選挙報道のお作法~現場判断に迷った時のヒント 選挙報道に携わる放送人へ

山田 健太
選挙報道のお作法~現場判断に迷った時のヒント 選挙報道に携わる放送人へ

超・短期決戦の選挙戦が始まった。いつもだと筆者のもとにも選挙取材・報道のための学生アルバイト要請があるのだが、今年はゼロ。コロナ禍の影響もあるだろうが、悠長に「ド素人」を集め説明会を開いて対応するといった、時間的・精神的な余裕がないことも一因ではないかと想像される。もちろん以前よりこの時期に総選挙があることは自明で、そのタイミングが少し早まったに過ぎないとはいえ、直前の自民党総裁選から、新政権誕生、そして息つく暇なく解散・総選挙と、切れ目なく走り続けての選挙報道であることには違いなかろう。

だからこそ、とりわけ法との抵触可能性があるような取材・報道のあり方については、前例踏襲で過去を見直しすることなく、「安全策」を選択する取材・報道になりがちな側面は否定できない。すでに選挙期間に突入しているさなかに、この段階で見直しをすることは現実的ではないし、選挙報道に携わる放送人が、この一文を読むような物理的余裕は毛頭ないことを前提に、現場判断に迷った時のヒントになるべきポイントをまとめておきたい。

常に「原点」を大切に

この時期に放送局に行くと、放送は免許事業だし、選挙期間中は殊更、法に縛られて制約の中でやらざるをえない、との空気がまん延している。編成・制作・報道の責任者名で文書による「お達し」が配布される社も少なくない。その内容はおおよそ、公職選挙法や放送法に依って「政治的公平に十分配慮すること」、具体的には「各政党・候補者の取り扱いは平等にすること」が明記されているのが一般的だ。ディレクターによっては丸めて捨てる人もいるだろうが、多くの現場とりわけテレビの番組制作においては、仮に意識するしないは別としても、このルールがすべての行動原理になっているのではないかと想像される。

そこに書かかれてあることに、もちろん間違いはない。しかし本来であれば、その前提もきちんと書かねばならないし、あるいはその前提こそが選挙報道の最も大切な部分である。それをまず確認しておきたい。それが、具体的事案で迷った場合の現場判断における道標になるからだ。さらにいえば、迷い考えることが、次回(必ず来年は参議院選挙がある)への経験値となるし、選挙戦後の政治報道にも生かされるはずだ。

日本の言論法(メディア法制)上、確かに放送分野は制約が多い領域だ。活字分野が内容(コンテンツ)も業務(ビジネス)も全く制約がないのに比して、ラジオ・テレビについては「放送法」によって内容規制があり、「電波法」により業務規制が課されている。確かに国家ライセンスなしに放送事業を興せないという絶対条件が存在するにせよ、少なくとも内容に関していえば、あくまでも憲法で保障する表現の自由に但書きがあるわけではなく、電波を経由する放送番組コンテンツは、「すべからく自由」であることが大原則であることは肝に銘じる必要がある。

そのうえで、いまや放送人ならだれでも知っている放送法の条文4条の存在が問題になるわけだ。そこでは確かに「政治的公平さ」を守ることが定められている。ざっくりいえば放送人として、<嘘はダメ、猥褻はダメ、偏向はダメ、独りよがりはダメ>という4つが、放送の大原則として示されていることになる。

こうしてみると極めて「当たり前」のことが書いてあるだけで、それを見て何か萎縮・躊躇をする必要は全くないはずだ。むしろこの原則を見て後ろめたいことをしていると感じるのであれば、それはむしろ現場ですぐに話し合いを持った方がいいかもしれない。ただし一方で、その用語(言葉)のそれぞれが何をさすかは相当に曖昧だ。むしろ、噓・猥褻・偏向・独りよがりが一義的に定義できるはずもなければ、皆さんの部局で一致した具体的な見解があるとすれば、その方が気持ち悪い状況ともいえないだろうか。少なくとも、世の中的には決まった定義は存在しないし、判例でさえも相当に揺らいでいるのが実態だ。

