テレビジャーナリズムの70年(前編)【テレビ70年企画】

倉澤 治雄
テレビジャーナリズムの70年(前編)【テレビ70年企画】

テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社の発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。今回は、テレビジャーナリズムの歴史を振り返ります。


1953年にNHKと日本テレビによるテレビジョン放送がスタートした時、全国に存在していたテレビ受像機の数は1,000台に満たなかった。当時日本テレビの社長だった正力松太郎は駅や公園に街頭テレビを設置。プロレス、野球、大相撲、それに舞台中継を見るために、多くの人々が"小さなブラウン管"の前に集まった。街頭テレビは日本のテレビ放送の原点である。

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<街頭テレビに集まる人々

人は世界の出来事を「画像」や「映像」で記憶する。2011年の「東日本大震災」と「東京電力福島第一原発事故」、2001年9月1日の「同時多発テロ」、さらには1995年の「地下鉄サリン事件」、1989年の「天安門事件」や「ベルリンの壁崩壊」など、その時代を生きた人々の脳裏には「歴史」が「映像」として記憶されている。

ニュース番組の始まりと
ニュースネットワーク

日本テレビは開局翌年の1954年、一日の出来事を振り返るニュース番組『今日の出来事』をスタートさせた。民放ニュース番組の嚆矢である。同番組は53年に及ぶ長寿番組で2006年に終了した。その後『news zero』と名称を変え、現在はNHK出身の有働由美子をアンカーパーソン(アンカー)に、23時台のニュース番組として続いている。

55年にはラジオ東京(現在のTBSテレビ、以下TBS)がテレビ放送を開始した。当時のストレートニュースは映画館で本編の前に上映される「ニュース映画」に近く、制作は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞などが担っていた。日本テレビとTBSのニュースは大手新聞3社が日替わりで制作していた。いわゆる「3社ニュース」である。59年には日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)とフジテレビが開局した。

キー局とローカル局が連携する「ニュースネットワーク」の重要性を最初に認識したのはTBSである。59年に「JNN」を設立して、ネットワーク化にいち早く取り組んだ。66年には日本テレビ系列の「NNN」とフジテレビ系列の「FNN」、74年にはテレビ朝日系列の「ANN」が成立した。民放テレビ局の系列化はニュースネットワークをベースに進んだのである。

62年には日本初のキャスターニュース番組『ニュースコープ』がTBSでスタートした。「米国の良心」といわれたウォルター・クロンカイトの『CBSニュース』をモデルにしたといわれ、新聞・通信社出身の田英夫、戸川猪佐武、古谷綱正、入江徳郎ら日本の第一世代のアンカーを輩出、その後、TBS出身の田畑光永、平本和生が後を継いだ。

この時代、筆者の脳裏に「映像」として刻まれているのは59年の皇太子結婚式、63年のケネディ米国大統領暗殺事件、69年の東大安田講堂事件とアポロ11号有人月面着陸、70年のよど号ハイジャック事件、72年のあさま山荘事件などである。

とくにアポロ11号有人月面着陸の当時、高校生だった筆者は、人類が月に到達する瞬間を世界と共有することに震えるような驚きを感じると同時に、米国と日本の科学技術力の差に、絶望的な思いを抱いたことを覚えている。また、あさま山荘事件やよど号ハイジャック事件には筆者とほぼ同世代の実行犯もいて、複雑な思いで事件の推移を見つめていた。

技術の発展で「報道の時代」に

この当時、テレビニュースはようやく地歩を固めつつあったが、本格的なニュース番組の出現は、ビデオカメラの普及と通信技術の発展を待たなければならなかった。ビデオカメラは70年代終わりから80年代にかけて、急速に映像取材に導入された。

衛星通信の普及は、テレビニュースに革命をもたらした。それまでのフィルム時代はカメラマンが撮影したフィルムをテレビ局まで搬送し、現像、編集するのに大変な手間と時間がかかった。さらにフィルムは高価で、再利用ができず、撮影可能時間はフィルムの物理的な長さで制限されていた。

