撮影は、取材を申し込む場面から始めました。「なぜ俺を取材するのか」と問われ、苦し紛れに「あなたがいたという記録を残したい」と答えましたが、あとで素材を見直したときに、なんと薄っぺらい言葉だろうと落ち込みました。それくらい取材当初はその目的も何を視聴者に伝えるのがいいのかもわからずにいました。
主人公の斎藤歩さんと私は同じ1964年生まれで、大学演劇をとおして知り合いました。その後、斎藤さんは映画やテレビ、演劇の世界で俳優、脚本家として活躍し、取材当時は札幌の文化活動を牽引する著名人だったため、尿管がんで余命半年との診断を受けたときは地元メディアが大きく取り上げました。旧知の仲だった私が取材を担当するようになりましたが、日本では2人に1人ががんを患うという時代に、何をテーマにしたらいいのかわからなかったのです。
そもそも何と声をかけていいのかわからない。「きょうは具合どう? 取材は大丈夫?」というあいさつで始まりますが、つらそうなときは「じゃあやめよう」という友人としての自分と「具合が悪いところを撮影しなきゃ」という取材者としての葛藤を整理しなければなりません。がん関連の本や命に関する哲学書を読んだり、末期がん患者にセラピーをしている人を会社に招いて、編集マンやカメラマンも含めたスタッフ全員で講習を受けたりしましたが、折り合いはなかなかつきませんでした。
取材を進めるうちに、斎藤さんはがんの告知から3年が過ぎ、既に心の整理を終えて痛みや死に対する覚悟が出来上がっていたこと、一方で妻の薫さんはまだ病気を受け入れられず、やがて夫がいなくなることを認められずにいることがわかりました。2人の意識の違いがどこかで衝突するのではと感じ、2人のやり取り、会話を撮影することにシフトしていきました。そしてそれぞれが重大な決断を迫られ、2人で静かに話しあい、互いに相手を思いやる夫婦の姿を撮影することができました。
末期がん患者への取材は、病気の進行で不具合が生じたときと比較するために、今できていることをすべて映像に残すという手法をとらなければなりません。痛みに顔を歪める様子にもレンズを向けます。「もしも」の事態を想定して機材の準備を進めるときは「私はどんなシーンを期待しているんだ」という自問自答で苦しみました。ただ相手は常に俳優としてプロに徹していました。できなくなることが増えていくなかで何ができるかを考え、カメラの前では斎藤歩はどうあるべきかを演じてもいたと思います。覚悟を決めて臨むのが礼儀だと受け止め、自責の念は飲み込みました。がんを番組の主役にすると死がゴールになってしまいます。がんは主人公の一部ですが全てではありません。斎藤さんには「番組は一緒に観ましょう」と伝え、実際に2人で観ました。「俺ってあんなふうに笑うんだ」という感想で救われたような気がしました。
番組の冒頭は「私は何を記録し、何を残すのかわからないまま取材を始めた」という独白で始まりますが、その結論はコメントにはしていません。このような形で番組をまとめたことがアンサーだと思っています。人は結末が見えていても前を向いて生きていくことができる。自分がどんな状態でも相手を思いやり、尊重して希望を持つことができるということを、取材をとおして知ることができました。
斎藤さんはこの番組の放送から4カ月後に逝去しました。亡くなる4日前まで、次の芝居の舞台に立つつもりで準備をしていました。最後の最後まで演劇の世界に情熱を燃やし、生ききったのだと思います。心よりご冥福をお祈り申しあげます。