30歳以下の放送局員に「これから」を考えてもらう企画「U30~新しい風」(まとめページはこちら)。今回はTBSテレビの佐井大紀さんです。連続ドラマのプロデューサーを務める傍ら、ドキュメンタリー映画『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』を制作するなど、多岐にわたり活動しています。佐井さんには火曜ドラマ『あのクズを殴ってやりたいんだ』の配信用オリジナルサイドストーリー『あの夜を許してやりたいんだ』の制作を通じたテレビがリアリティを持つ「現在」を取り戻す試みを披瀝してもらいました。
先人たちのフンドシで取る「映画監督」という独り相撲
テレビドラマのプロデューサーをする傍ら、「ドキュメンタリー映画の監督です」と名乗る機会が増えた。しかし、57年前に放送された番組『現代の主役 日の丸』の映像を引用してリブートした映画『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』など、拙作はどれも先人たちの財産ありきの二次創作でしかない。一介のテレビ屋が、会社の資産をわが物顔で使って「映画監督」ヅラまでできてしまうのだから、もう世も末だ。
そんな令和において、若い世代に放送業界の「未来」を語ってほしいというのがこのシリーズ企画。それにしても『現代の主役 日の丸』のディレクター萩元晴彦と、村木良彦、今野勉の共著のタイトル『お前はただの現在にすぎない』とは、本当によく言ったものだ。テレビがただの「現在」ならば、そもそも「未来」なんてありゃしない。私が使うアーカイブ映像も当時の「現在」の記録であり、将来再利用される前提などない。令和のいま撮っている連続ドラマも、「現在」に生きる者たちによる「現在」の視聴者に向けた共同作業の記録にすぎない。現場のテレビマンは目の前の「現在」に追われ、正直「歴史」どころではないのに、このごろテレビという「現在」は螺旋のように「過去」と「未来」を後付けし、ますます「文脈」と「意味づけ」を正当化し始めている。
「意味」と「文脈」を求め過ぎてつまらない(?)テレビ
現代社会すなわちテレビは、執拗に「意味」や「文脈」「結論」を求め過ぎている。ドキュメンタリーであっても、ドラマであっても、視聴者も作り手も大前提として「情報」や「答え」ばかり追求する。
一つ、負け惜しみを言いたい。44年前に千石剛賢という中年男性が若い女性たちと共に失踪して日本中を騒然とさせた「イエスの方舟」騒動、これを扱った拙作『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』において、千石のカリスマ性、女性たちが団体を選んだ真相などが作品の中で明確に描かれていないため、「これでは知りたかったことがわからないので作品として成立していない」という指摘を少なからずいただいた。しかし私が描くべきだと思ったのは、彼女たちが生きてきた45年間という時間そのもの、団体の「多面性」、その定義づけの難しさだった。宗教の観点でも、メディアのあり方の観点でも、核家族の崩壊という観点でも、社会におけるアジール(避難所)という観点でも、シスターフッド(女性同士の連帯)の観点でも捉えることができるこの多面的な集団を、「こういう仕組みのカルトでした」と結論付けることは、観客に対しても「方舟」に対してもあまりに誠実さに欠けると思えてならなかった。
「意味」や「結論」を求めそれを明らかにしていく習慣は、私たちが生きる社会の理を明快にしているようで、実はとても息苦しく「つまらなく」している気もする。「意味」と「文脈」はときに全てを均一価値な「情報」に変え、「物語」を「記号の羅列」へと変換する。そんなもので果たして、観る人の心は踊るのか? もしやこれこそ、「テレビはつまらなくなった」と宣う方々が言いたいことの結論ではないか?
<佐井大紀監督のドキュメンタリー映画『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』㊧と『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』㊨>
テレビを挑発するのは「不条理」?
