民放は放送の公共性を語れ ~『デジタル時代における放送の将来像と制度の在り方に関する取りまとめ(第2次)』を受けて

小塚 荘一郎
民放は放送の公共性を語れ ~『デジタル時代における放送の将来像と制度の在り方に関する取りまとめ(第2次)』を受けて

地方都市の交通機関と公共空間

日本の地方都市では、人口減少が従来からのモータリゼーションに拍車をかけ、鉄道やバスなどの公共交通機関が維持できなくなってきている。人々が鉄道やバスに乗らず、自動車で目的地まで直行する結果、駅やバスターミナルの周辺に広がっていた中心部の市街地はさびれ、シャッター街となる。郊外のショッピングセンターは、週末になると自家用車で住民が集まりにぎわっているが、そこは商業施設が所有する私有地であり、かつての中心街のような公共の空間ではない。

すでにお気づきであろう。地方都市の公共交通機関は、放送サービスの現状と多くの共通点を持っている。公共性を自負する放送メディアに対して、通信サービスは、あたかも自家用車と同じように、「個」の利便性を最大化する。若者がテレビを見ずにスマートフォンに没頭するのは、それが便利で、面白いからである。一人一人が「個」の利便性を追求する結果、誰もそれを意図したわけではないが、公共的な空間が失われていく。気がついたときには、もう後戻りができないところまで来てしまったかのようである。

総務省の「デジタル時代における放送制度の在り方に関する検討会」は、今年(2023年)1018日に、『デジタル時代における放送の将来像と制度の在り方に関する取りまとめ(第2次)』(以下、『取りまとめ(第2次)』と呼ぶ)を公表した。これを一読して受ける印象は、「個」に最適化しようとする通信サービス(ネット空間、デジタル空間などと表現されても本質は変わらない)にあらがって、放送メディアの公共性をどこかに見出そうとする苦しい努力である。しかも残念ながら、そうした努力にもかかわらず、放送メディアの明るい未来はなかなか伝わってこない。そこであらためて、放送にはどのような意味で「公共性」があるのかという問題について思いをめぐらせてみよう。

公共的なメディアとしての放送

最近の議論では、放送の公共性を、信頼できる情報の発信元という面から説明することが多い。フェイクニュースや偽情報がデジタル空間に溢れ、エコーチェンバーによる社会の分断が危惧される中で、信頼できる情報の出所としての役割が放送に期待されているようである。『第2次取りまとめ』の「別添」として公表された「公共放送ワーキンググループ」の取りまとめは、「放送は、......『質の担保された情報』を提供する責務を有している」という前提から議論を組み立てている(「はじめに」)。

これは、放送をコンテンツの提供者、すなわちメディアとしての側面から見て、公共性を認める議論である。その場合に、放送メディアの発信する情報が、デジタル空間に溢れる他の情報よりも信頼に値するとすれば、それは、一定の体制を持ち、それを駆使して取材や分析を行うという点、すなわち、いわゆる組織メディアであるというところにあろう。「公共放送ワーキンググループ」の取りまとめは、そのような信頼性の高い情報は、従来の地上波放送だけではなく、インターネット上にも提供されることが必要であると説く。そこから、インターネット活用業務をNHKの必須業務(放送法20条1項)と位置づけ、求められる限りNHKはインターネット上で放送番組を提供する義務を負うべきであるという結論が導かれている。

こうした考え方は、『取りまとめ(第2次)』の半年前(2023年3月)に、NHK自身が「受信料制度等検討委員会」の下に設置した「次世代NHKに関する専門小委員会」(以下、「専門小委員会」と呼ぶ)によって提唱された「公共サービスメディア(PSM)」の概念と呼応している。専門小委員会の報告書によれば、PSMは、インターネット上で参照点となるコンテンツの制作・発信をミッションとして与えられたメディアを言う。名称は紛らわしいが、PSMは公共放送に限られず幅広い事業者がその役割を担いうるとされているので、民放もPSMになり得ると考えられているようである。

これらの議論は一見もっともらしいが、放送メディアとまったく同じ言論空間をネット上に構築することは、そもそも不可能である。それは、「個」に対する最適化を原理とするネット空間では、放送コンテンツも、個々人のアテンションを奪い合うという熾烈な競争を勝ち抜かなければ、受け手に見てもらえないからである。わかりやすく言えば、既存メディアが「偏向」していると信じてネット上の情報に向かった人々に、組織メディアに由来する情報を提供しても、耳を傾けようとはしないのではないか。だからといって、既存メディアがアテンションの獲得に奔走するようでは本末転倒である。

しっかりした体制を持つ組織メディアが、偽情報の溢れるデジタル空間に信頼できる情報を提供しつつ、デジタル空間におけるアテンションの獲得に成功するためには、何らかの戦略が必要になるはずである。残念ながら、公共放送ワーキンググループの取りまとめからは、そうした戦略に関する示唆は読み取れない。専門小委員会の報告書は、「利用者」(何の利用者なのかも判然としないが)のリテラシーを問題とし、情報リテラシーが不十分な利用者に対しては、PSMが信頼できる参照点を提供するという方法論も効果が限定的になると自認する。しかし、アテンション・エコノミーの本質は、冷静に情報を評価したり選別したりする余裕を失わせるところにこそ存在するから、この言い方では問題の解決を半ば放棄するようなものではないだろうか。