すなわち、これらは法であって法でない、あくまでも目安であって、さらにいえば放送倫理の実践を促しているものであるということになる。それゆえに筆者はこの条文を従来から、「視聴者への約束事」と呼んでいるが、ほぼすべてといってもよい憲法学者(とりわけ表現の自由を専門にする研究者)がほぼ同様に、この条文を倫理規定と理解・解釈してきたのはこうした法の性格によるものだ。

にもかかわらず、この法規定が現場を強く縛っているのは、これもまた皆さんがよく知っているように、近年の政府(放送の所轄官庁である総務省)が一方的に法解釈を変更し、この法規定に反すれば「違法」行為であり、この違法か否かを判断するのは「大臣」(行政)であり、違法判断があれば「停波」(放送を止める)こともありうる、との見解を発し続けていることにある。しかもこうした解釈に則り、総務省も政権党である自民党も(時にはそれ以外の政党も)、ことさらに政治的公平さを保った番組作りを求め、端的に言えば、自党に不利な報道を許さない姿勢を明確にしてきているという、いわば圧力を放送局にかけ続けていることになる。

そうしたなかで、本当は正面から政府解釈の誤りを正すことも大切であるが、まずは「面従腹背」、表面上は承知しましたと言いつつも、現実にはいかに多様で自由な番組作りを続けるかにかかっている。その気持ちの持ちようが大切なのであって、最初から「思考停止」で言われるがままに、何も考えずに機械的に数量平等の報道を続けるか、少しでも工夫をし、伝えたいことを伝える番組作りをするかは、視聴者には如実に伝わるものだ。ちなみに、放送法の解釈本としては世の中には2冊存在し、以下にあげるうちの上が総務省版、下が民間版だ。皆さんがどちらに拠って立つかが問われることになる。

・『放送法逐条解説 新版』情報通信振興会、2020年
・『放送制度論 新・放送法を読みとく』商事法務、2017年
 (『放送法を読みとく』商事法務、2009年

選挙報道に求められるもの

これまでの選挙報道(番組)の中心は、動静・当確報道であったといえよう。それは、このための取材に莫大な経費と労力をつぎ込んでいる関係上、費用対効果として手厚い報道をせざるを得ないわけでもある。その集大成が投開票日の選挙特番であって、開票率ゼロで当確を何人打てるかの競争が、おそらく今年も繰り広げられる。確かに見ていて面白い側面はある(いわばショーであることは間違いない)。候補者・後援会にとってはありがたい(有難迷惑?)ことなのではあろう。しかしこれが、選挙報道の中核であるべき、投票行動のための有益な情報提供に繋がっているのかを、常に念頭に置いておく必要はあるだろう。

図表.jpg

<選挙報道における機能分類>

いうまでもなく、選挙期間中(さらにいえばその前後の選挙関連番組)の最も期待されるジャンルは、本来であれば政策や過去の政治活動の検証ともいえる。それは、投票行動に直結するからである。しかも、十分に候補者・政党の政策の妥当性を判断するためには専門知識が必要であり、あるいは十全な取材活動があって、初めて検証も可能になる。インターネットが発達しても、なかなかネット上の情報を自ら探し出し、投票判断に結びつけることは至難の業だ。

しかし、前述のしがらみのなかで、検証に踏み込むことが「公平さ」を損なうという恐れを感じてか、表面的な政策の「紹介」に留まっているのが現状ではないか。しかしそれでは、イメージ先行の選挙になりやすいし、それは現状追認の傾向が強まることになる。とりわけ今回の場合は、史上最長の政権が交代した後の初選挙であり、しかも直後の短期政権のマイナスを総裁選で払拭した感がある中で、より過去の検証が求められる中での選挙であるはずだ。しかし冒頭に触れたとおりの超短期のために、物理的な放送時間も限界があるし、その前提の取材・番組制作にかけられる時間も限定的だ。

