広島テレビ放送・渡邊洋輔さん 被爆80年企画「NEVER AGAIN~つなぐヒロシマ~」の取り組み 世界に発信する"ヒロシマの心"【戦争と向き合う】⑭

渡邊 洋輔
広島テレビ放送・渡邊洋輔さん 被爆80年企画「NEVER AGAIN~つなぐヒロシマ~」の取り組み 世界に発信する"ヒロシマの心"【戦争と向き合う】⑭

シリーズ企画「戦争と向き合う」は、各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていく企画です(まとめページはこちら
第14回は広島テレビ放送の渡邊洋輔さん。「シリーズ・キノコ雲の上と下」などの被爆80年キャンペーン「NEVER AGAIN~つなぐヒロシマ~」の取り組みを紹介いただきました。(編集広報部)


広島テレビ放送(以下、広島テレビ)は20248月から、被爆80年キャンペーン「NEVER AGAIN~つなぐヒロシマ~」をスタートさせました。世界で国家間の戦争が再び始まり核の脅威が高まる今「過ちを繰り返してはいけない」というメッセージを世界に発信する取り組みです。

柱の一つが「シリーズ・キノコ雲の上と下」です。キノコ雲の上=米兵と、キノコ雲の下=被爆者の双方の視点から原爆投下を見つめ、それぞれが抱えた苦悩と葛藤に迫るものです。

戦争が生み出す"狂気"と"悲劇"

第1弾として、20241013日にNNNドキュメント'24『キノコ雲の上と下~米兵の心に苦悩を刻んだヒロシマ~』を放送しました。生後8カ月で被爆した近藤紘子さんは、10歳の時に広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の副操縦士ロバート・ルイスさんと対面。苦悩の言葉を口にして涙を流す姿に衝撃を受け、憎しみを許しに変えていきます。一方、原爆を正当化したレーダー対策士のジェイコブ・ビーザーさんも、葛藤の思いは消えませんでした。原爆投下から40年後、被爆者の女性と出会い、非戦の思いを誓います。広島の原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」というメッセージ。キノコ雲の上と下にいた人々が立場を乗り越え、同じ心で訴えるという番組です。

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<生後8カ月で被爆した近藤紘子さん>

この番組の取材は「エノラ・ゲイ」の搭乗員たちの資料を知ったことがきっかけでした。任務に失敗した時に捕虜になり機密事項を漏洩することがないよう、自殺用の拳銃と青酸カリを持ち込んで任務に当たったこと。原爆投下時に「鉛の味がした」と証言していたこと。正義感を、苦悩と葛藤に変えた搭乗員がいたことを知りました。原爆の被害を伝えることはもちろん重要ですが、米兵がどんな思いで任務にあたり、戦後の人生で何を感じていたのか。彼らの視点から原爆投下を見つめることも重要だと思いました。

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<広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の副操縦士ロバート・ルイスさん>

私たちは調査を進め、米国の博物館に保管されていた搭乗員の音声を発見、遺族への取材も重ねていきました。搭乗員たちも、戦争の狂気の渦に飲み込まれた"人間"であること、原爆投下という十字架を背負って生きたことを知りました。比較的リベラルな印象のロバート・ルイスさんと、保守色の強いユダヤ系のジェイコブ・ビーザーさんは対照的に見えましたが、取材を積み重ねていくうちに彼らの立場に共通する悲劇と思いが浮かび上がってきました。キノコ雲の上と下、双方の視点から原爆投下を見つめることで、戦争が生み出す狂気、悲劇を伝え、「戦争の絶対悪」を訴えたいと思いました。

原爆投下に至る経緯を"線"で伝える

もう一つ、意識したことが86日を"線"で伝えることです。私は和歌山県出身で、広島テレビに入って初めて原爆に深く触れました。そこで、広島の原爆報道が86日を""で伝えることが多く、原爆投下に至る経緯や歴史的背景を伝えきれていないと感じました。"なぜ原爆が投下されたのか"を知ることが、過ちを繰り返さないために必要だと思いました。そこで、搭乗員のストーリーと原爆投下に至る経緯を重ねて考える番組を制作することにしました。

