テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社の発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。今回は、3回連続でテレビバラエティの歴史を振り返る1回目です。
〔注〕放送局名と人名を併記している方 は、いずれも当時在籍していた局名です。
【はじめに】バラエティ番組とはなにか
~笑い、企画、そして時代
これから、テレビ70年の歴史におけるバラエティ番組の変遷を振り返りたい。
バラエティは、ドラマや報道など他のジャンルと比べても飛び抜けて多岐にわたる印象がある。「○○バラエティ」と銘打った番組は多いが、その「○○」に入る言葉は実に多様だ。その作風も報道に近いものもあれば、ドラマに近いものもある。逆に言えば、「バラエティ」という言葉が指す範囲はきわめて広く、そのことがバラエティのわかりにくさにつながっている部分は否めない。そこで本論に入る前に、「バラエティ番組とはなにか」という点について簡単に整理しておくことにする。
まず、バラエティ番組とは「笑いを基本にした娯楽を提供する番組」と言えるだろう。娯楽を提供するものとしてはほかにドラマや音楽番組もある。そのなかで、バラエティ番組を特徴づけるものは、やはり笑いだ。それゆえ、演者の中心はお笑い芸人やコメディアンということになる。
ただ、芸人やコメディアンのネタを楽しむだけがバラエティ番組ではないのも確かだ。長い歴史を持ち今もバラエティの定番の「どっきり」などでも典型的なように、スタッフが考案した仕掛けによって生み出される笑いを楽しむのもまたバラエティ番組の大きな魅力だ。バラエティにとって大切なのは企画力と言ってもいい。そういうわけで、この後見ていくバラエティ番組の歴史においても「ネタ」と「企画」という要素が二つの軸となる。
もうひとつ、バラエティ番組の特徴として、日常生活に密着した番組ジャンルであるということも忘れてはならない。笑い自体、私たちが日々の暮らしのなかで自らも当事者となるものであり、その点フィクションや演技の面白さを味わうドラマとはかなり異なる。また非日常の楽しさを享受する映画に対してテレビが本質的に日常的なメディアであることを思い起こせば、バラエティ番組はきわめてテレビ的な番組ジャンルでもある。
そして笑いが日常生活に密着したものである分、そこには社会の動きが敏感に反映される。毒舌トークやパロディなどは、そうした笑いの代表だ。むろん、バラエティ番組の企画面にも世相は敏感に反映される。実際、時代の流れをいち早くとらえた企画によって人気番組になった例は少なくない。
では、以上の点を念頭に置きながら、バラエティ番組の歴史をたどり直してみることにしよう。
1.音楽バラエティの時代
~『夢であいましょう』と『シャボン玉ホリデー』
◆バラエティ・ショーから始まった日本のバラエティ番組~『光子の窓』
日本におけるバラエティ番組の源流は、アメリカ流の洗練されたバラエティ・ショー、すなわち歌や踊り、曲芸、コントなどを巧みに組み合わせたショー形式の番組にあった。
その土台を築いたのが、日本テレビの井原高忠である。元々ミュージシャンでもあった井原は自らアメリカまで視察旅行に赴き、番組全体の構成の仕方やセットの組み方などそこで得た具体的なノウハウを自らが演出する音楽バラエティ『光子の窓』(58年~、日本テレビ)にいち早く取り入れた。
ほかにも井原は、先駆的なバラエティ番組の制作に携わっている。69年に始まった『巨泉×前武 ゲバゲバ90分!』もそのひとつ。これもアメリカの番組を手本にしたもので、短いショートコントを矢継ぎ早につないでいく手法は今も斬新なものとして語り継がれる。また純粋なバラエティとは異なるが、大型チャリティ特番『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の第1回(78年)の総指揮にあたったのも井原である。
