ytv最後の"鶴橋組助監督"として――鶴橋康夫さんを悼む

竹綱 裕博
ytv最後の"鶴橋組助監督"として――鶴橋康夫さんを悼む

ドラマ演出家の鶴橋康夫(本名=倉田康夫)さんが10月9日に亡くなられました。83歳でした。読売テレビで一貫してドラマ制作に携わり、同社を退社後も各局で作品づくりを続けたほか、映画監督としても活躍されました(鶴橋さんの代表作は巻末に追記しました)。そこで、読売テレビにおける"最後の鶴橋組助監督"として薫陶を受けた現・東京制作センタードラマ制作部長の竹綱裕博さんに、鶴橋監督の思い出をつづっていただきました。

※本文中の鶴橋康夫さんの写真はすべて読売テレビの提供です(2002月の『天国への階段』北海道・絵笛ロケ時のスナップ)。


「軽くでいいぞ、かるーくな」
リハーサル直前、現場に言い残してベースに戻っていく鶴橋康夫監督のことが蘇る。大事なシーンの撮影前ほど言っていたと思う。
キャストとスタッフの意識を本番でピークに持っていくための、魔法の言葉。
自然と現場の空気が研ぎ澄まされていく。

私は1993年、ドラマ制作を志望して読売テレビに入社した。当時の読売テレビは2時間ドラマ枠と1時間の連続ドラマ枠、2つのドラマ枠を持っていた。すでに鶴橋監督は「賞獲り男」として社内でも別格。新入社員にとっては現実味のない雲の上の存在だったが、その鶴橋監督が新入社員研修で登壇した。他の誰とも違う異彩を放ち、話し始めた。

「われわれが愛するテレビジョンは、」
続いた言葉は、それまでの実務的な研修内容とは違うものだった。
「たった1分の映像を撮るために一昼夜、準備も考えると途方もない心血を注ぐ。そして放送すると、それで終わり。残らない。放送は流れていく。その一瞬に生きることがテレビジョン」
鶴橋監督が言うからこその響きに感銘しかかったその時、続いた言葉は、
「まあ、不安もあると思うが、これからは俺を見ていればいい。読売テレビには鶴橋がいる」
サングラスの奥は、半分照れて笑っていたと思う。どこまで本気か、煙に巻くような話術。
私は今も、この魔法にかかったままだ。
もちろん時代は変わり、サブスクもあって、放送は流れていくばかりではないけれど、映画とは違うテレビの魅力はここにあると信じている。

その後すぐにはドラマ部へ配属されることはなく、東京支社へ転勤となってドラマAPとなったのが98年。東京支社に鶴橋監督のデスクはあったが、姿を見たことはなかった。世の流れで2時間ドラマ枠はなくなり、連続ドラマ1時間枠のみのドラマ制作となった読売テレビ。芸術性1本勝負の作品づくりは難しい局面で、鶴橋監督が連続ドラマ『永遠の仔』(2000年4―6月放送)を撮ることとなった。助監督として1クール経験を積んでいた私も、サード助監督として呼ばれた。

小道具などの準備全般を行う役割の私に鶴橋監督は「登場人物の年表をつくってくれ」と言った。現代軸に幼少期が絡んで物語が進行する原作を整理し、登場人物別にまとめた。鶴橋監督は、違う、と言った。何が違うのかさっぱりわからなかったが、鶴橋監督はドラマを創造するのに大切な、一番上等なところから気づかせようとしてくれていたと後にわかった。原作では物語られていない登場人物それぞれの空白を描いてみろ、と。鶴橋演出の根源には誰よりも深く、登場人物への造詣が存在していた。

撮影が始まると、前回の現場と全く勝手が違った。カット割りが明かされない。リハーサルが終わり、鶴橋監督がカメラマンにポジションを指示する。
「まずはここからだ」
当時の鶴橋組は常にカメラ2台、レールとジブ(小型のクレーン)常備で、カメラを移動させながらの撮影をスタンダードとしていた。新しい技術をいち早く自分のものとする鶴橋監督らしい体制だった。
カメラマンに言われ、レールをある方向に敷く。本番。芝居とともに移動車が動く。普通ならワンカットワンカット芝居を止めながら撮影するところを、ジブでアングルと画角を調整しながら、芝居を止めずに撮影を続ける。レールの端まで行ったら折り返す。芝居とともにカメラも躍動していた。

