大会で得た放送権料が掲載されている。ローマ大会で支払われた放送権料は、NHKが5万㌦、欧州、米国、カナダを合わせて総額120万㌦だった。また、『NHK年鑑』(1962年,NHK出版)によると、「NHKでは、20名の特派員団と、在ヨーロッパ支局員を動員して大会の報道放送にあたる(中略)とくに、テレビのオリンピック放送は、史上、初めてであり、しかも日本の放送界を代表して放送を実施し、番組のすべてを商業放送に提供した」とされている。

1964年、東京大会

そして1964年、アジアで初となる東京大会が開催される。この大会では、NHKが組織委員会から委託される形で世界の放送権交渉の窓口となり160万㌦を集めるとともに、ホスト放送機関となり競技映像を制作し、世界各国の放送局に提供した。また、テレビの最新技術が多数投入された大会でもある。開閉会式、レスリング、バレーボール、体操、柔道など8競技が初めてカラー放送されたほか、オリンピック史上初のマラソン全コースのテレビ中継を行った「ヘリコプター中継装置」、VTRで収録した競技のスローモーション再生も行われた。さらに、静止通信衛星シンコム3号を使って深夜の米国にも映像が送られ、映像を毎日空輸する方法も併用して、ローマ大会の21カ国から倍増した40カ国でテレビ放送が行われた。

NHK編の『20世紀放送史』は、「東京オリンピックの衛星中継の成功は、"テレビ・オリンピック"時代の幕開けを世界に告げた」と位置づけている。『民間放送30年史』によると民放は、「NHK制作の映像分岐を受けるローマ方式」「有望8種目と開閉会式は民放アナを別に立て差し替える」「放送権料は無料」「施設分担金として2,600万円をNHKに支払って」放送対応を行った。

大きな転機となった
モントリオール大会とモスクワ大会

そして、日本のテレビ放送が大きな転機を迎え、現在のNHKと日本民間放送連盟(以下、民放連)が共同で放送権を獲得し取材・放送するジャパン・コンソーシアム(JC)方式につながるのが1976年のモントリオール大会と1980年のモスクワ大会である。モントリオール大会では「アジア放送連合(ABU)が窓口となり放送権を決め、その日本負担分をNHKと民放連が分担」([3])する方式が採用された。放送権はNHKが持つものの、初めてNHKと民放がオリンピックで共同取材を行った。これは"モントリオール方式"と呼ばれた。

そしてモスクワ大会では、日本教育テレビ(略称:NET、1977年4月に社名を全国朝日放送に変更、現テレビ朝日)が単独で放送権を獲得し、大きな課題を残した。1977年3月9日にNETが獲得を発表したことから、NHKの事業計画・予算を審議していた国会においてもNETの放送権獲得が取り上げられる事態になった。当時の新聞報道や国会の議論をからその経緯は次のようなことであった。

1977年2月中旬にモスクワ大会の組織委員会からにNHKと在京民放キー局に放送権交渉の招請状が届く。NETを除く各局は、モントリオール方式で対応するつもりでいたところ、NETは3月1日に三浦甲子二常務をモスクワに派遣し単独で交渉に踏み切った。これに対し、日本テレビ、TBS、フジテレビ、NHKは、共同で放送権交渉を行うことを確認し、NHKの橋本忠正理事を8日にモスクワに派遣した。しかし9日、組織委員会とNETは日本の放送権に関する協定を結び、調印したというものである。金額は推定850万㌦でモントリオール大会の6.5倍だった。

NETが単独で放送権を獲得した理由について毎日新聞(1977年3月10日)は、次のように指摘している。①NETが4月に社名を「全国朝日放送」(略称:テレビ朝日)に変更するにあたっての大きなイメージアップになる。②モスクワと東京の時差が約6時間あるため、競技が行われる2週間にわたってゴールデンタイムを独占できる。また、NET系列は当時8局で全国をカバーできないこと、日本テレビの上子秀秋専務の「共同交渉という形式を破り、破格の放送権料にまでつり上げることをあえてしたのだから、NETからは絶対映像はもらわない」とのコメント、NHKは「放送法の建前上、オリンピック放送を無視することができず、NETから映像の提供を受けざるを得ない立場にたたされた」といったことも記事にしている。

公共放送NHKがオリンピック放送をできないことは国会でも問題視され、小宮山重四郎・郵政大臣は3月24日の参議院・逓信委員会で、「放送法の趣旨からいって国民あまねくその放送を見ることができるような形に持っていくべきであろう。(中略)あくまで話し合いがつかなければ、郵政大臣としてはその仲に入らざるを得ないかもしれない。そういうことがないように積極的な話し合いを続けて円満な解決を望んでおります」と答弁している。さらに、11月16日には衆議院逓信委員会で、NHK会長、民放連会長、テレビ朝日社長などが参考人として出席し審議が行われたが、事態が収拾される気配はなかった。

