琉球放送・仲村美涼さん ものが語る声なき声を届けたい【戦争と向き合う】⑤

仲村 美涼
琉球放送・仲村美涼さん ものが語る声なき声を届けたい【戦争と向き合う】⑤

民放onlineのシリーズ企画「戦争と向き合う」では、各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていきたいと思います。

第5回は琉球放送の仲村美涼さん。1944年8月、米軍の攻撃を受け、多くの子どもが犠牲となった疎開船「対馬丸」。年月が経過し、語り継ぐことが難しくなった戦争の記憶の継承のあり方を考えます。(編集広報部)


戦争によって容赦なく日常を奪われ、尊厳を蹂躙された人間の心には、生涯癒えることのない傷が残る。戦後何十年が過ぎても、誰にも苦しみを語れなかった一人一人の歴史が新たに見つかることがある。その小さな声に耳を傾け続けることが、私の祈りであり、反戦の誓いである。

2022年に制作したラジオ番組では対馬丸沈没事件を取り上げた。10万人を超える県民を疎開させるために動員された、老朽貨物船、対馬丸。出航から翌日の1944(昭和19)年8月22日午後10時12分、トカラ列島悪石島の北西およそ10キロ地点で、アメリカ軍の潜水艦が対馬丸へ魚雷攻撃を開始し、10分足らずで対馬丸は沈没した。犠牲者は判明しているだけで1,484人。その半数以上の784人が7歳から15歳の子どもたちであった。一瞬にしてこれだけの命が奪われたのは、世界にも例を見ない悲劇だという。

私の心を締め付けたのは、対馬丸で子を失った親の心情だった。記憶の継承のため奮闘した生存者や遺族にあらためて尊敬の念を抱きながら、私は、子を永遠に失い、悲しみの中に口を閉ざした親のことについて伝えたいと、取材を進める中で思うようになった。そこで注目したのが「もの」であった。本来言葉を持たないものに耳を傾けることで聞こえてくる事実があるのではないか。聞けば、対馬丸の生存者で語り部として活動している人は、2022年当時で4人にまで減っているという。戦争の記憶の継承の一つの手法として、ものが語る声なき声をラジオで届けられないかと思い制作したのが『ものが語る悲劇、対馬丸』という番組だった。

番組では、3つのものに焦点を当てた。ひとつ目は、当時県職員だった渡名喜元秀さんが書いた日記の写しだ。1944(昭和19)年3月30日からのおよそ400日間のできごとが綴られている。この日記を元秀さんの孫、渡名喜元嗣さんに読み上げてもらった。はじめは何げない日常の様子が書かれていたが、1944(昭和19)年7月、サイパン陥落をきっかけに、学童疎開への動きが記されるようになる。

日記に残された記憶

沖縄の学童疎開は、住民保護の観点ではなく、作戦上、足手まといとなる住民たちを県外へ転出させるための政府の指示であった。積極的に家族を乗船させるよう命じられた県職員の元秀さんは、妻と4人の子どもを乗船させた。そして、元秀さんの下へ対馬丸が沈没したとの一報が届いてからは、日記に悲痛な心境がつづられるようになる。

「9月3日日曜日。疎開船遭難することを確かめ、心痛す。
9月6日水曜日。最悪の情報を聞き、悲観する。遭難場所は悪石島付近、午後10時ごろ、生存者1割余の由」

そして、対馬丸への乗船を決めた8月19日からちょうど1カ月後の日記では、こんな言葉が記される。

「昭和19年9月19日火曜日。晴れ。去る月の今日一生涯取り返しのできない誤断をした」

読み上げる元嗣さんの声が震える。幼いころの記憶に、対馬丸沈没のことを語る祖父、元秀さんの姿はない。対馬丸のことを聞いてはいけないと祖母や両親に言い聞かされた。

この日記は、元秀さんが亡くなるまで存在を誰にも知られることはなかった。死後48年がたった2020年に「南城市の沖縄戦 資料編」で初公開された。元嗣さんは、日記を読むのに今もためらいがある。しかし、決して忘れてはいけない記憶なのだと、時折日記を開いては、祖父の言葉に触れている。