「よーし、大オッケー」
しかし、もちろんこれで終わりではない。カメラマンは次のポジションを自ら探しスタンバイ。同じ芝居部分を別の角度から撮影するのだ。監督を見ると「そこでいいぞー」と言う。なぜここで良いのか、繰り返すうちに気づけるようになった。鶴橋監督は、芝居がドラマティックに見える瞬間を全て撮っていたのだ。そのためのポジション。そのためのライブ感あふれるカメラワーク。瞬間を逃さない。なので時々、カットをかけた時こうも言った。
「大オッケー、もう一回!」
どっちやねん。しかし、この冗談のような指令は、芝居オッケーでもまだその瞬間を撮りきれていないことへの追求だったと、今でも楽しく思い出す名台詞だった。

撮影中には照明の光源が見切れることもあったが、鶴橋監督には織り込み済みのことだった。完パケを見て驚いた。強い光が印象深い影を生み、芝居を艶やかにしていた。鶴橋監督は常に光を求めていたように思う。『永遠の仔』劇中で出てくる「ブロッケン現象」を再現する時のこと。背後から差し込む太陽光が散乱して自らの影の周りに虹のような輪が出る現象の映像加工を任された私は、実際はぼわっと見えるリアルな再現を試みたところ、「もっとくっきり」と鶴橋監督は究極の輪に仕立て上げた。

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別のドラマ『天国への階段』(02年4―6月放送)で、雲間から光の筋が地上に降りてくる荘厳な光景の映像加工を任された時も、現実に体感するそれよりも幻想的な光の強さを監督は求めた。リアルを追求するオペレーターとの間に立って四苦八苦した覚えはあるが、これらの光の演出が作品の象徴的なカットとして記憶に焼きついていると、視聴いただいた方から聞いた。
リアルなことと「記憶に残るリアル」の決定的な違いを、鶴橋監督と出会って知った。

撮影の合間は常に笑いにあふれていた。キャストを前に常々監督が言ったのは、
「われわれはスターに囲まれている。で、俺は何か。アイドルなんだよ」
スターたちも笑っていた。しかし、これも冗談だけではない表現なのだと思った。煌びやかに才能あふれるスターが心寄せる偶像。鶴橋監督の魔法に皆がかかっている現場だった。

またその当時、鶴橋監督が時々つぶやいていた言葉が今も忘れられない。
「分相応に風が吹く のぼればくだる川の雑魚」
若かった私には、なぜ「川の雑魚」なのか、わからなかった。強い光を求め、生まれる印象的な影を愛した鶴橋監督。私が鶴橋組であったのは3年にも満たない年月で、多くの諸先輩方からすると短い時間だったが、今では少しだけ「川の雑魚」の美しさがわかる気がする。

鶴橋監督が読売テレビを退社され、お会いすることはめっきりなくなったが、ある年の正月に年賀状が届いた。そこにはこう書かれていた。
「いつまでも友達でいてください」
またしても笑ってしまった。

もう一度、進化した技術を取り入れた鶴橋演出を、テレビドラマで見たかった。
その現場で、監督と皆で笑いたかった。
もう叶わない願いの代わりに、頑張ってみようと思う。
われわれが愛するテレビジョンのために。
教えていただいた大切なことを、あと少しだけ進化させて、未来へつないでいきます。

         読売テレビ最後の鶴橋組助監督として、監督への敬愛とともに
                           読売テレビ 竹綱裕博


【編集広報部追記】
▶鶴橋康夫さんの代表作
読売テレビで1970年代に浅丘ルリ子と組んだ『新車の中の女』『炎の中の女・椿姫より』『渚の女』など独特の美学に彩られた連ドラで頭角を現します。80年代以降は同社の「木曜ゴールデンドラマ」枠で、浅丘はじめ大原麗子、大竹しのぶ、桃井かおり、樋口可南子、役所広司、佐藤浩市などと『仮の宿なるを』『手枕さげて』『愛の世界』など社会的な切り口を映像美に昇華させた単発ドラマを連発。日本民間放送連盟賞や放送文化基金賞、文化庁芸術祭賞、ギャラクシー賞などを総ナメにし、「賞男」の異名も。

脚本家の故・野沢尚の育ての親としても知られ、『砦なき者』『リミット もしも、わが子が...』などの名コンビ作を生みました。2000年以降は読売テレビを退社後、テレビ朝日の開局60周年記念ドラマ『白い巨塔』、TBSの『悪女について』などで活躍。劇場用映画としても『愛の流刑地』や『後妻業の女』などを監督しました。個人として芸術選奨文部大臣新人賞、芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞しています。  

これらの番組の一部は横浜の放送ライブラリーで収蔵・公開されており、無料で視聴できます。詳しくはこちらを。

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