しかしこの問題は、大会開幕が7カ月後に迫った1979年12月、ソビエト連邦のブレジネフ政権が社会主義を掲げるアフガニスタンの親ソ派政権を支援するため軍を侵攻させたことよって急変する。侵攻に対して、米国のカーター大統領がモスクワ大会のボイコットを表明し、1980年4月に米国のオリンピック委員会がボイコットを決定。日本オリンピック委員会も5月25日、不参加を決定した。これを受けテレビ朝日は5月29日、計206時間の放送を予定していたオリンピック放送の中継は白紙に戻すと発表した。

ジャパン・プールから
ジャパン・コンソーシアムへ

モスクワ大会の苦い経験を受け1984年のロサンゼルス大会の日本の放送権は、NHKと民放連がジャパン・プール(JP)を結成、放送権を獲得した。モスクワ大会問題の国会審議でNHKの堀四志男専務理事は、「モントリオールの方式というのはこのジャパン・プールの精神をそのまま引き継いだ形で結実したものでございます」([4])と説明している。ジャパン・プールの正式名称はジャパン・サテライト・ニューズ・プール(JSNP)で、通信衛星回線が少ない当時、海外からの映像を入手する際に日本の放送界として回線を共同で使用するため、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、NETの4社で1969年に設置したものである。この海外からの映像伝送を共同で行う枠組みをオリンピックで使用することで、モントリオール方式が作られ、ロサンゼル大会でJPが成立した(1996年のアトランタ大会から名称を変更し、ジャパン・コンソーシアム"JC"を使用している)。「民間放送」(1984年1月23日号)によると、ロサンゼルス大会は、NHK、民放から83人の共同取材チームを現地に派遣。取材はラジオ・テレビともに共同取材チームが行い、共同取材した素材はすべてプール素材として、東京に送信後、NHKと民放に同時に分岐した、などとしている。

JCとなってからの新しい取り組みなどを見てみると1988年ソウル大会は、1984年から試験放送がスタートしたNHKのBS放送で地上波を上回る放送時間の中継を行うなど、衛星放送への関心を集めた。ソウル大会が終わった10月末には、衛星放送の受信世帯が100万を超えた。そして1996年のアトランタ大会以降、大会ごとに販売されていた放送権の複数大会契約が登場する。オーストラリアのチャンネル7が、2000年のシドニー大会を含む、1996年アトランタ大会から2008年夏季大会(当時は開催地未定)までの夏季、冬季大会の放送権を獲得したのをはじめ、米国のNBC、ヨーロッパ放送連合などが複数大会の契約を行うようになる。こうした動きを受けて、JCも1996年に、シドニー大会から2002年ソルトレークシティー冬季大会のほか開催地未定の3大会(2004年アテネ大会、2006年トリノ冬季大会、2008年北京大会)の放送権を獲得した。冬季大会については、1998年の長野大会で初めてJCとした放送権を獲得し対応したことに続き、冬季大会もJCとして放送権を獲得することになった。この後、JCは複数大会で放送権を獲得し、現在2032年夏季大会まで権利を保有している。

また、2008年の北京大会は、NHK、民放それぞれが初めてインターネットでハイライトなどを配信した大会である。民放テレビは132社の共同で「gorin.jp」というサイトを立ち上げた。その後、NHK、民放ともにインターネット配信は、大会ごとに拡充していくことになる。東京大会では、NHK、民放ともに放送番組の同時配信を行ったほか、NHKは全33競技・約3,500時間、民放もライブストリーミングを約2,600時間配信するなど、テレビ放送に加え、ネット配信にも力を入れた。

NHKと民放連でJCを組織し、放送権を獲得する。そしてJCの共同チームが競技映像を制作するホスト放送機関から競技映像を受け、アナウンスをつけて日本に伝送し、NHKと民放各社で共有、放送する。この日本のオリンピック放送スタイルはロサンゼルス大会でできあがり、現在に至っている。世界各国では、1つの放送局が放送権を獲得し放送するスタイルが基本で、テレビ全局がオリンピック放送を行う日本の放送スタイルはレアケースとなっている。NHKそして民放各社がオリンピック中継を行い、さまざまな番組でも取り上げる。これによってオリンピックが始まると国中がオリンピックで盛り上がるという日本独特の雰囲気を作り上げていると言える。


([1]) 「オリンピックと放送技術の発展」永井研二、『映像情報メディア学会誌Vol.70、NO.3』(2016)、365頁。

([2]) デイビット・ゴールドブラット・志村昌子・二木夢子訳『オリンピック全史』(2018)原書房、212頁。

([3]) 『毎日新聞』1977年3月4日。

([4]) 第80回国会、参議院逓信委員会、1977年3月24日。

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