スカイツリー「開業10年」に想う

根岸 豊明
スカイツリー「開業10年」に想う

足も震える、吹きさらしの地上634メートル。東京スカイツリーの最頂部で歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが成田屋伝統の「にらみ」を披露してくれた。壮大なる「厄払い」は東京スカイツリーが開業10年を記念して来場者に、東京に、そして全国に贈ったメッセージだろう。2022年、令和4年5月22日、よく晴れた初夏の日の出来事だ。

開業10年。その10年の時の流れを想った。13年ブエノスアイレスで決定した「東京2020オリンピック・パラリンピック」。海外からの沢山の来訪客が溢れているはずだった東京五輪は、コロナ禍で1年延期され、21年に「無観客」という前代未聞な大会が開催された。日本中が期待したインバウンドは消滅した。この10年はまた、自民党の安倍首相による長期政権が続いた。政権は終盤に綻びが目立ち始めたが、それでも、この時代に「改元」が行われた。

天皇陛下(現・上皇)が「生前退位」の意向を示し、その皇位継承で「平成」は「令和」に代わった。メディアの世界では急成長するインターネットが広告費でテレビを追い抜いた。今、そのリテラシーが問われ始めている。そして、22年2月、ロシアのウクライナ侵攻は安定していた世界を一変させた。世界は西で、東で不透明な時代に突入しようとしている。

そうか、10年か。短いようで、さまざまな出来事が詰まった10年だった。スカイツリーも10歳か。

開業までの10

「開業10年」に際して、「開業までの10年」を思い出す。私も関わったスカイツリー誕生までの10年だ。テレビ業界は当時、アナログからデジタルへの移行に腐心していた。

私が所属した在京テレビ局は他の在京局(NHKを含む)とともに、地上デジタル放送のための新たな鉄塔の可能性を模索していた。それは、「Tokyo」の終わりなき再開発を超越する圧倒的な高さを誇り、憂うるべき「巨大地震」に抗う耐震構造を有し、21世紀の日本を象徴する。そんな新タワーを希求した。私たちは6局横断的な「新タワー推進プロジェクト」を作り、新・タワーの候補地を募集した。「我こそは」と首都圏の15候補地が挙手した。

プロジェクトは専門家の叡智を借りる。中村良夫・東工大名誉教授を筆頭に9人の専門家による「有識者会議」が設けられた。さまざまな精査・分析を経て、墨田区押上が「第一候補地」に選ばれた。2005年2月22日のことだ。思い出せば、ここから建設までが長かった。

在京テレビ6局と東武鉄道の「新タワー」への思いは総論では一致したが、各論では衝突した。衝突の一番の理由は、コミュニケーション不足だった。「裃を着た」話し合いが続いた。その結果、「第一候補地」が「確定候補地」になるために1年を要した。

「裃を着た」話し合いは一時、決裂の危機を迎えたことがある。事態を収拾したのは「裃を脱いだ」話し合いだった。その後の話し合いはスムーズに進み、06年3月に「確定候補地」の発表が行われた。それでもまだ、「建設」は決定していなかった。

「建設」を決定するためには、新タワーの利用に関する「契約」が締結されなければならない。在京テレビ6局の立ち位置は新タワーを賃借する「店子」のそれだった。新タワーと周辺事業に投資し、事業総体を運営することは東武鉄道に委ねられていた。東武は「大家さん」だった。総事業費600億円の物件。賃借契約も何十年にも及ぶ。「契約」は重要だ。契約印をひとたび押せば、巨額な年間賃借料が決まり、長期の契約期間が決まる。それは双方を縛る。慎重な上にも慎重な協議が続けられた。ただし、前回の轍を踏まないように少人数の現場担当が論点整理と腹ごなしの議論を行い、軽微な合意も済ませる「シェルパ」を受け持った。対立する論点は責任者(サミット)が集中して協議することにした。この「サミット」方式は有用で、特にシェルパ会議は、かなり突っ込んだ話を正直に行い、その成果を上げた。

