東海テレビによるドキュメンタリー映画「東海テレビドキュメンタリー劇場」は現在、第15弾の『その鼓動に耳をあてよ』が公開中です。2011年2月公開の『平成ジレンマ』から14年にわたり同社でこの取り組みを推進してきたプロデューサー・阿武野勝彦さんが24年1月末で同社を退職されました。この機に、テレビメディア、報道、ドキュメンタリー、表現のあり方について映画監督・作家の森達也さんと語り合っていただきました。(編集広報部)
テレビの成熟とテレビへの眼差し
森 阿武野さんが入った頃のテレビ界には、視聴率という言葉がなかったと本で読みました。その頃、東海テレビでは視聴率を指標として重視する考え方が存在していなかったということですか。
阿武野 そうですね、僕は1981年に入社してその年に報道局のアナウンス班に配属されました。当時、東海テレビの報道局で視聴率という言葉が交わされることは皆無でしたね。「視聴率はどれくらいだった?」という程度の会話ですら、入社後10年ぐらいはなかったと思います。報道局に力があった時代で、何が放送できているかが最大の関心事で、営業が踏み込んできたり、経営の論理に振り回されることがなかったのだと思います。ところで、森さんは、日本のテレビにジャーナリズムが息づいていると思いますか。
森 そもそもジャーナリズムとは何かという定義は必要ですけど、少なくとも権力を監視する、弱者の声を届ける、この2つを満たしていた時期はあったと思います。もちろん局、番組、あるいは人によって全部違うので、そういう意味においてはそういった番組は時折あるし、全くゼロになったときはもちろんないけれど、70年代に比べると量的には減ったのかなという気がします。
阿武野 それは、どうしてだと思いますか。
森 テレビが「優良企業」になってしまったからです。
阿武野 なるほど、僕は「私企業化」したと思っています。放送は極めて公共性が高い仕事ですが、それ以上にメディアは公を担うものであるという意識を誰もが持っていました。しかし、リーマンショック、インターネットの台頭など経営環境が揺さぶられるたびに、お金の論理が跋扈して、公共という衣を簡単に脱ぎ捨ててしまう。それを「私企業化」と捉えています。かつては放送外収入、いまは新規事業などと経営者が号令をかけて、放送の本分を危うくしている気がして仕方がありません。
森 僕が言った「優良企業」は、ちょっとシニカルな意味を含んでいます。企業として成熟したから、市場原理を最優先するようになってしまった。それは私企業化と言えるわけで、その結果としてパブリックサーバント的な意識もどんどんはげ落ちて、利益優先のほうに向かってしまった。しかもこの20年のネットの伸長でテレビの地位がどんどん下がり、競争原理ばかりが突出しているのが今の日本のテレビだと思います。
阿武野 入社当時は、取材相手や地域の人たちからテレビへの熱い期待を実感できました。それが、お前のところはろくでもない会社じゃないか、というふうに価値の天秤がひっくり返ってしまった。この激変が自分の中でうまく消化できないまま、退職したという感じです。
森 それこそ災害が起きたときに、恐らく40年前であれば、ロケ車が来た段階で早く撮ってくれ、早くこれを伝えてくれという声が多かったはずだけど、今は邪魔者扱いですから、そういう意味では反転してますよね。視聴者側のテレビに対する眼差しがこれだけ劇的に変化してしまった原因は何でしょうか。
阿武野 一つ一つの積み重ねなんでしょうね。丁寧にきちんと取材をして、放送することを繰り返すしか方法はないと思います。日々の一本一本のニュースについて、今も一生懸命やっているはずなんですけども、社会とテレビの間のコミュニケーションに齟齬が起きている。テレビ画面からお金が透けて見えちゃってるんでしょうかねぇ......。
<阿武野勝彦氏>
なぜドキュメンタリーなのか
阿武野 僕は入社5年目からアナウンサーをしながら記者の仕事を始めたんですが、自分が取材したものをすぐに放送するのが怖くて仕方がなかったんです。これでいいのだろうか......と。それで、瞬発力が必要なニュースは不向きだと方向転換しました。森さんは、どうしてドキュメンタリーの世界に入ったのでしょうか。
森 勘違いなんです。大学を出てからしばらくブラブラしていて、28歳で初めて就職しました。学生時代に8㎜映画をつくったりしていたので映像関係がいいと思いました。テレビドラマをつくれると思ってテレコム・ジャパンのディレクターに応募し、合格しました。入ってから「うちはドキュメンタリーだけでドラマはやってない」と言われたけど、今さら辞められないと思ってやってみたら面白かった。それがドキュメンタリーとの最初の出会いです。
