戦争体験者の声を次代に伝える【私の民放ドキュメンタリー鑑賞記】④

城戸 久枝
戦争体験者の声を次代に伝える【私の民放ドキュメンタリー鑑賞記】④

ローカル局が「地域密着」「長期取材」による優れたドキュメンタリー番組を放送していることは知られていますが、その局以外の地域の視聴者が目にする機会が少ないという現状があり、ドキュメンタリー番組の存在や価値が社会に十分に伝わっていないという声も聞かれます。
そこで「民放online」では、ノンフィクションライターの城戸久枝さんにローカル局制作のドキュメンタリーを視聴いただき、「鑑賞記」として紹介しています。ドキュメンタリー番組を通して、多くの人たちに放送が果たしている大切な役割を知っていただくとともに、制作者へのエールとなればと考えます。(編集広報部)


今年であの戦争から79年。今回は8月に放送された番組の中から、特に戦争に関連する3番組を紹介したい。

『日記の中の父~餓死の島 2年の記録~』

東日本放送「テレメンタリー」で2022年8月14日放送(BS朝日「レジェンドキュメント」で2024年8月21日放送
私が戦争体験者の聞き取りをはじめたばかりのころ、ある元兵士の男性から、仲間の多くの死因が餓死だったと聞き、衝撃をうけた。お国のために戦うのだと戦地に赴いた彼らが、なぜ餓死しなければならなかったのか......悔しそうに語る元兵士の方々の話は強く記憶に残っている。2022年8月に放送されたこの番組に登場する佐藤勉さんの父、冨五郎さんもまた、戦場で餓死した兵士の一人だった。

冨五郎さんは37歳のとき海軍の水兵長としてマーシャル諸島に出征した。当時まだ幼かった勉さんには父の記憶は全くない。父の死後、戦友から家族のもとに2冊の日記が届けられたが、鉛筆で書かれた文字は消えかかり、紙も劣化しているためほとんど読むことができなかった。「父は誰のために、何のためにどうして書いているのか」――父のことを知りたいと、勉さんは、定年退職後にタクシーの運転手になり、日記の解読をできる専門家を探し出した。さらに肉眼で解読できないところは赤外線解析され、冨五郎さんの日記は蘇る。

「皆んな元気ですか」家族に話しかけるように書かれていた冨五郎さんの日記には、次第に南国の島で直面する厳しい現状がつづられるようになる。「缶詰状態にされ」「減食に減食」「良く生きているのが不思議な位だ」「今日のオジヤ(ネズミが入ッタ)味ノ良イ事日本一」国のために戦うはずが、戦地に赴いて、餓えとの闘いの日々。どれほどむなしかったろう。「ガ死だ 食モノナシ」。死を意識するような言葉が連なるようになった冨五郎さんの日記は、昭和20425日、「之が遺書」「最後カナ」という言葉で途切れた。翌日、冨五郎さんは亡くなった。「戦うとは一言も書いていない」父の無念を思い、勉さんは涙を流す。

「父ナキオマイタチモ何ニカニ不自由デセウガイタシ方ナシ 之モオ國のタメダ」――。夢に出てきた子どもたちの成長を思う冨五郎さんの言葉に胸がしめつけられる。届く保証のないその日記を書きながら、彼は何を思っていたのだろう。

この日記は、冨五郎さんだけでなく、南の島で無念の最期を迎えた元兵士の方々の実情を知るための貴重な記録となるだろう。あの戦争から79年が過ぎた今でも、日記の文面からにじみ出る当事者たちの痛み、残される家族の悲しみが、強く胸に迫ってくる。戦闘体験者たちに直接話を聞くことが難しくなった今、それでも戦争の記憶を伝える手段はまだあるのだと、この日記が、この作品が、強く訴えかけているように感じた。

『学生たちの戦争
学徒出陣 ペンを銃にかえられて』

福岡放送(「NNNドキュメント」で2024年8月18日放送)
1943年10月21日。明治神宮外苑競技場で、徴兵が決まった大学生たちの壮行会が開かれた。学徒出陣だ。このとき、日本全国で約10万人の大学生が出征したという。番組では、学徒出陣で出征した大学生たちの思いを、彼らが残した日記から読み解いていく。

九州帝国大学からも法文学部、農学部から学生691人が出征した。黒木三郎さんは九州帝国大学の代表として、「皇恩にこたへ 大學學人としての名誉を體して勇躍 皇國百年の大業に馳せ参ぜん」と答辞を述べている。ペンを銃にかえ、天皇のための盾となって戦場に赴く強い決意を記した言葉だ。実はこの答辞には、戦火が収まり、再び学園に戻ってこられたら勉強を続けたいという三郎さんの思いもつづられていたが、大学の検閲により削除された。

三郎さんの答辞を聞き、出陣した大学生の一人、水井淑夫さんは、特攻隊員に志願した。乗り込んだのは、回天。爆薬を搭載した魚雷で、敵の艦船に体当たりする特攻兵器だ。出撃前、母親が面会に訪れた時の彼の日記が残されている。「母上とお会いする...おはぎ重箱二つ、余一人にて平らぐ。肉親のありがたさとともに身にしみて美味し」当時、すでに食料は豊富にはなかったはずだ。それでも、息子のために、重箱2つものおはぎをせっせと作ったであろう母の姿が目に浮かび、胸が痛む。彼が亡くなったのは、終戦1945年8月10日。まだ23歳だった。 