サミットの最終合意は、07年9月21日。その後、在京6局と東武鉄道は各社内の手続きを経て、1211日に墨田区の東武鉄道本社で「契約」に正式調印した。本社屋上から建設予定地を眺めた。すぐ横を流れる「北十間川」は、後にスカイツリーの憩いの場になるが、この時はまだ、うら寂しいドブ川だった。

ここで、記憶のレコーダーを止めてみる。そして、想う。ネットの急成長、テレビとスカイツリーのこれから。石原都知事(当時)が新タワー計画当初「ネットの時代にそんなタワーが必要なのか」と言ったという。ネット広告がテレビ広告を凌駕した今、そのセリフが響く。

開業から10年。そして、その10年先のテレビは、スカイツリーはどうなっているのか。

竣工と受信対策

 「東京スカイツリー」という名を得て、その建設が始まったのは2008年7月14日だ。大林組が建設を担当した。巨大鉄塔の基礎工事は5カ月かけて行われ、強靱な耐震構造のひとつとして地中連続壁工法(OWSSOLETANCHE)が施され、ツリーは下町に根を張った。その後、塔体の地上部分は少しずつ空に向かって伸びていった。見物客も日を追うごとに増え、全国各地のナンバープレートをつけた車が押上周辺に増えた。2011年2月28日、スカイツリーは600メートル高を超え、世界一の鉄塔となった。そして、その11日後に東日本大震災が発生する。未完成の塔は震度5の揺れに見舞われたが、びくともしなかった。

スカイツリーは2012年3月2日、竣工。そして、5月22日にめでたく開業した。その悦びも束の間、私たち「新タワー推進プロジェクト」の最大にして最後の難業が始まった。

東京タワーにある親局を移す準備としてスカイツリーから試験電波が発射された。その結果、その電波が想定外の受信障害を生むことが判明した。ゴールが一瞬にして遠ざかった。

障害の原因はブースターだった。弱い受信電波を増幅するブースターはスカイツリーからの強い電波でオーバーフローを起こした。テレビ画面には障害を示すモザイクが現れた。

この受信障害で親局移転を静観していた総務省が動いた。さらに国会まで強い関心を示した。スカイツリーへの親局移転は「政治案件」にまでなってしまった。 

人海戦術が採られた。何回も試験電波が発射され、受信障害世帯のあぶり出しが行われた。そして、工事関係者が出向いて対策工事が施された。1年の時間がかかり、最終的に495,740件の問い合わせ電話を受け、156,023件の工事が行われた。100億円を超える経費がかかり、全て、原因者である在京テレビ6局が負担した。思い出すだけでも胃が痛くなる。

そして、受信障害がクリアされ、一般の人が誰も気がつかない、スカイツリーへの親局移転という「歴史的大転換」が静かに行われた。2013年5月31日午前9時のことだ。

スカイツリー開業から1年後、その開業記念日と9日違いの5月31日は私たちの「もうひとつの記念日」になった。そして、新タワー推進プロジェクトは解散した。

10年後の2032

さて、10年後にテレビとスカイツリーはどうなっているのかという問いの答えは明快だ。テレビ局は健在で、日本随一のコンテンツメーカーとして、その地位は変わらない。ネットが今後どのように伸長しようとも、テレビが持つ「特性」や「公共性」、その「価値」は変わらない。そして、安心・安全なメディアとして視聴者、国民と共にあり続ける。放送法に護られた「事実に忠実なジャーナリズム」を奉じることで、ネットとは一線を画し続ける。それが10年後のテレビであり、スカイツリーはその最重要なパートナーであり続けると思う。

この10年のうち、6年を私は東京以外の土地で暮らしてきた。東京からの帰路、羽田を発った飛行機は上昇し、大きく左旋回した後にスカイツリーを眼下に望む。私はそれを眺めながら、いつもテレビとスカイツリーの未来を反芻していた。それが上記の回答だ。

それは確実な未来であると思う。テレビや電波には無限の未来があると思うからだ。

さて、10年後、私は何を想っているのだろうか。


参考文献 拙著『誰も知らない東京スカイツリー』(2015年、ポプラ社)

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