2022年3月16日の深夜、東日本を大きな揺れが襲った。震源地は福島県沖でマグニチュード7.4、最大震度6強を記録した。内陸では11年の東日本大震災に匹敵する体感であったという人もいる。実際SNSには、めちゃめちゃになった本棚や商品陳列の写真が並び、東北新幹線は一部でおよそひと月不通となった。
この規模の地震は、1年前の2月13日にも生じている。思い起こせば、3・11以降、私たちは何度も大小の揺れを経験している。歴史をひもとけば、それ以前も津波は土地の記憶の中にあった。当時はあまりの衝撃に「未曾有」という言葉を受け入れたが、決してそうではなかったのである。惨禍は常に日常と地続きをなしている。「風化」とは、その意識の薄れを指す言葉だ。
気仙沼市のリアス・アーク美術館は13年から、常設展「東日本大震災の記録と津波の災害史」においてこの問題を提起し続けている。さらに22年2月5日から3月21日の間、特別企画展「あの時、現在、そしてこれから」を開催。災害と生活の連続性を風景の記録を介して見定め、「海と生きる、地域住民の覚悟」が、地域文化として形を成す必要性を訴えた。果たして私たちはそれに応える準備ができているか。
「風景」の変化からその意味を考える
3月11日を宮城、岩手の沿岸部で過ごすようになって9年。車を借り、陸前高田から仙台の荒浜まで走り抜け、いくつか決まった場所の「風景」をただ写真に収める。時計の針はあれからずっと動いている。必ずしもメモリアルデーに合わせて伝承施設や追悼空間が用意されてきたわけではない。逆説的だが、だからこそ、この日には現地にいたい。そこで暮らす人々と、「あの日」への目線を合わせたいからだ。
<気仙沼市街を一望する安波山からの眺め>
いくつかの場所では、かさ上げによる道路の付け替え、防潮堤、高層建築によって「定点観測」すべき地点が分からなくなっている。「安心・安全」がその地の生活文化と交わることなく構想され、「創造的復興」と「産業振興」が直結した報道ばかりが聞こえる。それが絶対に駄目だというわけではない。ただ時空間の連続性が断たれた「風景」には、人々の息遣いが感じられない。それが心配だ。
一方、市民による手作りの「定点観測」のプロジェクトも少なくない。そこでは被災そのものよりも、もっぱらそれによって失われた日々の暮らしの豊かさが語られる。毎年、変化する「風景」を見つめながら、その意味を考える。
心のふたを外すラジオの役割
記憶の伝承は大切である、それは正論だ。しかし声高にそのスローガンを言う人々ほど、まだ語れていない、心のふたが外れていない思いがたくさんあることに気づいていない。
私が3月11日に東北を訪ねるもう一つの理由はカーラジオを聴くためだ。運転中はずっとFM、AM、コミュニティを選ばず、電波をサーチし、聞こえてきた音に耳を傾ける。多くの局では今年も特別編成だ。レギュラー枠も震災を語ることにゆっくり多くの時間を割いている。首都圏のメディアだけに接していては、この時間に身を添わせる感覚は得られない。
人の数だけ異なる経験と記憶がある。話せるようになるきっかけも、日々の行動との折り合いのつけ方もそれぞれだ。だからこそラジオ独特のパーソナリティとの距離や、重くなりすぎないように意味を背負ってくれる楽曲のインターバルが効いてくる。この日も「初めてメールします」という便りを聴いた。そのリスナーの、言葉にすることをためらい続けた11年の歳月を思った。
月日を重ね 人と地域育つ
今年の3月11日に必ず行こうと思っていたのが、昨年7月に震災遺構としての公開が始まった石巻市立大川小学校(=冒頭画像)だ。今まで多くのテレビ、ラジオ番組がその不幸な出来事を報じてきたが、いまひとつ腹に落ちていなかった。かつては美しかっただろう校舎を前にして、伝承館に据えられた端末機器で裁判記録を読んだ。時計を見ながら裏山を振り返った。ひたすら「自分なら、どうしただろう」と考えた。
石巻市のもう一つの震災遺構、門脇小学校は4月3日公開開始とのことで、翌月出直すことにした。ここでは津波火災に襲われながらも、学校にいた児童全員が避難できた。その子どもたちが20歳を過ぎ、それからの日々を語る展示が印象的だった。単純に比較はできない。しかし、生きてさえいれば成長し、経験に言葉を重ねていける。それができた子どもたちと二度とできない子どもたちがいる。その現実を受け止めねばならない。
<遺構に加え、展示も印象深い門脇小学校>
3月11日の「ひとり弾丸ツアー」は、おおよそ仙台港近辺で夕刻を迎えゴールになる。この地で一足早く震災遺構として公開された荒浜小学校は、5年の月日を重ね、すっかり新たなコミュニティの拠点となっていた。人も育つが、地域も少しずつ育っていく。
真実とフェイク混在する中で
今年の3月には、被災からの時間を、心を落ち着かせて考える困難さがあった。画面やタイムラインを埋め尽くす「戦争」のリアル。まさかと思う出来事がわれわれの日常に介入してきている。
思えば、「普通の人」の現場の目の高さの映像が、報道素材としてこれだけ用いられるようになったのは、東日本大震災からだった。以降、SNSの普及にも後押しされ、破壊のプロセスに並行して共助が視覚化され、真実とフェイクが混在しながら押し寄せている。人為の極北か自然の脅威かは別にして、「いのち」の不確かさを当たり前に知覚し続けるのはつらい。
情報の量は豊富だが、無秩序に現れて脊髄反射をあおるネットに対して、編成・編集を施したメッセージを届けられるメディアの役割は何なのだろう。その日その時のトピックを、バラバラと点で伝えるだけではない。面でコミュニケーションすることの大切さ。「あの時」と「いま」、「かの地」と「ここ」、「あなた」と「わたし」......そうしたつながりを介して、当事者として考えるきっかけを得る。求められているのは、そうした機能なのではないだろうか。
<大きな防潮堤に囲まれた気仙沼線BRT陸前小泉駅>
<21年3月28日にできた石巻南浜津波復興祈念公園>
<聖人堀、北向観音などかつての「生活」の痕跡が
がらんとした空間に埋もれる>