【onlineレビュー】誰もがスルーしてきた「時間」の恐ろしさを可視化 佐井大紀監督『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』を観て

鈴木 エイト
【onlineレビュー】誰もがスルーしてきた「時間」の恐ろしさを可視化 佐井大紀監督『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』を観て

「onlineレビュー」は編集担当が気になった新刊書籍、映画、ライブ、ステージなどをいち早く読者のみなさんに共有すべく、評者の選定にもこだわったシリーズ企画です。今回は、7月6日から全国で順次公開されているドキュメンタリー映画『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』を、新興宗教、カルト問題の専門家である鈴木エイトさん(ジャーナリスト・作家)に寄稿いただきました。


2024年76日に公開された佐井大紀監督のドキュメンタリー映画『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』(製作:TBSテレビ)を観た。聖書研究をしながら共同生活を送るミニ信仰集団が、1980年代に「東京・国分寺市から若く美しい女性10人がカルト教団の主宰者・千石剛賢に連れ去られハーレムを形成している」などと報じられた「イエスの方舟」事件。世間は騒然となり、メディアスクラムが起こった。過熱した当時の状況をTBSの報道映像から丁寧に追い、報道の現場で起こっていたこと、その後の顛末を当事者のインタビューを基に構成している。数年に及ぶ逃避行の末、九州に拠点を構え地域に根差していく千石は博多の中洲でクラブを経営、その後、宗教施設として共同生活を送る教会「イエスの方舟会堂」を建てる。2001年に78歳で死去した千石の教えは妻が継ぎ、娘とともに教団を維持していく。そんな「修道院的ミニ信仰集団」の顚末が現在進行形で提示される。

報道によって作られたイメージ、世間の誤解、社会からのレッテル貼り、心ないバッシング、家族、親、さまざまなものから逃げた末、信者たちは以後の人生を「女性の集団」が生き延びていくために水商売に活路を見いだし、博多・中洲に開業したクラブ「シオンの娘」でホステスとして働く。共同生活が続けられてきた拠り所としての「ホーム」と生活の糧である「クラブ」の対比、社会の喧騒から外れた場所で静かに流れる45年間。生きる術を得て逞しく生きる女性像と「信仰」集団を描いているが、決して彼女たちの逃避行を描くロードムービーではない。騒動後の45年間の澱(おり)のような重みがズシリとくる映画だ。

 「『イエスの方舟』はカルトではなかった」「機能不全家族から女性を保護しユートピア的な集団を作ってきた」「千石剛賢も普通の"おっちゃん"であり、カルト性はなかった」これらが、その後の通説となっていた。

だが映画を見終わったあと、カルト問題の専門家として私が感じたのは「やはりこれはある種のカルトではないのか」というものだった。ただし、私が「カルト」の必要最低条件の判断基準としている"人権侵害の有無"については、限りなくその度合いは低い。

では、なぜ「ある種のカルト」という感想を抱いたのか。「おっちゃん」と呼ばれる「千石」への個人崇拝とその継承もそうだが、イエスの方舟しか知らない2世の存在、勧誘手法で正体を隠してアンケートから入信したケース(「出会った」と表現)など自由な意思決定が侵害されていたのではとの疑念も持った。

金銭収奪がないといっても自宅を売却して参画した人もいる。なぜ家族の下を離れたのか、機能不全家族だったと言い切れるのか。「結果オーライ」で本当に良いのか。「わがままに生きたい」「私の人生」「幼稚園に入る前」「離婚」「養女」「母娘分離」さまざまなワードが出てくるたびに、彼女たちが"別の選ばなかった人生"について思いを巡らすことはないのか、自分の選択を強化する「コミットメントの一貫性」が働いているではないのかといった"邪念"が浮かぶ。「運命」の意味は後付けであり、どんな紆余曲折があっても、振り返ると自分が今いる場所へまっすぐ続く1本の道に見えるものだ。人は自分が「選択」してきた人生を否定できない。「イエスの方舟」は一時避難の場所ではなかったのか。それが終の棲家となったのはなぜか。そこにはやはりある種のカルト性を感じてしまう。