このシリーズの第2弾として2025年1月に放送したのが、『模擬原爆・パンプキン』です。19458月、広島と長崎に原爆を落とした米国は、事前に緻密な投下訓練を行っていました。使用されたのは「パンプキン」という名の模擬原爆。核物質の代わりに通常爆薬を詰めて投下し、日本各地で400人以上が犠牲となりました。これに加わったのが米兵のクロード・イーザリーさん。天才パイロットと称されたイーザリーさんは戦後、罪の意識に苦しむことになります。パンプキン訓練、原爆投下の実行のその先で米国が思い描いていた原爆投下作戦の真相を追いました。

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<模擬原爆「パンプキン」>

番組では模擬原爆「パンプキン」の訓練が、どのように原爆投下につながっていったのか。「原爆投下作戦の序章」として描こうと考えました。亡くなったのは400人ですが、爆弾投下の"訓練のため"だけに"400人以上"の人が亡くなったと考えると、この数字に強い残酷性を感じます。訓練が2発の原爆投下につながり、3発目以降の原爆投下について軍部が検討していたことも明らかにし、原爆投下作戦の恐ろしさ・狂気を描くことを意識しました。

2月に放送したのは『被爆教師・森下弘~トルーマンに会った男~』です。14歳で被爆した元教師の森下弘さん(94)。母を亡くし、自身も耳殻が溶けるほど大やけどを負いました。書道を教えながら証言活動に力を入れていた1964年、原爆投下を命じた米国のトルーマン元大統領と会いますが、謝罪はなく落胆しました。しかし、トルーマンも苦悩していました。投下後の日記には後悔の念が綴られていました。悲劇を二度と繰り返さないために平和学習の副読本を作成するなど平和教育に心血を注いできた森下さんが、被爆80年の今、伝えたい思いを取材しました。

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<平和教育に心血を注いだ森下弘さん>

そして3月に放送したのは、『テニアン~玉砕と原爆の島~』です。北マリアナ諸島の一つ・テニアン。80年前、米軍の爆撃機・B29が原爆を搭載して広島・長崎に向かった拠点であり、その前年には日米が激戦を交わし、日本兵や集団自決した民間人を合わせ約15,000人が亡くなった地でもありました。玉砕から生き延びた新垣光子さん(90)は、多くの日本人が身投げした海を思い出すと恐怖で涙します。この島で暮らす日本人の佳子・マングローニャさん(70)は、今も見つかる遺骨や遺品を大切に慰霊し続けます。そして被爆者の梶矢文昭さん(85)は20年前、原爆を落とした投下部隊の米兵とテニアンで出会い謝罪を受け、人ではなく戦争を憎むと決めました。島に残る玉砕と原爆の爪痕、そして今後、米軍が整備を進めようとしている訓練場など、悲劇の島テニアンの今に迫る番組です。

戦争体験者の証言を人類共有の財産に

私たちは広島の報道機関として、これまで原爆をテーマにした番組を数多く制作してきました。しかし終戦から80年がたったいま、被爆者の高齢化が進む中で、取材の難しさは年々増しています。被爆者の平均年齢は85歳。まだご存命の方も多くおられる一方で、原爆の記憶をはっきりと語ることのできる人は少なくなっています。「シリーズ・キノコ雲の上と下」では、米兵の取材・調査にあたりましたが、元兵士は被爆者に比べてはるかに少なく、取材のハードルの高さを痛感しています。それでも、音声や手記を掘り起こして集め、事実を積み重ねて伝えることはできると思いました。残された時間は長くはありませんが、戦争体験者の証言を聞き取り、資料を集めて伝え残すことで、人類共有の財産にする取り組みを続けていくことが重要なのだと感じています。

2024年に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞したことで、喜びとともに伝え続ける使命感を新たにしました。本当に素晴らしいことだと心から拍手を送るとともに、代表委員を務めていた坪井直さんが生きていたら、と思わずにいられませんでした。2016年、謝罪を求めずオバマ大統領当時)と握手を交わした坪井さんは「われわれは未来に行かにゃいけん」と語りかけました。人間の尊厳を保ち、憎しみを乗り越え坪井さんが遺した"ヒロシマの心"をあらためて見つめなおし、伝えていく必要があると感じました。

今回の番組で取材した被爆者の方々も、立場を乗り越え非戦を訴えるメッセージは、坪井さんの訴えと重なります。"ヒロシマの心"を世界に発信する取り組みを続けていきます。

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