2011年3月11日の東日本大震災から間もなく12年になろうとしている。4月になると、全ての小学生は東日本大震災を経験していない子どもたちになる。
昨年、新海誠監督の『すずめの戸締まり』が上映された。主人公の鈴芽は、普通の日常を過ごす高校生である。だが、夜には震災で犠牲になった母を夢の中で探し続けて泣いている少女であり、震災から抜け出せずにいる少女として描かれている。母親代わりとして鈴芽を育て、重い責任を背負い込んできた叔母の環も、28歳からの12年間は震災によって人生が変わらざるを得なかった人物として描かれている。
震災後のそれぞれの12年を過ごしてきた私たちは、震災で被災した人々にとっても、直接の被害はなかった人々にとっても、あたり前の日常を過ごしているかに見える中で、濃淡はあっても震災の影が何らかの形で残っているのではないか。同じことは放送にも言えるであろう。未曽有の大災害に直面して、放送はどのような困難に直面し、どのような問題がクローズアップされていたのか。そして、震災後どのような変化が生じたのか。体験の共有が難しくなりつつある今、震災当時仙台で被災生活を送った立場から、あらためて12年間の東日本大震災報道をふり返り災害報道について考えたい。
筆者は被災地の仙台に家があり、発災時は14時26分発東京行き新幹線に乗車中だった。けたたましく緊急地震速報が鳴り響く中、車体が激しく上下に揺れながら福島駅と郡山駅間の長いトンネル内に滑り込み、そのまま22時間閉じ込められた1,083人のうちの1人だった。翌12日の昼過ぎになって歩いてトンネル内を脱出した。12日の夜に、停電で真っ暗闇になった仙台に戻り、震災による急性ストレス障害(ASD)を抱える子どもの姿を間近に見たり、知人の安否を尋ねたり、食料も水もなく余震が続く中、ライフラインが途絶えた都市での生活を余儀なくされた。4日目に電気、7日目に水道の順に復旧し、ガスの復旧は4月1日だった。
当時BPO青少年委員会委員だった筆者は、被災地で暮す生活者の眼と、BPO委員としての眼とで震災報道を観ていた。14日月曜日の昼過ぎに電気が復旧し、テレビをつけると、画面に最初に現れたのは福島第一原発のライブ映像だった。その後も激流となって町をのみ込んでいく津波の映像、津波火災で激しく炎上する町、押しつぶされた家々の光景、そして被災地の困難な暮らしの様子などが繰り返し放送されていた。放送の使命である国民の知る権利に応えることと、被災者に生活情報を届けることを、テレビやラジオは震災の最前線に立って懸命に行っていることを感じていた。
2、3日取材して帰らざるを得ないキャスターが多い中で、長期にわたって被災地で生活しながら、被災地・被災者の目線で情報発信しようと努める姿勢にも、頼もしさも感じた。同時に、被災地と被災者に寄り添って放送を続けた地元のローカル局の奮闘を目にしながら、キー局とローカル局の役割について考えさせられる毎日でもあった。
周知のように、災害報道にはライフラインと、ジャーナリズムとの役割がある。筆者が暮らす仙台では、発災後、東北放送、仙台放送、宮城テレビ、東日本放送、エフエム仙台は、被災地の放送局としてライフラインの役目を懸命に果たしてくれていた。一方で、災害発生直後から最低限のライフラインの復旧見通しが立つまでの間、ローカル局は、独自の枠を拡大しながら、キー局では果たしえない被災地の局としての独自の役割と機能をさらに強化してもよいのではないかと感じたことも事実である。
