『珠洲』『キティちゃん』『袴田事件』 人物に迫ることで見えてくるもの【私の民放ドキュメンタリー鑑賞記】⑤

城戸 久枝
『珠洲』『キティちゃん』『袴田事件』 人物に迫ることで見えてくるもの【私の民放ドキュメンタリー鑑賞記】⑤

ローカル局が「地域密着」「長期取材」による優れたドキュメンタリー番組を放送していることは知られていますが、その局以外の地域の視聴者が目にする機会が少ないという現状があり、ドキュメンタリー番組の存在や価値が社会に十分に伝わっていないという声も聞かれます。
そこで「民放online」では、ノンフィクションライターの城戸久枝さんにローカル局制作のドキュメンタリーを視聴いただき、「鑑賞記」として紹介しています(まとめページはこちら)。ドキュメンタリー番組を通して、多くの人たちに放送が果たしている大切な役割を知っていただくとともに、制作者へのエールとなればと考えます。(編集広報部)


『珠洲の窯漢』

石川テレビ放送(「FNSドキュメンタリー大賞」で2024年10月14日放送)
今年の正月。能登半島を巨大地震が襲った。最大震度7。死者行方不明者は465人(災害関連死を含む、1126日時点)にのぼる。

能登半島最北端の珠洲市で、800年前から作られている珠洲焼。薪の灰が溶け、自然の釉薬となって生まれる黒灰色が特徴だ。珠洲焼の条件は、珠洲の土を使い、珠洲の窯で焼くこと。番組では、地震と向き合い生きている田端和樹夫さんと篠原敬さんという二人の珠洲焼作家を追っている。同じ珠洲焼作家だが、二人の生きざまも考え方も違う。だが、珠洲焼に対する情熱はかわらない。

2020年以降、奥能登地方は、たびたび地震に見舞われていた。2023年5月の地震で、2人の窯も大きな被害を受けた。途方に暮れた表情で、「やめるかやめんかの瀬戸際」と語る田端さん。それでも、窯を直し、再びろくろを回し始めた。ほほえみながら作業をする田端さんに、「結局は楽しいですか」と声をかけるディレクター。地震で被害を受けながらも、少しずつ前を向く田端さんに寄り添うように静かに取材は続いていく。

珠洲焼作家で作る珠洲焼創炎会の会長をつとめる篠原さんのもとには、地震後取材が殺到した。カメラの前で、「自分でやるしかない」と強く言葉を発する篠原さん。だが、取材を終えたあと、密着しているディレクターに、ふと本音を漏らす。「こんなときに聞くなと思うけど、答えなければならんでしょう」。やると公言したらからには、やるしかない......。そう自身に言い聞かせている姿が印象的だった。またいつ地震が起こるかわからない。そんな不安のなかで、篠原さんは5カ月かけて窯を完成させた。

地震が起こる直前の、大晦日の夜にもカメラが入っている。年末を迎えて、ほっとした表情の田端さんと、大晦日もろくろを回し、「激動の一年やったね」と振り返る篠原さん。そして1月1日の、あの巨大地震が奥能登を襲った。

巨大地震に成す術もなく立ち尽くし、それでも、この地で生きるために、何とか前を向いて再生を試みようとする珠洲焼作家たち......。取材対象者とどのような距離感で取材をするべきか。その判断は難しいだろう。だが、この作品からは、2人の対照的な生きざまの珠洲焼作家と、それぞれ絶妙な距離感を保ちながら、真摯に向き合い、信頼関係を築いていった取材者の姿勢が伝わってくる。

あの地震から1年が過ぎ、遠く離れた地域では、すでに過去の出来事となりつつあるが、能登の復興はまだまだ進んでいない。これから彼らがどのように珠洲焼と向き合っていくのか......。これからの彼らの物語にも、心を寄せていきたい。

(編集広報部注)『珠洲の窯漢』(すずのかまおとこ)は第33回FNSドキュメンタリー大賞を受賞した。2025年1月3日午前4時55分からフジテレビジョンで放送される(関東ローカル)。

『キティちゃんと王さまの約束
~鉛筆一本から描く平和~』

山梨放送(「NNNドキュメント」で2024年10月6日放送)
キティちゃんが誕生したのは、1974年。1976年生まれの私にとって、キティちゃんは幼いころから親しみあるキャラクターだった。お気に入りの文房具にも、友達への誕生プレゼントも、キティちゃんをはじめとするサンリオのキャラクターがそばにいた。だが、そんな当たり前で愛着ある存在のキティちゃんらの誕生に、サンリオの創業者であり、会長をつとめる辻信太郎さんの平和への願いが込められていたことは、恥ずかしながら全く知らなかった。