この世界は、決して理性で割り切ることができない。しかし人間は、心の奥底で強く明晰を求めてしまう。この決して解決しない対立関係を、人は「不条理」と呼び、それは定義不可能なもの、そして理屈にならぬ理屈だ。作家のカミュが「不条理」について論じた著書『シーシュポスの神話』を読みながら、私はふと思った。令和において「テレビ」が、「全てを明晰にしたい」という人間の欲望を達成するためだけの装置に成り果てようというのなら、この「テレビ」を真にリアリティを持つ「現在」に復権するためには、「不条理」の力を借りるべきではないだろうか、と。地上波放送でこれを遂行したら、そんなのただの放送事故である。そこで配信限定ドラマ『あの夜を許してやりたいんだ』(火曜ドラマ『あのクズを殴ってやりたいんだ』オリジナルサイドストーリー)において、生きる意味を見出せず「不条理」に直面した登場人物たちの、筋道の通らない「不条理」な作りのドラマを演出・プロデュースするに至る。
そもそも火曜ドラマ『あのクズを殴ってやりたいんだ』は、婚約者に捨てられどん底に落ちたアラサー女子・ほこ美(奈緒)が、そんな自分に追い打ちをかけたクズ男(玉森裕太)を殴り倒すべくボクシングを始め、いつのまにかプロボクサーを目指していくというラブコメディ。実はこのクズ男は、自分が兄のように慕う存在をボクシングの試合で殴り殺したという「不条理」に直面してから、抜け殻のように生きてきたということが後に判明する。主人公は「好きだからあなたを殴る」というアンビバレントな衝動に突き動かされ、このクズ男の人生に積極的に介入。その過程で「手段」だったはずのボクシングはいつしか「目的」へと昇華され、最終的に「愛」と「努力」という肯定的手段で試合に勝ち、恋も獲得し、「不条理」を打ちのめすという人間賛歌である。登場人物たちがそれぞれ、自らがこの世界に生きる意味を模索し、その役割を獲得していく様を、しっかり「筋道」と「理由」をつけながら描く物語は、多くの視聴者に共感してもらうべく丁寧に紡がれていったわけだが、もしそこに何か欺瞞があるのだとすれば、それはこれだけの「不条理」に直面しながら劇中で誰一人として自殺を思い至らないという点であろう。かくして、『シーシュポスの神話』においてもまず最初に議論された、「そこまで苦労してなぜ生き続けるのか?」という最も単純で究極的な問いが、サイドストーリーの主題として選ばれる。
不条理コメディ『あの夜を許してやりたいんだ』
『あの夜を許してやりたいんだ』(冒頭写真)の主人公・大葉(小関裕太)は市役所勤めのエリートであり、部下であるほこ美に兼ねてから惹かれていながら、ずっとその想いを打ち明けられずにいる優しくて凡庸な男である。彼こそ正に、習慣と妥協の暮らしの中で一定の倦怠を覚えることで前述の問いに目を背ける、極めて一般的で保守的な市民の代表であり、彼自身がこの世の「筋の通らなさ」に目覚めてしまうことにカタルシスを見出そうというのが本作の主題である。彼が同僚と共にほこ美の実家のスナックを訪れるところから、この不条理コメディは幕を開ける。
まず物語世界において、フィクション(テレビドラマ)の約束事を破り、「筋の通らなさ」を観客に共有する。第四の壁(舞台と客席を分ける一線)を破壊し、登場人物たちがカメラ目線で自らの本音を吐露することで、この物語世界において現実と虚構は地続きであり、われわれは共犯関係であることを認識してもらう。
次に、ドラマツルギーの破壊。唐突に覚醒した部下が大葉の松果体を目覚めさせようと奇行に走ったり、バーカウンターの中から拳銃が出てきたりと、スナックの中で起こる事象は極めて支離滅裂。くだらないと笑い飛ばす一方で、私たちが生きる現実世界においても、不幸や暴力はこのように足音も立てず突然やってくるものだという感覚を思い出してもらう。
そして、最終回におけるロシアンルーレット。拳銃を前にすれば尊い命も塵より軽く、さっきまで楽しく戯れていた若者たちが、いよいよ究極の命題「そこまで苦労してなぜ生き続けるのか?」に向き合わざるを得なくなる。「好きだからこそ殴りたい」という愛憎入り混じった感情はいつしか自分自身に向けられ、痛みと死の気配だけが生の実感を与えてくれる矛盾に気づいた時の甘美......。そして物語の結末は、観てのお楽しみである。もちろん、あらゆる状況において自殺は正当化されないのだが......。
ほかにも名作映画『オズの魔法使い』の引用など、NODA MAPがやりそうなことを低い偏差値の範疇で試みている。これについては、ドキュメンタリー映画で散々アーカイブ映像を使い倒してきた経験が生かされているのでは、という指摘もあった。そもそも映像や音を使った表現の醍醐味は、一見無関係な断片と断片が組み合わさることによって、誰も予想しなかった新しいイメージが生み出される瞬間にあるとも言える。そのイメージの跳躍こそが、「想像力」の生き物である人間が内に秘めた可能性を、再び私たち自身に気づかせてくれたりするのだ。この話は長くなるのでまた後日。
散々好き勝手に生意気を書き散らかしたが、経験上これだけは確信を持って言えることがある。テレビは面白くてナンボ。どんなにこちらが頭でっかちに作っても、視聴者に伝わらなければ、その番組には一文の価値もない。これは決して「不条理」ではなく、「現在」に目配りできない制作者の敗北だということを忘れないようにしたい。
※『あのクズを殴ってやりたいんだ』のオリジナルサイドストーリー『あの夜を許してやりたいんだ』は「TVer」にて配信中(外部サイトに遷移します)。