当時の大学生たちが残した日記には、学問と戦争の間で揺れ動く彼らの思いがつづられている。京都帝国大学から出征した秀村選三さんの日記には、同世代の若者たちはすでに命をかけて戦っているなかで、うしろめたさがにじみ出ている。「日本は危機に立っている。此の現実の此の烈しさにひとり経済史の勉強とは何だ」「愚図愚図していれば、国滅ぶ。国滅ぶ」「早く戦に行きたい」......そして出征が決まると、生と死のはざまでさまざまな思いが複雑に入り組んだ言葉が書かれるようになる。「生命が惜しいのか、学問を捨てきれぬのか よくよくも業の深い自分ではある」「ペンを捨て剣を執る」

学徒出陣により、多くの大学生が命を落とした。一方で生き残った元大学生たちもさまざまな思いを抱え、生きてきた。「"生きたい""死にたい"がいつもこうなっとった(交錯していた)」「天皇陛下のためよりも、家族とか何かでないと死ねないんですよ」2008年、元学徒兵への聞き取り調査のときに発せられた秀村さんの言葉からは、生きて帰った者の無念が感じられる。仲間たちはなぜ、死ななければならなかったのか......。

学徒出陣から81年、存命中の元学徒兵は100歳前後になっている。死んでいった仲間たちのことを、彼らは思い続けていた。私が取材したある男性も、学徒出陣で、鹿児島から飛行機で飛び立った元特攻隊員だった。彼が乗った飛行機は鹿児島沖の黒島に不時着し、島の女性たちの懸命な介抱もあって、命は助かった。だが、彼もまた、特攻隊員として出撃し、命を落とした仲間たちのことを、亡くなるまで思い続けていた。

戦争に関するドキュメンタリーは、年月の経過、体験者の高齢化とともに減っている。だからこそ、戦争を取り上げた一つ一つの作品に思いを馳せ、戦争について考える時間をこれからも大切にしていかなければならないと思うのである。

『ノー・モア・ナガサキ
~戦後79年 長崎を最後の被爆地に~』

長崎文化放送(「テレメンタリー」で2024年8月24日放送)
今年の8月9日、長崎の原爆記念式典アメリカ、イギリス、フランスなどG7主要6カ国とEUの首脳の大使が出席しないというニュースが流れた。長崎市長が不測の事態を懸念して、イスラエルを式典に招待しなかったことが理由だという。79年前に終わったあの戦争と、今、世界で起こっている戦争......結局、戦争というものの本質は、どれだけ時を経ても変わっていないのだと私は失望にも似た感情を抱いた。

核と人類は共存できない......。長崎の被爆体験者の言葉だ。世界で唯一の被爆国である日本。2度と核兵器による犠牲者を出してはならないと、さまざまな形でその記憶をこれまでも伝えられてきた。あの戦争から79年。被爆体験者の数が激減しているなかで、どのようにこの記憶を伝えていくのか。長崎を最後の被爆国に......その思いで長崎放送が、次世代につなぐ人々の活動を追っている。

自身も長崎原爆の被爆者であり、医師でもある朝長万左男さん(81)は、アメリカで、核兵器の廃絶を訴えるキャラバンツアーを発案、アメリカの若い世代たちに体験を伝えた。被爆の実相を伝えるだけでなく、自身が被爆者として、核兵器をなくすためにどうしたらいいのかという考えを伝えたい――そんな強い思いをもって若者たちに語りかける朝長さんは、「今が最後のチャンス」と言う。あと10年、15年後には、被爆者はゼロになる。そのとき、核の恐ろしさを、どのように伝えていくのか......。アメリカの子どもたちに黒い雨について説明する朝長さんの言葉が、子どもたちにはどのように響いているのだろうか。

被爆3世である山西咲和さんは、6年前、スイスの国連欧州本部に、核兵器の廃絶を求める署名を届けた高校生平和大使の一人だった。高校生の当時、彼女は言った。「被爆者の方から直接お話を聞けなくなる時がくる......その時に原爆の被害がどれだけ恐ろしいかを伝えるのは......私たちしかいない」。今まさに、そんな時代が目の前に迫っている。彼女は今、海外の大学で学びながら、国の内外で被爆者のことを子どもたちに伝える活動を行っている。彼女自身、小学生のとき、原爆というものから目を背けていた。それが祖母を思い、原爆と向き合いはじめたという。

オーストラリアの日本人学校で、日本人の子どもたちに、郵便局で被爆した祖母の話を伝える山西さん。ひとこと、ひとこと、かみしめるように伝える姿はとても頼もしい。「動けない人もいたけど、助けなかったんです。自分が生きることに精一杯だったから」祖母の体験が、彼女自身の言葉と重なって、子どもたちに戦争の恐ろしさを伝えていく。「戦争の話はね 思い出したくないんです 思い出すと 悲しむ方が強くなるから 戦争なんかするもんじゃない そんな時代をつくったらつまらんよね」。

戦争体験の記憶は、黙っていればただ消えてしまう。だからこそ、原爆体験者の声、戦争体験者の声を引き継いだ一人ひとりの、次に伝える活動に大きな意義がある。咲和さんがかけた言葉が、朝長さんの訴えが、日本だけでなく、世界の子どもたちに届くことを、戦争体験者の子の一人として、強く願っている。

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