ネット空間で信頼される情報へのアテンションをどのように獲得するかという戦略を考える責任は、二元体制の一翼を担い、インターネットに広がった情報空間でもNHKとともに「質の担保された情報」の提供を期待される民放各社にもあるというべきであろう。組織メディアとしての民放は、デジタル情報空間に対してどのように働きかけていくのかについて、自らの言葉で考え、語る必要がある。そうでなければ、「二元体制を含むメディアの多元性」と言われても空虚にしか響かない。さらに言えば、NHKのインターネット業務が必須業務とされたことに伴って導入される競争評価も、そうした民放側の主張がなければ、なし崩し的な現状追認に終わる可能性が高いのではないか。

放送インフラの公共性

『取りまとめ(第2次)』を、別添とされた公共放送ワーキンググループ等の取りまとめを含めて通読しても、信頼できるメディアとしての放送の意義が強調されている半面で、放送という伝送路がなぜ維持されなければならないかという理由はほとんど書かれていない。放送ネットワークインフラを維持するための効率化を訴えた「放送業界に係るプラットフォームの在り方に関するタスクフォース」の取りまとめにおいても、また放送ネットワークのインフラについてNHKが民放に協力し、いわば放送業界全体として維持する体制を作る必要性を指摘した「公共放送ワーキンググループ」の取りまとめでも、そうである。これはもちろん、『取りまとめ(第2次)』の基本的な問題意識が、人々の視聴スタイルが変化し、(テレビ)放送を離れてインターネット上の動画配信サービスに向かうようになったという点にあるためであろう。しかし、メディアとしての信頼性を強調するだけでは、なぜ放送という伝送路が維持されなければならないのかを説明することはできない。

一つのあり得る説明は、同時に多数の受け手に対して、大きな遅延なく情報を伝えることができる放送は、災害その他の緊急時のために必要だという議論である。しかし、緊急時の必要性が根拠であるなら、その担い手に多元性を求める理由は乏しく、災害耐性の高い警報システムを国や地方自治体が整備すればよいことになりそうである。放送制度をめぐる近年の議論は、災害時などに放送が果たす役割を強調する傾向があるが、少なくとも民放事業者としては、それでよいのかという反省が必要であろう。

そこで、別の説明として、放送事業者が意図した編成に従って番組が視聴できるような伝送路がなければならないという考え方はあり得ると思われる。インターネット上で放送コンテンツが視聴できるとしても、その場合、放送コンテンツはプラットフォーム上でバラバラに配置され、視聴者の好みに従って消費されていく。本来の放送番組とは、地域社会の一日のリズムに合わせて編成され、その視聴が社会の中でいわば共時的な体験となるものであるとは言えないか。少なくとも当面は、そうした体験の場を維持していくことが社会の分断を緩和する効果を持ち得る、という考え方は成り立ちそうである。

「個」に最適化された通信とは異なり、放送は、多数の受信者に対して同時に同一のコンテンツを送信する。このような伝送路の特性は、広い意味で放送の公共性を基礎づけていた。戦後初期の街頭テレビはほどなくしてお茶の間のテレビへと移行したが、喫茶店の奥や学校の教室で見るテレビも含め、昭和が終わるころまで、テレビは複数人で「一緒に見る」ことに適した装置であった。テレビからインターネットへと視聴スタイルが変化してきた現在でも、テレビ受像機を持っていない割合は単身世帯で高いといわれる。逆に言えば、テレビは家族で共有する時間と関係するのではないだろうか。

これら以外にも説明はあり得ようが、ともあれ、伝送インフラとしての放送設備が維持されなければならないと主張するのであれば、その理由が論理的に説明されるべきである。業界団体としての民放連だけではなく、キー局、ローカル局を問わず個社としても、放送という伝送路の公共性について活発に論じてほしい。民放の放送ネットワークインフラに対してNHKに現行法(放送法20条6項に定める協力努力義務)以上の関与を求めるという「公共放送ワーキンググループ」の取りまとめで示唆されたようなことも、放送インフラが持つ公共的な意義が説明されてこそ、実現する可能性が開けてくるのである。

デジタル時代の社会像と放送

冒頭で触れた地域鉄道に関して、最近、新しい動きも見られる。地方都市の市街地などにLRT (Light Rail Transit) と呼ばれる軽装備の鉄道を導入し、都市再生のてこにしていこうとする政策である。背景事情はそれぞれ異なるが、富山市や福井市などの事例が知られており、今年は宇都宮市のLRT開業が話題を呼んだ。そうしたLRTの導入は、単に交通政策として行われたわけではない。政策決定過程への市民参加や、市民の生活・居住形態なども考えたまちづくりなど、総合的な都市政策の中に位置づけられて実現されたのである。

放送制度のあり方も、再び公共交通になぞらえて言えば、メディア論やネットワーク論に終わってはいけないであろう。根底には、デジタル時代の社会のあり方に関するグランドデザインがあって、その中に放送のコンテンツとインフラを位置づけた議論がなされるのでなければならない。『取りまとめ(第2次)』は、多岐にわたり網羅的に論点を取り上げているが、そうした大きなストーリーは描かれなかった。提案された政策がすべて実行されたとして、その結果、20年後、30年後に日本社会の中で放送がどのような意味を持つのか、具体的なイメージを持つことは難しい。あえて苦言を呈するなら、個別的な政策の形成は、本来、所管官庁がステークホルダーと対話しながら行うべきものであり、有識者を集めた会合は、そうした個別論点の検討に指針を提示するような大きな議論を行うべきなのではないか。

ともあれ、『取りまとめ(第2次)』はすでに確定され、この中に書かれた政策が、今後、一つずつ実行されていくであろう。そうした中で放送業界が、民放もNHKも挙げて、これからの社会像、そして社会における放送の役割について、それぞれの描くストーリーを呈示し、議論していくことを期待したい。

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