そんな井原高忠が築き上げたものを基盤に、1960年代、日本の音楽バラエティは開花する。高度経済成長期に入り、テレビが国民的娯楽の座につこうとしている時代だった。それを代表したのが、ともに61年に始まった『夢であいましょう』(NHK)と『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)である。
◆『夢であいましょう』と『シャボン玉ホリデー』
実際、そこには『光子の窓』の制作に加わっていたスタッフが中心的な役割を果たしていた。『夢であいましょう』で作・構成を担当した放送作家・永六輔は、そのひとり。毎回「発明発見」「落語」のようにテーマを決め、それにまつわるコント、歌や踊り、トークなどがテンポよく展開される。出演者であった黒柳徹子や渥美清などがこの番組からスターになっていった。
永六輔は、この番組で作詞家としても大きく飛躍する。すでに『黒い花びら』などの作詞で有名になっていた永は、番組内のコーナーである「今月のうた」に作曲家・中村八大とのコンビで坂本九『上を向いて歩こう』、梓みちよ『こんにちは赤ちゃん』などを提供。それらが記録的なヒットになった。
『夢であいましょう』が歌や踊り、笑いをバランスよく組み合わせる王道路線のバラエティであったとすれば、同じ音楽バラエティでも笑いの比重が高かったのが『シャボン玉ホリデー』である。この番組を立ち上げた一人が、『光子の窓』でアシスタントディレクターを務めていた日本テレビの秋元近史であった。
そして、そうした笑い重視路線の中心を担ったのが、放送作家の青島幸男である。『おとなの漫画』(59年~、フジテレビ)ですでにクレージー・キャッツとタッグを組んで実績をあげていた青島はこの番組でもコント作家として筆をふるい、そこから植木等の「お呼びでない」や谷啓の「ガチョーン」など数々の流行ギャグが生まれた。
また青島は、自らも出演。「青島だァ」というフレーズで一躍タレントとしても頭角を現した。さらに作詞家として植木等の『スーダラ節』などを大ヒットさせるなど、永六輔と同様、放送作家出身のタレントとして時代の寵児になっていった。
2.視聴者参加と「低俗」批判
~「一億総白痴化」論のなかで
◆視聴者参加と「一億総白痴化」論
一方で、草創期のテレビにおいては別のバラエティ番組の流れが存在していた。それは、視聴者参加型バラエティである。ラジオ番組として始まった『NHKのど自慢』(その前身は46年~)を思い出すまでもなく放送は戦後における民主化の担い手という側面があり、テレビもまた例外ではなかった。とりわけバラエティは、そうした視聴者参加企画を実現しやすいジャンルでもあった。
テレビの黎明期から放送されていた視聴者参加型バラエティとして、『何でもやりまショー』(53年~、日本テレビ)がある。これは視聴者参加によるゲームをメインにしたバラエティで、毎回番組が用意したさまざまなゲームに視聴者が挑み、成功すれば賞金が獲得できるというものだった。
ところが、そうしたゲームのひとつが波紋を呼ぶことになる。それは、「野球の早慶戦の最中に早稲田の応援団のなかに入って慶應の旗を振る」というもの。一種の「どっきり」であり、しかもその様子が試合を中継した他局のカメラにも映ってしまい大きな物議を醸すことになった。この出来事を知った評論家の大宅壮一は、テレビが本来持つ教育的機能を果たさずむしろ逆になっていると痛烈に批判し、テレビによる「一億総白痴化」論を唱えるに至った。
◆バラエティ番組に対する「低俗」批判
これをきっかけに、バラエティ番組への「低俗」批判は高まった。
たとえば、林家三平(先代)の司会による『踊って歌って大合戦』(65年~、日本テレビ)はそのひとつ。これも視聴者参加番組で、参加チームが歌と踊りでいかに会場を盛り上げるかを競い合った。司会の三平も一緒になって、賞金のために参加者たちがわれを忘れ踊り狂う光景が繰り広げられ、それが「低俗」という批判を受けることになった。