ランドセルが語るもの

対馬丸の悲劇に胸を痛め記憶を語ることができなかったのは、元秀さんだけではない。

「今で言うタブーっていうんですかね。母に姉たちのことを聞けないっていう......」

外間邦子さんは対馬丸沈没で姉を亡くした。当時10歳の美津子さん、みっちゃんと、8歳の悦子さん、えっちゃんの二人だ。当時5歳だった邦子さんは乗船しなかった。姉たちは県外へ行けば雪や富士山が見られるかもしれないと胸を躍らせていたため、うらやましかったと邦子さんは話す。

姉たちのことを母が口にすることは決してなかったと話す邦子さん。しかし、沈没から33年後に「もの」との出会いがあった。二人が疎開先に持って行ったランドセルだった。子どもたちとは別の船で九州へ運ばれ、その後親元へ届けられたのである。邦子さんの母は長年木の箱に入れてしまい続け、誰にもその存在を明かさなかった。

「三十三年忌に仏前に出て初めて、二人のランドセルがあったと知りました。語りはしないけど、ランドセルを通して、二人を抱きしめたかった母の気持ちが初めてわかったような気がしました」

二人のランドセルは、那覇市若狭の対馬丸記念館に展示されている(冒頭写真)。邦子さんは記念館の常務理事として対馬丸の悲劇を伝え続けている。

「私の命はいつかなくなるけど、みっちゃんえっちゃんたちのメッセージは、永遠に、平和を伝える一つの語り部として残っていく。ランドセルが語るものっていうんですかね、魂の声だと思っています」

新たな記憶の継承

取材を進めると、対馬丸の記憶を伝える「もの」は、ハワイにもあることが分かった。オアフ島ホノルルにある、ボウフィン号。対馬丸を撃沈した米軍の潜水艦だ。真珠湾の復讐者とも呼ばれるボウフィン号の横にはその戦果を誇る資料館がある。そこへ2021年8月に、一つのプラカードが追加展示された。

「Tsushima Maru A TRAGEDY OF WAR...」

対馬丸を撃沈した事実か書かれている。難しいと考えられていた対馬丸の展示がかなったのは、アン・ライトさんの呼びかけがあったためだ。アメリカ陸軍に29年間在籍し、陸軍大佐まで務めた女性で、雑誌の記事で対馬丸のことを知ったという。この事実をアメリカ国民に伝えたいと、資料館へ手紙を送り、半年後にプラカードは展示された。対馬丸に関する展示はこれが唯一で、ボウフィン号博物館の展示として対馬丸の被害を伝えた初めての事例だ。

「すべての戦争は一般市民が犠牲になることを知ってほしいです。特にアメリカは、これまで多くの戦争に関わってきました。そして、戦争によって生まれた犠牲を認識できるまでに70年以上かかったとしても、事実はしっかりと認められなければいけない」

陸軍退役後は外交官として働いたアンさんだが、アメリカが関与する終わりなき戦争に疑問を持ち、イラク戦争を機に辞職。現在は各国で平和活動を展開している。

「アメリカ軍が対馬丸を沈めてしまったことを、心からお詫び申し上げます。そして、今まさに環太平洋地域では、世界最大の海軍演習が行われています。歴史的な出来事と現在起こっている出来事を紐づけて伝え、そして戦争の犠牲者となった人のことを伝え続けるのは私たちにできる使命の一つです」

アンさんは、今後も対馬丸に関する展示を増やすために資料館へ働きかけていきたいと話す。新たな記憶の継承が始まっている。

次世代へバトンを

ここまで、3つの「もの」を通し、対馬丸の沈没について追った。残された「もの」は、苛烈を極めた沖縄戦を立体的にし、戦争とはいかに惨たらしいものであるかを雄弁に語っている。しかし、対馬丸本体は、沈没から80年がたつ今も冷たい海の底に沈んでいる。船体の経年劣化による損傷が激しく、引き上げは困難だろうと考えられている。

「政府は一日も早く対馬丸を引き上げて遺骨収集をしていただきたい。戦争の責任は国にあります。遺族にとって遺骨収集が行われるまで戦後はまだ終わっていません」

遺骨収集を願う遺族の思いは届かぬまま、沖縄では、再び戦争の気配が色濃くなっている。悲しみが癒えぬままに、新たな悲劇が生まれようとしている。歴史の波に消え入る声をつぶさに拾い上げ、伝え続ける使命が私たちにはある。昨年、対馬丸の生存者で長年語り部の活動に尽力された平良啓子さんが亡くなった。戦争は市民の犠牲を生むものに他ならない。決して起こしてはいけない。現代まで受け継がれたバトンを、私たちは次世代へとつなげていかなければならない。

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