映像を電気信号として記録するビデオという媒体は、これらの問題をほぼ解決した。85年の通信自由化によって国内のマイクロ波通信ネットワークに加えて、国際衛星通信による伝送が利用しやすくなったことから、テレビニュースは「速報性」という大きな武器を手にすることができたのである。デジタル化と通信ネットワークの発展により、取材手法はENG(Electronic News Gathering)からSNG(Satellite News Gathering)、さらにはモバイル通信ネットワークの利用へと進化した。

80年は民放にとって「報道元年」と呼ばれる特別な年である。NHKアーカイブスカタログは次のように記載している。

1980年、民放各局はこの年を「報道元年」と位置づけ、『TV-EYE』(日本テレビ)、『報道特集』(TBS)、『ビッグニュースショーいま世界は』(テレビ朝日)など大型報道番組をプライムタイムに編成した。これらはアメリカCBSの『シックスティ・ミニッツ』を下敷きにしていた

NHKは74年に『ニュースセンター9時』、80年に朝の『ニュースワイド』をスタートさせていた。当時、民放各局にとってニュース番組はお荷物だった。制作には膨大なマンパワーと機材が必要で、視聴率が期待できず、スポンサーも付きにくいことから「金食い虫」「穀つぶし」などと揶揄されていた。それが一転して「報道の時代」ともてはやされることになったのである。

『TV-EYE』はキャスターに写真家の立木義浩、女優の沢田亜矢子らを起用したが、わずか1年半で打ち切られた。一方の『報道特集』は田畑光永、堀宏、料治直矢、田丸美寿々らがアンカーを務めた。その後、金平茂紀、日下部正樹、膳場貴子、村瀬健介と第二世代のアンカーがバトンを引き継ぎ、現場での独自取材を中心とする報道姿勢で輝きを放っている。

象徴となった番組

「報道の時代」の象徴となったのは84年に放送を開始したフジテレビ系列のニュース番組『FNNスーパータイム』である。全国ネットのニュースとローカルニュースに加え、スポーツやエンターテインメント情報を取り入れて、夕方1時間のニュース枠確立に貢献した。全国とローカルのニュースをシームレスに取り込むことで柔軟性が増し、長尺の「ニュース企画」「特集」「キャンペーン」が可能となった。アンカーは逸見政孝と幸田シャーミンで、スタジオで立ったまま伝えるスタイルが新鮮だった。同番組はゴールデンタイムへとつなげる橋渡し役となり、フジテレビは82―93年までの12年間にわたって"視聴率三冠王"を獲得したのである。

ニュース枠の拡大はその後も続き、2000年代初めには90分、10年代には120分、15年頃からは最大180分を超えた。

プライムタイムに敢然と「帯」のニュース番組で挑んだのは、85年にスタートしたテレビ朝日の『ニュースステーション』である。娯楽番組の時間帯にニュースのニーズがあるとは誰もが考えていなかった。しかし同番組は見事に視聴者の心をつかんだ。第1週に9%弱だった視聴率が全盛期には20%超えが珍しくなくなった。

久米宏の軽快な司会は「ニュース」という言葉が持つ堅苦しさを打破し、小宮悦子とのコンビも絶妙だった。その後、古舘伊知郎による『報道ステーション』となり、現在はNHK出身の大越健介をメインに、22時台のニュース番組として定着している。

女性アンカーの活躍が始まったのもこの頃からである。小宮のほかにも『今日の出来事』の櫻井よしこをはじめ、安藤優子、田丸美寿々らがニュース番組の顔として活躍した。また『筑紫哲也 NEWS23』はアンカーを正面に据えたニュース番組として根強い支持を集めた。その後、共同通信出身の後藤謙次、NHK出身の膳場貴子、毎日新聞出身の岸井成格、朝日新聞出身の星浩、テレビ朝日出身の小川彩佳と続いている。

メディアへの規制と「報道の自由」

テレビニュースが力を持つにつれて、政治との軋轢も顕在化した。1990年代終わりから2000年代初めにかけて、政党や政府によるメディアに対する規制の動きが活発化した。背景にはテレビの深夜番組での過激な性表現が挙げられた。メディア規制の動きは常にメディアの弱点を突くことから始まる。