辻さんは山梨県甲府市生まれ。終戦約1カ月前、7月6日の夜から7日にかけて、甲府市はアメリカ軍の爆撃機による空襲で、市街の約7割を焼失した。18歳の時、進学先の大学から帰省していた辻さんの実家も空襲で焼けてしまった。その時に目にした亡くなった母子の姿が目に焼き付いているという。

「戦争ならば人を殺してもいいという時代だったんですね。今は何でもない普通の人たちをやたら殺し合うということはどう考えたって正しくない」「みんな助け合って仲良く生きていくということをどうしてもこれからも永遠に続けなければならない」

戦争の悲惨さを体験してきたからこそ、96歳の会長の言葉は重い。

「戦争だから仕方がない」戦争体験者への取材のなかで、何度も繰り返し聞いた。家を失くし、身内を亡くしても、戦争だから仕方がない......多くの人は、そう言って、思いを封じ込めてきた。

なぜ人は戦争をするのか。戦争はいけないんだ......。もう二度と戦争を繰り返してはならない。そんな思いを抱き、「みんななかよく」という理念のもと、サンリオは創業された。戦うのではなく、話し合って解決していこうと......。

辻さんは毎年8月にサンリオの月刊誌『いちご新聞』に平和へのメッセージを寄稿している。「1番いいのは、最初から『戦わない、争わない』ことではないかと王さまは考えます。」「『争い』は破滅に向かうけれど、『なかよく』は世界中を笑顔で結び付ける力を持っています。だから、王さまはこれからもずっとずっと『みんななかよく』と言い続けていきます。」

サンリオのキャラクターは、子どもたちだけでなく、親子で、さらに世界130の国と地域で愛され続けている。今も世界のなかから、戦争はなくなっていない。だからこそ、「みんななかよく」という平和のメッセージが、世界中の子どもたちに届くことを願う。

『でっち上げ~袴田事件 58年の叫び~』

静岡朝日テレビ(「テレメンタリー」で2024年9月21日放送)
1966年6月30日。静岡県旧清水市の味噌製造会社専務宅で火災が起き、焼け跡からめった刺しにされた4人の遺体が発見された。警察は、元プロボクサーの袴田巌さんを逮捕、袴田さんは無実を訴えたものの、事件から1年2カ月後に味噌樽の中から発見された5点の血染めの着衣が証拠となり、1980年には死刑判決がくだった。袴田さんは翌年、再審請求したが、釈放されたのは静岡地裁が再審開始を決定した2014年3月。味噌樽から発見された5点の衣類について、裁判長は、捜査機関による捏造の疑いを指摘し、拘置をこれ以上継続することは耐え難いほど正義に反すると述べた。結局、48年もの間、袴田さんは拘留され続けたのだ。

そして事件から58年を経た今年9月26日、静岡地裁は「袴田事件」と呼ばれるこの事件の再審無罪を言い渡し、検察が上訴権を放棄したことで、判決は確定した。この番組は、袴田さんの再審判決を前に、「袴田事件」を、袴田さんの手紙や、姉ひで子さんの戦いとともに振り返っている。

「俺じゃない。犯人は俺じゃない」取り調べを録音したテープに残る袴田さんの声。だが、毎日、10時間もの取り調べのなかで、袴田さんは自白してしまう。裁判で再び無実を主張したものの、結果は死刑判決。そのときの心情が袴田さんの手紙に残されている。

「ボクサーであったが故に、司法権力にデッチ上げられ ボクサーなら人殺しを遣り兼ねないという、人間の尊厳を無視した考え方」(1989年3月2日)

「死刑囚にデッチ上げられてから間もなく13年目 警察内の密室で極めて悪辣な拷問を連日受けた。私はほとんど自己を喪失させられていた」(1980年5月13日)

「つまり有罪の根拠になっているすべてのものがデッチ上げられているのです。血染めの着衣については、血液の諸問題を詳細に暴露することが完全勝利のために大切です」(1987年2月2日)

袴田さんの手紙に繰り返し登場する「デッチ上げ」という言葉。デッチ上げにより失われた袴田さんの日々は取り戻すことはできない。なぜ冤罪がおきてしまったのか。そして、本当の犯人は今、どこにいるのか......。88歳になり、意思疎通もままならなくなった袴田さんを見ているといたたまれなくなる。

思い込みと決めつけ、そして決してあってはならない証拠の捏造により起こったこの冤罪事件を、二度と繰り返さないためにも、私たちは関心を持ち続けなければならないだろう。そして、若い世代にも、もっと伝えていくべきだ。私も中学2年生の息子と一緒に、もう一度、この番組を見るつもりだ。息子は何を感じるのか。親子で話し合ってみたいと思う。

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