東日本大震災は金曜日に発災したが、最初の週末が明けた月曜日、筆者が観ていた夕方のトップニュースは東京の計画停電に関する報道。多くの視聴者が住む首都圏では、東京の計画停電は必要な報道だったと思うが、2番目が原発報道、3番目が津波を含めた震災報道だった。さまざまな土地で暮らす多様な人々が必要としている情報を、いつどのように誰に向けて発信するのか、その取捨選択が難しいことは理解できる。だが、まだ水も食料もなく、ガスも復旧せず、家の中では棚やタンスが倒れてガラスの破片が散乱する中で、原発以外の震災報道は3番目の扱いなのかと、被災地に住む一人として諦めのような気持ちになったものだ。仙台に住んでいて、どうやって子どもに、水、食べ物を確保しようかと必死な中で、宮城や岩手の被災者にはほぼ無関係な東京の計画停電がトップニュースということに違和感を持ったのである。被災地と被災地外では人々が求める情報は当然異なる。大きな災害の時には、全国の多様な人々に向けて発信するキー局中心の「ニュース/報道」番組ではなく、被災地では地元の視聴者に向けて情報を発信するローカル局による「ニュース/報道」番組がほしいと強く感じる毎日だった。
阪神・淡路大震災の「がんばろう神戸」が始まりかもしれないが、大きな災害の後、テレビやラジオではキャッチフレーズ、キャンペーンのように「がんばろう日本」「心は一つ」などと言うことが通例になっている。東日本大震災でも「がんばろう東北」「がんばろう宮城」といった言葉が使われていた。だが、被害の大きさに途方に暮れながらも少しでも復旧しようと懸命に生きている被災地の人間に、そうしたキャッチフレーズはさほど響いていなかったはずである。少なくとも、筆者には響かなかった。一体何をがんばればいいのか。むしろ、それらの言葉はうつろに響き、いらだちを増幅させることすらあった。
ただし、「頑張ろう」や「心は一つ」は、被災地外の人々には訴求力があり、多くの支援を集める原動力になったことも事実である。支援物資が次々に集まる様子を見ながら、ジャーナリズムを担うキー局が持つ力の大きさをまざまざと痛感させられていた。一方で、報道された被災地と報道されなかった被災地が生まれ、それは支援の差になって表れ、被災者間を分断してしまうことにもなった。ジャーナリズムとして視聴者に訴求する取材対象を選んだ結果だろうが、報道が及ぼす影響を考えた時に、取材地の選択は今後の課題の一つとなろう。
被災した状況に応じて言葉の響き方は違い、時間の経過とともに響いてくる言葉も違うことも、被災生活の中で強く感じたことである。被災者のそうした心情に対する想像は、取材や報道の中でどれぐらいなされていただろうか。被災者に、薄っぺらで上滑りした言葉だと感じられているかもしれないという恐れを抱くことはあっただろうか。善意の押しつけになってはいないか、発信する言葉に不安を感じることはなかっただろうか。こうした不安や恐れを抱く感性は、言葉を伝える放送にとって、とても大事な問題ではないだろうか。
ローカル局の中でも、東日本大震災報道のキャンペーンで「がんばろう」という言葉を使っていない局があったことが印象的だった。仙台放送は、被災者と共に歩んでいこうとする局の意思を、「共に」という言葉に托そうとしていることが、被災地に住む一視聴者である筆者の心には強く響いた。被災地のローカル局や新聞社は、被災地の住民として被災者と苦労を共にし、犠牲になった人々が身近にいるからこそ想像できる心情や必要な情報を発信することができるのではないだろうか。
被災地に寄り添う報道とはどのような報道なのか、考えさせられる出来事が『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(2011年10月、河北新報社)に書かれている。村井嘉浩宮城県知事は発災から2日後、宮城県内の死者数が「万人単位になる」という認識を県の災害対策本部の会議で示した。多くのメディアが「死者1万人以上」を見出しに使う中で、地元の河北新報では、「犠牲『万単位に』」と、「死者」を「犠牲者」と いう表現に変えて報道した。身近にいる同胞たちが希望と絶望の狭間で葛藤している中で、「死者」という言葉を被災地の読者が受け止めることができるか思いをはせた中での決断だった。身近な人々で行方不明者が多数いる中で、わずかな希望も捨てずに懸命に前を向き、諦めずに探し続けようとしている人々に、「死者」という言葉はあまりにも残酷ではないかと考えたのである。
(㊦に続く)