"創造のバトン"を後進の脚本家たちへ ――市川森一脚本賞財団の10年

鈴木 嘉一
"創造のバトン"を後進の脚本家たちへ  ――市川森一脚本賞財団の10年

名脚本家として知られた市川森一(1941-2011)の名を冠して、新進の脚本家に賞を贈る「市川森一脚本賞財団」が、10年を区切りとして1月末に解散する。10回を数えた市川森一脚本賞では9人が本賞、2人が奨励賞を受賞した。その後、バカリズムと金子茂樹、野木亜紀子の3人が向田邦子賞に輝いたように、受賞者の多くは第一線に立っている。同財団は「テレビドラマの巨人たち」と題し、優れた脚本家の作品上映とシンポジウムも主催してきた。10年間の活動を振り返り、その成果や意義を考えたい。(敬称略)

賛助団体と個人会員の寄付で運営

市川は1983年、西田敏行主演のコメディー『淋しいのはお前だけじゃない』(TBS)で第1回向田賞を受けた。ややもすると日常的なリアリズムべったりになりがちなテレビドラマに、寓話性豊かな新風を吹き込んだ。橋田壽賀子、向田邦子、山田太一、倉本聰らに続く世代の代表格として、「脚本家の時代」の一翼を担った。時代に反抗する青春像を鮮烈に描いた萩原健一主演の『傷だらけの天使』(日本テレビ)は、伝説的に語り継がれる。市川は好んで題名に「夢」という字を入れ、民話やメルヘンを題材にした幻想的な作品でも才気を発揮した。

NHKの大河ドラマでは、戦国時代の堺を舞台にした『黄金の日日』(78年)をヒットさせた。84年の『山河燃ゆ』は大河ドラマで初めて太平洋戦争の時代を取り上げ、94年の『花の乱』でも室町中期に初挑戦したようにチャレンジ精神は旺盛だった。

寓話性、青春、夢、幻想的、チャレンジ精神......。個性的で、多彩な市川ドラマの世界を表現するこれらのキーワードは、市川賞の選考基準のベースとなった。

市川は2000年から10年間も日本放送作家協会理事長を務め、「日本脚本アーカイブズ」設立運動の先頭に立った。また、日韓中をはじめアジアの放送作家が集う国際会議を推進した。

長崎県諫早市出身。郷土愛は人一倍強く、長崎市につくられた長崎歴史文化博物館や諫早市立諫早図書館の名誉館長などを引き受けた。50代半ばからは小説も書き、『夢暦 長崎奉行』『蝶々さん』、島原の乱を扱った『幻日(げんじつ)』の"長崎3部作"を手がけたが、11年暮れ、肺がんのため70歳で死去した。

市川財団1.jpg

<市川森一が名誉館長を務めた諫早市立諫早図書館には、
市川の顕彰碑が建てられた。
写真は2021年11月の除幕式であいさつする市川美保子夫人

同財団はその翌年、市川を敬愛する元NHK放送総局長の遠藤利男・現理事長や元NHKプロデューサーの高橋康夫・現専務理事、杉田亮毅・前日本経済新聞社会長(当時)、市川美保子夫人らによって設立された。長崎大学出身で、NHK会長を退任した福地茂雄・元アサヒビール会長が理事長(現特別顧問)に就任した。

東京ニュース通信社が運営する向田賞に対し、同財団は長崎県など行政の支援を仰ぎながらも、特定の企業・団体には依存しない。賛助団体と個人会員の寄付を財源としてきた。しかし、昨夏、資金難に加えスタッフの高齢化といった理由からやむをえず解散を決めた。

「市川と長崎」の上映会・シンポで幕引き

昨年121718日の2日間、最後の事業となる「テレビドラマの巨人たち」シリーズの第6回として「市川森一が愛した『ふるさと・長崎 夢物語』」と題した上映会とシンポジウムが、市川ゆかりの長崎歴史文化博物館で開催された。諫早を舞台にして、地元出身の役所広司が主演したフジテレビの『親戚たち』、長崎に原爆が投下される前日の庶民群像を描き、文化庁芸術作品賞を受けた日本テレビの『明日―1945年8月8日・長崎』(井上光晴原作)など、長崎を題材にした9作品が上映された。私は、ドラマの遺作となったNHKの『蝶々さん~最後の武士の娘』など4作を見直し、市川作品の質の高さを改めて実感した。

市川財団3.jpg

<長崎歴史文化博物館で開かれたシンポジウム
「市川森一作品とふるさと長崎」には、三田佳子(中央)らが参加した

2日目の午後、同財団の活動報告会があった。高橋専務理事は「取りあえず5年は続けようと始め、結果的に10年続いた。県や市、地元の皆さんにはずっと協力していただき、感謝したい。市川さんは同い年なので、元気だったら81歳になる。財団はなくなるが、個人的には『市川森一を語る会』を開きたいと思っている」とあいさつした。

市川賞受賞者にはトロフィーと100万円の賞金のほか、長崎への取材旅行を援助する長崎県知事賞、長崎市長賞、諫早市長賞も贈られた。授賞式とパーティーが毎年4月(終盤は3月)、東京の千代田放送会館で開催された後、長崎市でも祝賀パーティーやトークセッションが開かれたように、長崎とのかかわりは深い。

