テレビジャーナリズムの70年(後編)【テレビ70年企画】

倉澤 治雄
テレビジャーナリズムの70年(後編)【テレビ70年企画】

テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社の発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。今回は、テレビジャーナリズムの歴史を振り返ります。

前編はこちらから。


2011年3月11日14時46分に起きた「東北地方太平洋沖地震」は、マグニチュード9.0の超巨大地震だった。岩手、宮城、福島の3県を中心とした東北地方太平洋岸は、地震と津波そして「東京電力福島第一原子力発電所事故」という多重災害に見舞われることになった。震災関連死を含め、死者行方不明者の数は2万2,000人を超えた。

カメラがとらえた"原発爆発"

津波の映像とともに人々に衝撃を与えたのは福島第一原発1号機と3号機の爆発映像である。忘れもしない3月14日11時1分、日本テレビで解説をしていた筆者の前に置かれたモニターに、3号機の爆発映像が映し出された。「日本は終わった」と心底思ったことを今も忘れない。幸い日本は終わらなかった。しかし未曽有の原発事故の影響は、これから何十年にもわたって続くだろう。

撮影したのは福島中央テレビ(FCT)である。12日15時36分、まず1号機が爆発した。FCTは1999年に茨城県東海村で起きたJCO臨界事故をきっかけに、福島第一原発と第二原発を望める場所に無人のテレビカメラを設置した。2006年の全都道府県の県庁所在地での地上デジタル放送開始を前に、他社を含めてより沿岸に近い場所にデジタルカメラを設置した。しかし地震による電源喪失などにより、生き残ったのはFCTのアナログカメラだけだった。

カメラがとらえたのは原子力開発史上初となる"原発爆発"の映像である。映像はたちまち世界を駆け巡り、「福島第一原発事故」の象徴となった。2011年の「新聞協会賞」に最もふさわしい映像であることは誰もが疑わなかったが、FCTは日本新聞協会の加盟社ではなかった。残念である。

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*福島中央テレビ提供

<福島第一原発3号機の爆発

FCTはアナログ無人カメラをお天気カメラとしても使っていたが、使い終わったら必ず福島第一原発にレンズを向けておくというルールを徹底していた。また爆発の直前にわずかに上がった煙を見逃さず、映像担当者がビデオディスクのスイッチをONにしたことがスクープ映像につながった。爆発のわずか2分前のことだった。日ごろの準備、徹底したルール、そして現場スタッフの機転が世界的なスクープ映像を生んだのである。

日航ジャンボ機墜落事故
生存者の救出を生中継

「新聞協会賞」の軌跡を追うと、「映像の力」こそが、テレビジャーナリズムの源泉であることがわかる。1985年に受賞したフジテレビの「日航ジャンボ機墜落事故」での映像は「スクープ」という言葉では言い表せない重みを今も持っている。

1985年8月12日、日航ジャンボ機JAL123便がレーダーから消えた。同機は18時12分に乗客乗員524人を乗せて羽田空港を離陸。大阪の伊丹空港に向かったが、群馬県上野村の通称「御巣鷹の尾根」に墜落し、乗員乗客520人が死亡した。

その日、フジテレビの新人記者山口真は夕方の『FNNスーパータイム』に立ち会った後、サブコントロールルームで待機していた。「お前、行け!」というデスクの一言で、山口はどこにあるかもわからない「現場」へと向かった。山口は報道局に配属されてまだ3カ月で、取材経験はほとんどなかった。

12日25時ごろ、山口のクルーは群馬県と長野県の県境にある「ぶどう峠」に到着した。米軍のヘリが照らしたサーチライトを目標に、ひたすら「現場」を目指した。機材を担ぎ、崖を上り、坂を下り、悪戦苦闘した。熊笹にしがみつき、足場が崩れては転び、手足には打ち身で内出血ができた。「現場」に近づくほど位置が分からなくなった。「ここはどこだろう」と思った瞬間、山口の目に人間の後頭部が飛び込んできた。