個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案からなる「メディア規制三法」をめぐり、政権側と「報道の自由」を掲げる新聞・放送の間で激しい論争が続いた。2003年に個人情報保護法は成立したが、人権擁護法案は廃案、青少年有害社会環境対策基本法案は未提出のまま収束した。

メディア規制という政権の意図は常に存在する。それが端的に表れたのが14年衆議院選挙の際に自民党から放送局に送られた「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」という文書である。街頭インタビューなどで「特定政党に有利にならないように」との内容で、政権政党が文書で報道に介入した初めての事例となった。憲法学者や市民団体からの反発は大きかったが、当の民放テレビ局がニュースとしてほとんど取り上げなかったことから、その矛先は民放の報道姿勢にも向けられた。

選挙報道について、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は17年2月、「2016年の選挙をめぐるテレビ放送についての意見」として、「公正」が量的公平を意味しないこと、放送局には選挙に関する報道と評論の自由があることなどを盛り込んだ委員会決定を発表した。その上で、正確な情報と多様な視点を提示する"豊かな選挙報道"が「放送現場のジャーナリストに求められる職責であり使命である」と現場記者の奮起を促した。

メディア規制を志向する政権政党と「報道の自由」を掲げる放送局の軋轢は、NHKを含めて枚挙にいとまがない。23年には立憲民主党の小西洋之議員が公表した総務省の内部文書から、14年に安倍晋三元首相の補佐官だった磯崎陽輔氏が放送法に明記されている「政治的公平」の解釈について、1つの番組でも判断できるよう変更すべきだと総務省に圧力をかけていた実態が明らかになった。メディア規制と「報道の自由」をめぐる議論は今後も尽きることがないだろう。

BSのニュース番組

振り返ると筆者が日本テレビに入社した1980年の夕方のニュース枠は18時からのわずか30分、CMを除くと22分だった。現在は15時50分から19時までの3時間10分へと拡大した。内容も全国ニュース、ローカルニュース、スポーツだけでなく、エンターテインメントやグルメ、生活情報などが取り込まれた。ニュースの放送枠が拡大する一方、その内容には筆者を含めて物足りなさを感じる視聴者が少なくないだろう。

その意味でBSフジが2009年に始めた『BSフジLIVE PRIME NEWS』は画期的なチャレンジとなった。アンカーの反町理がじっくりとゲストの話を引き出すスタイルは、地上波ニュースに物足りなさを感じていた視聴者に訴求した。13年にはBS日テレが『深層NEWS』、18年にBS-TBSが『報道1930』をスタートさせた。『報道1930』は、アンカー松原耕二による一つのテーマを掘り下げる姿勢が支持を集めている。ニュースの主戦場は地上波から衛星放送、そしてネットへと戦線が広がっている。

問われているものは――

米国CBSの「ニューススタンダード」は民主社会を支えるテレビニュースのあり方について、次のように記している。

最も重要なことは我々の放送とフィクションやドラマを扱う娯楽番組との間に、可能な限り鋭い線、なぜこれほどまでにと思われるほど鋭い線を引くことである

エンタメ、スポーツ、グルメをふんだんに取り入れた日本のニュースは、ストレートニュース中心の欧米メディアとは対照的な姿に変貌してきた。とくに夕方のニュースである。エンタメ情報やグルメ企画を全否定するつもりはないが、近年の量の拡大にはもの申したくなる視聴者が多いのではないだろうか。

新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアによるウクライナ侵攻や米中対立、エネルギー、環境などの問題から明らかなように、現代世界はパラダイムシフトの時代に入りつつある。CBS「ニューススタンダード」には次のように書かれている。

CBSニュースの最大の責務は市民一人ひとりがニュースをもとに自ら判断し、民主主義が本来の機能を果たしていくために重要なあらゆる事実や視点を人々に提供していくことである

果たして日本のテレビジャーナリズムは「重要なあらゆる事実や視点を人々に提供」しているだろうか。テレビニュースが名実ともに視聴者の信頼を獲得するには、いま一度原点に立ち返る必要があるだろう。問われているのは記者の「意志」と「能力」である。

後編はこちらから。

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