そうしたなかで、各局、各制作者の知恵と工夫によって、どこまで「真っ当な」選挙報道がなされるかは、この選挙期間中の報道だけではなく、今後の政治報道を占う意味でも重要である。本来であればようやく様々な試みがなされてきたファクトチェックを活用した選挙報道の可能性も追求すべきであったし、公職選挙法上の多少グレーな部分が残る、インターネットを活用した選挙報道(データアーカイブス等の活用)も見てみたいが、おそらくそうした試みは、今回は限定的にならざるを得ないだろう。

それでもその萌芽になるチャレンジは大いに期待したいし、それなしにはテレビの存在意義は発揮できないことになってしまい、あまりにもったいない。前半の話と関係するが、選挙期間中の表現の自由は、言論報道機関に特別の自由を付与することによって成り立っている。候補者の表現の自由を原則禁止する一方で、候補者(政策)情報の流布・解説はもっぱら、放送・新聞・出版といった「マスメディア」に負っているという、極めて特殊な選挙期間中の制度設計だからだ。こうした極めて重要な役割を追っているテレビ・ラジオが、その任を果たさないと、有権者が十分な投票選択情報を得ることができず、それは民主主義の存立を危うくしている。

著書図表修正.jpg

<選挙期間中の表現の自由>

※拙著『法とジャーナリズム 第4版』(勁草書房、2021年)
 第13講「選挙と表現の自由」(pp246~257)参照

少し大げさに言うならば、もし現在、有権者が真っ当な判断材料を得ることなく、気分で投票しているとすれば、その責任の大半は、言論報道機関たる放送や新聞にあるということだ。そういった社会的責任を自覚していれば、「とりあえず当たり障りなく(文句をつけられないよう)、選挙報道をこなす」という選択肢は生まれないはずだ。

【追記】選挙期間に入り、筆者の周りの学生の選挙報道についての感想は「つまらない」に尽きる。おそらく報じている多くの放送人が、工夫することを諦めているのではないかと思えてしまうほどの画一的報道だ。学生は少し前の総裁選を興味があると答えていた。その当時、眞子さん報道以上に興味を示す学生も少なくなかった。その要因は、多様な取り上げ方で、各候補者の政策も人となりも、それなりによくわかったから、だという。その理解度も本当はきちんと確認する必要があるのだが、ちゃんと見てもらえる番組(ニュース)かどうかは大きな違いだろう。

本文で書いたような法・行政上のプレッシャーを超え、放送各局間で取り決めがあって自由にとりようがないとされる候補者への構図も、せめて候補者の後ろから、あるいは上からの構図があれば、その街頭演説の聴衆の様子もわかるし、もっと言えば、ヤジも含めて「雑音」を入れた方が選挙戦のライブ感は出るだろう。視聴者からみると、こうした<ライブ>を開票時の選挙特番まで封印することへの違和感は強いし、このような姿勢が放送への信頼性を確実に落としていることに、送り手自身が気がついているにもかかわらず、<平等性>を最優先にし、構図の違いさえも認めないことは罪だと思えてしまう。

すべては、候補者からの抗議を回避すること、選挙後の政治家との関係性を敢えて悪くしないこと、といった「大人の判断」が優先した結果であるのかもしれないが、政治家との関係を維持した結果、視聴者の信頼性を失うことをもっと重大視することが必要な時期に来ている。いま、放送(とりわけテレビ)はそこまで追い込まれているのだと思う。こうした最初の一歩があれば、より踏み込んだ政策の比較検証や、過去の政治活動や発言のファクトチェックも可能になるし、生きてくる。テレビやラジオが言っていることより、ネットの書き込みを「真実」と思う状況を、そろそろ転換させないと本当に手遅れになってしまうと心配する。

最新記事