当時、バブルの余韻がまだ続いている時代で、情報系ドキュメンタリーという言い方をしていましたけど、タレントのグルメ旅みたいな番組の撮影で海外に行ったんです。香港の九龍城砦が壊される直前の頃で、コーディネーターから九龍城砦に入らないよう言われていたのに、その周辺での撮影中に女性タレントが中に入ってしまった。放っておくわけにはいかないので、ディレクターの命令で、半べそかきながら中に入ってみたら、そこには人々の生活がありました。保育園があったり、歯科医院があったり、おばちゃんたちが麻雀をやっていたり。観光客どころか地元の人さえ忌避するエリアなのに、中に入れば普通の生活がある。この体験は、ドキュメンタリーを撮っていたからできたと気づいた。つまりドキュメンタリーを撮る面白さじゃなくて、ドキュメンタリーを撮ることでいろいろな体験ができるところから入りました。
阿武野 ドキュメンタリーに関心を持ち始めた頃、東海テレビにはドキュメンタリーに燃えているスタッフがいて、家庭用ビデオに録画したレアものを持っていて、それを仲間内で回していました。RKB毎日放送の木村栄文さんをはじめ膨大な作品を見ました。先輩たちと飲み屋で感想を話したりするうちにドキュメンタリースタッフになっていました。
その頃、東海テレビは「ドキュメンタリーの東海テレビ」を謳っていて、こつこつ、ゆっくり、なおかつ、人知れずこそこそ作れる環境がありました。これならば毎日取材したものをその日のうちに出さずに映像を解釈する時間が持てます。その時間が自分にとっては大事で、100時間、200時間と撮影した素材を繰り返しプレビューしながら、映像を解釈しながら番組化していくことが可能でした。局内にある過去の番組は編集機が空いてるときに全部見ましたね。
森 僕は、ドキュメンタリーそのものが面白いとは、当初は思いませんでした。ADは、編集中はディレクターの後ろにずっと付かされて「盗め」と言われましたが、何を盗めばいいか分からない。しかも、28歳のADだと使いづらいわけです。だから、居場所がないような状態が続いて、辞めてフリーになりました。
阿武野 僕は、ずっとテレビ局員として生きてきたので、ドキュメンタリーだけをやれるわけではありませんでした。並行して自治体の広報番組などを担当していました。ただ、先輩の中には理解のある人がいて「広報は俺がやっておくから、お前はドキュメンタリーを全力でやれ」と言ってくれる人もいました。ただ、僕はADの経験がないまま、アナウンサーからディレクターになりました。だから、スタッフワークから取材まで、ドキュメンタリーディレクターの作法が分からず右往左往でした。今にして思えば、誰かを手本にできなかったことで、自分流でやれたのかもしれないですね。
森 テレビ局の1つのアドバンテージとして、素材や映像のライブラリーの存在があると思いますけど、今のお話を聞くと先輩たちも大きな糧ですよね。もしかしたら、今のテレビは先輩たちが後継を育てる風土みたいなものが、昔とは違うのかもしれないですね。
阿武野 いまのテレビ局の教育システムは、危機的だと思います。全国各地のドキュメンタリー仲間と話をすると、みんなひどく孤立しています。全国に名前を知られる制作者が、苦しい思いの中にいて、次世代にバトンを渡すどころか、本人が心を病んで休んでるという話を聞いたりします。制作環境は、確実に悪くなっています。人はそう簡単に育たないということを経営者が知らなさすぎますね。かつては「日本民間放送連盟賞(民放連賞)を取りなさい」と経営者の期待と強いプレッシャーがあり、賞を取ると随分褒めてくれましたが、いまは、長くても1カ月程度で忘却です。ローカル局が素晴らしいドキュメンタリーをつくって社会に問い、それが賞という形となり局のステータスになる、そして次作に向けて、人材と制作費を整えるという図式は失くなってしまった。いまの民放連賞や民放連賞グランプリのままでいいのか、いいものをつくりつづける、持続可能な仕組みを民放連も考えてほしいですね。
テレビドキュメンタリー映画の事業性とは
森 常々思っているのですが、テレビ局でドキュメンタリーは無理ではないでしょうか。というのは、一つは、視聴率が取れないし制作費がかかる。ということは、テレビが企業として成熟すればするほど、効率も悪くてリスクも大きく、しかも商品としても会社に貢献しないものなら切り捨てることになる。そういう意味ではドキュメンタリーがテレビの中で存在意義を失っていくのは当たり前ではないかなと。
もう一つはドキュメンタリーは、誰かの日常に入り込むわけですから表現として野蛮です。だから、コンプライアンスとか、リスクヘッジとか、ガバナンスといったことを強く気にかけるようになった今、ドキュメンタリーはほぼ牙を抜かれてしまう。結局、毒にも薬にもならないような作品しか残らなくなってしまうと時折考えます。特に僕自身が90年代にオウム真理教の信者を撮ろうとして、テレビからパージされて自主映画にせざるを得なかったところから始まっているので強く感じていますが、そのあたりはどうですか。