こちらは視聴者参加番組ではないが、『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ‼』(69年~、日本テレビ)も、番組の目玉コーナーである野球拳が同じく批判の的になった。この番組は、実は『踊って歌って大合戦』とともに日本テレビの細野邦彦が携わったもの。あえて意図したゲリラ的手法であり、それが高視聴率にもつながったが、一方で世の良識派から批判の矛先を向けられることになったわけである。
最後でも述べるように、バラエティへの「低俗」批判は、現在は「コンプラ」問題へと形を変えて続いていると言えるだろう。そこには、たとえば笑いにおける差別や偏見、あるいは暴力性をめぐる問題など「笑いとはなにか」という本質的な問いかけを伴うがゆえに、簡単に答えが出ないのが現状だ。
3.バラエティ番組における
プロフェッショナルたち
~『笑点』、そして『8時だョ!全員集合』
◆テレビ的寄席番組としての『笑点』
1960年代には、その一方で寄席や舞台のショーをテレビ的に発展させたものに貴重な成果が生まれた。テレビ初期には、実際の寄席や喜劇の舞台を中継する番組が人気でもあったが、やがてその形式を受け継ぎながらうまくテレビ的にアレンジしたお笑い番組が誕生するようになる。
たとえば、『てなもんや三度笠』(62年~、朝日放送〔TBS系〕)でも有名な澤田隆治演出、香川登志緒脚本による『スチャラカ社員』(61年~、朝日放送〔TBS系〕)などはそのひとつ。架空の商事会社を舞台に繰り広げられる公開放送のコメディで、ミヤコ蝶々、中田ダイマル・ラケットなど当時人気の関西芸人やタレントが大挙出演した。
むろん『笑点』(66年~、日本テレビ)も、忘れるわけにはいかない。寄席中継のスタイルを取りつつテレビ独自のお笑い番組として成功し、テレビ史に残る長寿番組となった。番組の代名詞となった大喜利は、まさにその象徴である。大喜利は元々寄席における余興的位置づけの演目にすぎなかったが、『笑点』では初代司会の立川談志の発案でメインに据えることで、大喜利を回答の面白さだけでなくメンバー間の丁々発止の掛け合いを交えたテレビ的な集団芸へと昇華させた。そこには現在のひな壇番組の原型的側面もあり、後に及ぼした影響は大きい。
◆『8時だョ!全員集合』の作り込まれた笑い
そして1960年代末には、ザ・ドリフターズによる『8時だョ!全員集合』(69年、TBSテレビ系、1969年放送開始)がスタートする。こちらは、当時盛んだった劇場などでの歌謡ショーがベースにある。毎週各地の会場からの生放送で、ドリフターズがメインの長編コント、ゲストによる歌、スケッチ風の短めのコントなどを組み合わせたものである。
とりわけ、メインとなる長めのコントは綿密なリハーサルに基づく計算されたギャグやそれと連動する舞台美術セットの大がかり仕掛けなどで毎週視聴者を楽しませ、作り込まれた笑いを見せる代表的なバラエティ番組として1970年代から1980年代前半まで人気を集め続けた。
加藤茶や志村けんのギャグも受け、子どもたちのあいだでたびたび流行した。他愛ないものではあったが下ネタ要素のあるギャグもあり、やはり度々たびたび「低俗」との批判を受けた。それでも視聴率は最高50%を超えるなど飛び抜けて高く、「お化け番組」の異名を取ったほどであった。
この『笑点』や『8時だョ!全員集合』は、テレビバラエティにおけるプロフェッショナルの力を証明したものであったと言える。スタッフと演者がテレビならではの笑いのためにアイデアを練って工夫を凝らし、入念に準備とリハーサルを積み重ねるなかで、バラエティ番組としての高度な達成が実現されたものだった。
だがそこにまったく逆の方向から新しいバラエティの可能性を探ろうとしている人物が現れる。萩本欽一である。
〔第2回につづく〕