続いて第4回受賞者の足立紳が登壇し、受賞の前後をユーモラスに語った。脚本家をめざしていたが、なかなか芽が出ない。働きに出る妻の代わりに、家で2人の子の面倒を見ていた。踏ん切りをつけようと思い、『佐知とマユ』という作品をコンクールに応募したら、NHKでドラマ化された。「それが市川賞を受賞し、映画やテレビドラマの話が来るようになった。市川賞に救っていただいたと、心から感謝している。賞がなくなるのは寂しいが、僕らがいい作品を残して、『市川賞の受賞者はやっぱり違う』と言われるよう努めたい」

市川財団2.jpg

<第4回市川賞を受けた足立紳(中央)。
その左は受賞作『佐知とマユ』に主演した門脇麦

足立が脚本・監督を務めた『喜劇 愛妻物語』は、東京国際映画祭の最優秀脚本賞などを受賞した。23年度後期には、戦後の歌手笠置シヅ子をモデルにしたNHK朝の連続テレビ小説『ブキウギ』の脚本を担当する。

報告会の後、「市川と長崎」をめぐるシンポジウムが始まった。1994年の大河ドラマ『花の乱』、天正遣欧少年使節が持ち帰ったとされる鏡を小道具とするNHKの『鏡は眠らない』に主演した三田佳子、宮沢りえ主演の『おいね 父の名はシーボルト』などの市川作品を演出した元NHKディレクターで映画監督の三枝健起、TBS系の『東芝日曜劇場』で市川作品7本を演出した長沼修・元北海道放送社長、市川がリポーターを務めたドキュメンタリー『サムライが笑った~長崎・出島オペレッタ』を制作した長崎文化放送役員待遇の大浦秀樹が参加し、私が司会を担当した。

長崎にしては珍しく朝から雪が降り、客足が心配されたが、会場は老若男女でほぼ埋まった。興味深いエピソードや市川の人間性を彷彿とさせる話が続出した。予定の90分を軽くオーバーし、質疑応答も相次いだ。

受賞者は売れっ子や実力派として活躍

市川賞の受賞者リストを見ると、今や第一線で活躍する顔ぶれが名を連ねている。

NHKの「夜★ドラ」で放送された『恋するハエ女』で第1回市川賞に選ばれた大島里美は、昨年の話題作『妻、小学生になる。』(TBS)などを書いている。第2回受賞者の浜田秀哉は、フジテレビの『絶対零度~未然犯罪潜入捜査~』シリーズや『イチケイのカラス』、日本テレビの『ボイス 110緊急指令室』シリーズを書く売れっ子だ。第3回だけは本賞に至らず、バカリズムと宇田学に奨励賞が贈られた。

関西テレビの『僕のヤバイ妻』で第5回受賞者となった黒岩勉は、TBSの『マイファミリー』などの連続ドラマはもとより、劇映画やアニメも手がける。日本テレビの『ボク、運命の人です。』で受賞した第6回の金子茂樹と、TBSの『アンナチュラル』で受賞した第7回の野木亜紀子は向田賞も受け、人気と実力を兼ね備えている。深夜ドラマ『JOKER×FACE』で受賞した第8回の玉田真也と、『アライブ がん専門医のカルテ』(いずれもフジテレビ)で受賞した第9回の倉光泰子はともに30代だ。昨年、NHKの『きれいのくに』で受賞した第10回の加藤拓也は最年少の28歳だった。

市川財団5.jpg

<『アライブ がん専門医のカルテ』で倉光泰子(右)が受賞した
第9回では、主演の松下奈緒がスピーチをした>

次の時代を担う新たな才能を評価してきたのは、NHK出身で同財団理事の菅野高至委員長をはじめ、元全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)理事長で映画監督でもある倉内均・アマゾンラテルナ会長(昨年10月に急逝)、日本テレビの次屋尚プロデューサーら選考委員のキャリアと眼力だろう。

同財団のもう一つの柱は、テレビドラマの黄金期を支えた名脚本家に光を当てる「テレビドラマの巨人たち~人間を描き続けた脚本家」シリーズだった。市川を取り上げた1回目(=冒頭写真)は2018年4月、2日間にわたり千代田放送会館で開催された。NHKの『黄色い涙』など5作が上映され、シンポジウムにはTBSの「モモ子シリーズ」に主演した竹下景子、演出した堀川とんこう、木田幸紀・NHK放送総局長(当時)ら計8人のパネリストが参加し、2日とも私が司会を務めた。その年の11月には向田邦子、194月の第3回にはNHKの『天下御免』や『夢千代日記』などで知られた早坂暁、21年3月の第4回にはNHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』や大河ドラマ『武田信玄』をヒットさせた田向正健が選ばれた。

この企画を提案したのは、NHK出身の渡辺紘史常務理事だった。昨年3月、TBSの3時間ドラマ『曠野のアリア』などの大型ドラマで知られた岩間芳樹を取り上げた第5回では、自ら司会を務めた。放送文化基金の助成も取り付け、ほとんど一人で切り盛りする渡辺の奮闘ぶりには頭が下がった。それだけに、私は計4回の司会だけではなく、上映作品やパネリストの人選にもかかわり、協力を惜しまなかった。このシリーズはどこかの団体が引き継ぎ、ぜひとも続けてほしい。

市川は生前、漫画やベストセラー小説のドラマ化が増えるにつれ、脚本家のオリジナルが減る傾向に危機感を募らせた。「テレビドラマは脚本から始まる。作家性を通すためにはテレビ局とも闘わなければいけない」と強調した。市川賞と同財団の歴史は短くも、市川の遺志を確かに受け継ぎ、後進の脚本家たちに"創造のバトン"を手渡す10年だった。

最新記事