さらに進むと123便の機体は尾根にぶつかり、黒焦げとなっていた。散乱する遺体も焼け焦げており、山口らは「生存者はいない」と確信した。スタジオでは露木茂をアンカーに特番が続いていた。上空のヘリコプターからはアナウンサー出身の大林宏がレポートを続けていた。

現場を目指していたのは山口のクルーだけではなかった。中継を担当する報道技術センターの柳下茂のチームである。柳下らは中継用のパラボラアンテナを担ぎ、現場に向かった。柳下の頭の中には現場からヘリを介して映像を本社に送る「ヘリスター」と呼ばれる中継技術のイメージができあがっていた。

現場でレポートを撮り終わった山口は、先輩カメラマンに「VTRを持って下山して、伝送が終わったら戻ってこい」と指示された。下山する道も分からぬ中、藪をかき分けて沢に出たところで柳下のチームとばったりと出会った。互いに顔を見たこともなかったが、報道腕章と機材に貼られている「8の字」からフジテレビと確信したのである。

現場に戻り柳下のチームが中継の準備を終えたころ、谷の方から「生存者がいるぞ」という声が聞こえた。しばらくするとマイクを持った山口の脇を担架で運ばれる人の姿があった。スタジオと現場が中継でつながった。「お前がしゃべるんだ!」とのカメラマンの一言で、我に返った山口がマイクを握ってしゃべり始めた。時計の針は11時半を指していた。

当時、筆者は羽田のオペレーションセンターで取材を続けていた。フジテレビの映像に集まった200人を超える報道陣の間から思わず「ウォーッ」と声が上がった。日本テレビが現場の映像を放送できたのは23時になってからだった。4人がこの事故から生還した。

山口はのちに「自分がいなくてもスクープは成立していました」と謙遜する。しかし「現場」を目指す飽くなき「意思」と「執念」がなければ、歴史に残るスクープ映像を手にすることはできなかったのである。

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<民放テレビの新聞協会賞受賞歴

一国の政治体制を動かした「アキノ白昼の暗殺」

スクープ映像は一国の政治体制を動かすこともある。1984年に受賞した「報道特集『アキノ白昼の暗殺』」がそのよい例である。マルコス政権末期の83年5月、市民に絶大な人気のあるベニグノ・アキノは熟慮の上、死を覚悟で事実上の亡命先の米国からフィリピンに帰国することを決意した。情報を得た『報道特集』初代キャスターの北代淳二らはインタビューと同行取材を申請した。

取材に同行したのはTBS記者だった田近東吾である。カメラマンの横井義雄とともに台北でインタビューを終えた後、8月21日、アキノと同じ便でマニラに向かった。マニラ空港の駐機場に着くと、3人の兵士が飛行機に乗り込んできた。兵士らはアキノの両脇を抱えて連行した。カメラマンの横井はアキノが立ち上がった瞬間、にこやかな表情が突然厳しくなったことを覚えているという。

機外ではタラップが用意され、田近らがアキノと一緒に降りようとしたが、兵士に制止された。10秒あるかないかのうちに銃声が聞こえ、窓の外をのぞくとアキノがうつぶせに倒れていた。田近はアキノの頭から、血が噴水のように吹き上がっているのを目撃したと語る。

ビデオには殺害の瞬間は映っていなかった。しかし銃声や兵士の動きを含めて、機内と機外の模様がすべて収録されていた。問題はVTR素材の搬送だった。田近はマニラ発東京行きのタイ航空便に1席だけ空席があることをつかんだ。テープをカバンの底に忍ばせて、ひとり東京に向かった。成田に着いた田近は直ちに暗殺現場の状況をレポートした。スクープ映像が世界に流れた瞬間である。