阿武野 僕も森さんの言うドキュメンタリーの三重苦の中にいて、全国ネットにならないものをつくってきました。地域の人たちが見てくれればいいと思いながら、より多くの人に見てもらう仕組みはないものかと。インターネット時代が本格化する前でしたが、むしろオールドメディアの映画にすることで何かが起こせるのではないかと考えました。多少お金はかかるかもしれないけれど、「ドキュメンタリーはもうからない」という決めつけをひっくり返したい。あくまでもうけるためではなく、たくさんの人が見れば結果としてもうかるのが映画ですから、いろいろ考えました。
それが1作目の『平成ジレンマ』(2011年2月公開)となりました。東日本大震災と上映が重なり、いいスタートは切れませんでしたけれど、15作品まできた今、『東海テレビドキュメンタリー劇場』は、2億円を超える純益が出ています。ドキュメンタリーが決してもうからないわけではない時代がやってきた。作品の力と出し方なんです。だけど、経営者の頭の中は依然としてドキュメンタリーは三重苦のままで、民放連賞など顕彰制度がなければ、ドキュメンタリーなど不要だと思っている経営者はたくさんいると思いますよ。
森 ドキュメンタリーは決してもうからないわけではないと言っても、あくまでも映画という戦術があってのことかもしれません。テレビだけで、しかもローカル局でも成り立つと思いますか。例えば、『人生フルーツ』(2017年1月公開)は映画として大ヒットですよね。一方で、テレビで放送したときに、どれほどの数字を取れたのかというあたりはどうですか。
阿武野 確かに、テレビ単体で終わってしまえば、真っ赤っ赤の赤字ですね。しかし、テレビには良い番組が必要なんです。良い番組を作って、それをどうするかだと思います。『人生フルーツ』は、映画館の観客動員28万人、その後に衛星放送に販売し、多くの人に見てもらう。そして自主上映へと回していく。『人生フルーツ』の上映会は800カ所を超えています。そういう形で『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(2013年2月公開)、『チョコレートな人々』(2023年1月公開)なども、全国を回り続けています。映画を求める人たちに届けるシステムができて、なおかつ収入が得られるようになったのは、映画化したことの副産物です。
DVD化や動画配信サイトに出す話もありましたが、そういう形は考えませんでした。それは、僕たちの映画はミニシアターで育ててもらったからです。ミニシアターに行かないと観られない映画としてささやかながら恩返ししたい気持ちがあるからです。ただ、世界に出していく仕組みが整うならば、動画配信サイトも考えられますね。
森 ミニシアターに恩を返すという姿勢は一貫していますよね。はたから見ていると意固地にも映ります。
阿武野 意味のないことかもしれませんが、人と同じことをしていては駄目だと思うんです。
<森達也氏>
テレビとドキュメンタリーの未来は......
森 僕はオウム真理教の信者たちを描いた映画『A』を1998年に公開しました。『キネマ旬報』で批評家や映像関係者たちの寸評を読んだら、かなりの数の人が「これは映画じゃない」と書いていたんです。つまり98年の時点では「映画はフィルムであってビデオで撮るものじゃない。ましてやビデオをスクリーンで上映するなんてあってはならない」と言う人がものすごく多かった。今は基本的に全てビデオになっていますけどね。ビデオに対する蔑視的な部分は、テレビに対する蔑視的な姿勢と重なるところがあります。どうしてテレビ屋がスクリーンにくるんだといった反発がきっとあったと思います。
阿武野 そうですね。映画人の反発は根深いものがありましたね。映画芸術と言うけれどもテレビ芸術とは言わないわけで、テレビはやむを得ず放送文化という言葉をつくって対抗(笑)。でも、テレビドキュメンタリーは発展してきたと思いますけどね、すごく。
森 それは阿武野さんの力が大きい。それは間違いないです。
阿武野 ローカル局から面白いものが次々に出てくるようになりましたね。制作者がまなじりを決して勝負している作品がありますよね。そういうのを見るとうれしくなります。ああ、やってきてよかった、これを見られてよかった、作った人に会って話してみたい、と。
森 そうですね。東海テレビの作品もそうですけど、最近でいえばNHKの取材による映画『正義の行方』(2024年4月27日公開予定)を見ると、テレビ出身であることを自慢したくなりますね。「テレビ、すごいだろう」と言いたくなる。
阿武野 ただ、お客さんはまだまだ劇的には増えないですね。ドキュメンタリーが本当に市民権を得るまでには時間がかかるのかもしれません。
森 ドキュメンタリーを見てくれる人は高齢層でしょう。ということは将来的には人数が減っていくわけで、その点ではドキュメンタリーの未来は明るくないですね。