当事者が真実を語り、現在までの軌跡を語る。千石という強烈な対象に会い、パラダイムシフトが起こり思考の枠組みが変わってしまった。その意識変容のプロセスは本来、心理学的な再分析が必要である。ハーレムではなかった、性奴隷にもなっていなかった、だがその意識変容には何があったのか。本当にセーフティネットだったのか。ある日、急に子どもが家を出て「おっちゃん」への崇拝を口にする。親にとっては子どもを奪われたと感じるだろう。ある種のストックホルム症候群という可能性はないのか。「誤解」と言っても、「中」にいる人から見て「世間で言われていることとは自分が体感している実態とは違う」ということは、カルトでは普通のことだ。インタビューで「居心地良かった」と言う女性。カルトの居心地は悪くない。ユートピア思考も垣間見える。それはやはりカルトの一体系であり、言ってみれば「女性ユートピア型の修道院系カルト」とでも表現できなくはない。

浮かんださまざまな疑念を公開直後の東京の映画館での上映後、佐井監督とのトークセッションに登壇させてもらった際、監督にぶつけた。佐井監督は明確な否定や肯定はしない。それぞれの人の見え方や感じ方を尊重しているのだろう。

佐井監督が前面に出てインタビューしながら進んでいく史実のストーリーはある種の謎解きを観ている感覚も生む。佐井監督から見た「イエスの方舟」像であり、そのフィルターを通してわれわれは映画を観ている。明確に言語化できないものを映像化したとも言える。受け止め方はそれぞれだろう。通説とは逆に浮き立つ異様さも佐井監督の狙いだとしたら。私もまた佐井監督の術中に嵌(はま)ってしまった一人なのかもしれない。

千石が亡くなったあと、共同生活を送る女性の信仰集団(一部男性も通ってはいるが)は、2世である子ども(未成年者)がいない小集団のため自然消滅へ向かっている。共同生活はケアホーム化・グループホーム化し、いずれなくなってしまうだろう。家族に替わる新たな共同体となったものの、持続はしない。今いる人の代で途切れてしまう消滅可能性が暗に示される。

カルトなのかカルトではなかったのか。そんな邪推を吹き飛ばしてしまう、この映画のメインテーマはおそらく佐井監督が意図していたかは分からないが「時間」だ。「時間」を何らかの作品で描くことは恐ろしいものだという認識を読者はお持ちだろうか。前述のトークセッションで、監督へ率直に「この映画はホラーだ」と言った。それほど恐ろしい映画だと思った。

この映画を観終わって、真っ先に想起したのはデイヴィッド・ベニオフの小説『25時』だった。私が最も衝撃を受け最も戦慄した作品、映画化もされた『25時』は麻薬取引の罪で収監予定の若者の収監直前の一日を時系列に沿って描いた作品だが、ラストシーンで一気に時間が崩壊する。その顚末や驚愕の展開の詳細は未読の人のために措くが、人が無意識に避けている「時間」という概念そのものをふいに揺さぶられ、その「恐ろしさ」と「重さ」に否応なく直面させられる作品だった。

『方舟にのって』でも45年前と現在の対比が繰り返し提示される。『25時』の結末とは逆側から時間をたどっている。ラストシーンで千石の妻・まさ子が歌う場面、実際に歌っている音声ではなくオペラが挿入される。私にはそのオペラが彼女たちの封印された心の叫びに聴こえ、逆回転で再生される蓄音機のようにも感じた。「おっちゃん」を千石から引き継いだ妻が「千石イエス」の実態、ある意味でフィクサーではないかという示唆も提示されていると感じた。

映画は騒動後の静かな時間の積み重ねを幾重にも重なった地層のように重力を増していく様を描いている。その重みがズシリとくる。「時」の経過とともに「重力」を増していく「時間」そのものを示しているのだ。


方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~
監督 佐井大紀
企画・エグゼクティブプロデューサー 大久保 竜
チーフプロデューサー 能島一人   プロデューサー 津村有紀 
クリエイティブプロデューサー 松木大輔
撮影 小山田宏彰 末永 剛  ドローン撮影  宮崎 亮
編集 佐井大紀 五十嵐剛輝  MA 的池将
製作:TBSテレビ 配給:KICCORIT 配給協力:Playtime
©TBS 2024年/日本/69分/ステレオ/ 16:9

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