フィリピン政府はアキノ暗殺の犯人は青いシャツの「ガルマン」という男であると発表した。翌週の8月28日、『報道特集』 はスクープ映像を詳細に分析して、アキノの頭部には左後頭部から顎に抜ける形で銃痕が残っていること、「ガルマン」がアキノ後部の至近距離に近づくことが不可能だったこと、タラップの途中で二人の男が「プシラ(撃て)」と声を掛け合っていたことなどを実証的に報道した。

ビデオはフィリピン国内に持ち込まれた。英語版が作られ、真実を知ろうとする市民の間で回覧された。マニラ市内では「ニノイ(アキノ)を返せ」と大規模なデモが発生、フィリピン政府も「真相究明委員会」を組織せざるを得なくなった。

2年半後の86年2月7日、アキノの妻コラソン・アキノとマルコスの間で大統領選挙が行われた。結果に不正があっとして、マニラでは100万人を超えるデモに発展した。

軍部も政権を見限り、マラカニアン宮殿に市民がなだれ込み、マルコス夫妻は米国に亡命した。1本のビデオ映像とそれを詳細に分析した『報道特集』が、マルコス独裁に終止符を打ったのである。

民放の新聞協会賞受賞歴を振り返ると、丹念な映像による取材が実った結果であることがよくわかる。キー局だけでなく、ローカル局が受賞していることも心強い。近年、フジテレビの受賞が目立っている。「新聞協会賞」以外にも、優れたテレビ報道は数多くある。映像と音声という特徴を活かして、一人ひとりの記者がこだわりを持って取材にあたれば、多くの隠された真実を掘り起こすことができるのである。

民放テレビの「影」

スクープ記事や映像がテレビジャーナリズムの「光」であるとすると、やらせや不祥事は「影」である。民放テレビの「四大不祥事」はテレビ朝日の「椿発言問題」、TBSの「オウム真理教ビデオ事件」、日本テレビ社員による「視聴率不正操作事件」、それに「CM未放送問題」である。

93年、テレビ朝日の椿貞良取締役報道局長が民放連の放送番組調査会で、「非自民政権が生まれるよう報道するようにと指示した」と発言した問題は新聞で報道され、同氏が国会で証人喚問されるに至った。またオウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件では、TBSが放送前の坂本弁護士のインタビューテープをオウム真理教幹部に見せていたことがのちに明らかとなり、事件とのかかわりについて国会でも取り上げられる事態となった。2003年の日本テレビ「視聴率調査不正問題」では番組制作者が視聴率調査のモニター世帯を割り出し、金品を渡して視聴を依頼していた事件で、「視聴率」というテレビ指標の根幹を揺るがす問題となった。さらに1990年代後半の福岡放送、北陸放送、静岡第一テレビによる「CM未放送問題」では広告主から受注したCMを契約通り放送せず、無料広告放送という民放のビジネスモデルへの信頼を大きく損なうこととなった。

BPOの放送倫理検証委員会で審議された案件を見ると、不適切な演出、不公正な選挙報道、データ捏造、差別的表現などがあとを絶たない。メディアとしての信頼を失うことは、民主主義の基盤を危うくすることを深く自覚すべきだろう。

若手記者に向けて

世はネットニュースの時代といわれる。とくに若者は「Yahoo!ニュース」や「SmartNews」でしかニュースを見ないといわれる。ではネットニュースは誰が制作しているのか。大半の記事や映像は、大手メディアやフリーランスの記者・カメラマンが取材したものをベースとしているのである。

ネットメディアの効用を否定するつもりは毛頭ないが、記者が現場で取材しなくなればネットニュースも消滅する。それは民主社会の崩壊でもある。

警察用語に「現場百度」という言葉がある。どれほどの難事件でも、百回現場に通えば事件の筋が見えてくるという教訓である。若い記者の皆さんにもぜひ「現場百度」の精神を実践してほしいと思う。事実を掘り起こし、丹念に分析し、映像を収集し、正しい論理に従って構成すれば、毎日のニュース番組が「独自」と「スクープ」で埋め尽くされることになるだろう。そうなる日を強く期待している。

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