阿武野 変化の兆しはありますよ。例えば『人生フルーツ』『チョコレートな人々』『さよならテレビ』(2020年1月公開)、『ヤクザと憲法』(2016年1月公開)は若い観客が多かったです。作品数は少なくてもいいから何作もつづけていくうちに、ファンを増やしていければと思っていました。ただ、作品は視聴者、観客に迎合せず、不親切と言われても、つくりたいようにつくる。今のテレビと違って、かゆいところをかいてあげないと言ってもいいかもしれません。
森 視聴者はかゆいところをかいてもらうどころか、いろんなところを全部かきむしってもらうような表現に慣れすぎてしまっている気がします。空白は大事じゃないですか。空白があるから見る側は前のめりになるし想像をかき立てられる。テレビはそれをさせなくなって、とにかく全部説明する、テロップをつける。過剰なほどにそれをやってしまったのは、分かりやすさをファーストプライオリティに置いてしまったせいで、大きく間違えた気がします。
阿武野 分かりやすさを推し進めると、人間の想像力を奪うことになりますね。テレビの中にいながらもテレビのそういう流れとは違うものを求めていました。多様な表現があったほうがいいと思っていたので、少なくとも僕たちのドキュメンタリーでは字幕は極力入れないとか、説明はしないという考えでやってきました。それが「東海テレビのドキュメンタリーだから、そういうつくり方なんだね」と思ってくれる人たちがいるところまでたどり着きました。10年、15年とつづけているうちに位置づけをしてもらえる、と希望を持ちました。
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森 退職されて、これからどうするんですか。
阿武野 岐阜県加茂郡東白川村に住所を移しました。戦後50年の年に放送した『村と戦争』(1995年3月放送)というドキュメンタリーを撮った場所です。その後も、村の平和祈念館の活動を取材してきました。今年6月には東白川中学校に広島の原爆朗読ボランティアに来てもらい戦争と平和を考えるイベントを開き、戦後80年の来年には、『村と戦争』の上映とトークイベントや平和祈念館に収められている戦争遺品に関連する朗読会も村の朗読サークルと開催したいと思っています。あとは、山の家で日本ミツバチを飼うとか、炭焼きをするとか、どこまでできるか分かりませんが、立派な村人になれたらいいですね。
放送や映像に関わる仕事は、自分から積極的にこれをやろうと思えるまでは、声をかけられたらお手伝いするぐらいの姿勢でいようと思っています。
森 東海テレビの作品が今後、映画化されるときには、阿武野さんがゼネラルプロデューサーみたいなポジションに就くのかと思いましたが、そういう考えは今のところないですか。
阿武野 今、3作品ぐらいが映画化の準備段階で、それについては言い置いてきましたので、あとは残ったメンバーがしっかりつないでくれると思っています。
(2024年3月13日 民放連会議室にて収録/取材・構成=「民放online」編集担当・矢後政典)
『オフィス むらびと』代表(元東海テレビ放送・プロデューサー)
阿武野勝彦(あぶの・かつひこ)
1959年静岡県生まれ。81年同志社大学卒、東海テレビ放送入社。アナウンサーを経てドキュメンタリー制作に。ディレクターとして『村と戦争』『約束~日本一のダムが奪うもの~』など。プロデュース作品に『とうちゃんはエジソン』(ギャラクシー大賞)、『光と影~光市母子殺害事件 弁護団の300日』(民放連賞最優秀)など。『平成ジレンマ』『死刑弁護人』などのドキュメンタリー映画をプロデュース。放送人グランプリ、日本記者クラブ賞、芸術選奨文部科学大臣賞、放送文化基金賞を受賞したほか、東海テレビドキュメンタリー劇場として菊池寛賞を受賞。著書に『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』。
映画監督・作家
森 達也(もり・たつや)
1956年生まれ。98年にオウム真理教を題材にしたドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。2016年『FAKE』、19年『i-新聞記者ドキュメント-』、最新作『福田村事件』が第47回日本アカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞で優秀賞に。著書に『放送禁止歌』『A3』『チャンキ』『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』『FAKEな日本』『千代田区一番一号のラビリンス』『増補版 悪役レスラーは笑う』『集団に流されず個人として生きるには』『COVID-19--僕がコロナ禍で考えたこと』など多数。