テレビバラエティの歴史② 素人とアドリブの笑いの時代~1970年代後半から1980年代まで【テレビ70年企画】

太田 省一
テレビバラエティの歴史② 素人とアドリブの笑いの時代~1970年代後半から1980年代まで【テレビ70年企画】

テレビ放送が日本で産声を上げたのは1953年。2月1日にNHK、8月28日に日本テレビ放送網が本放送を開始しました。それから70年、カラー化やデジタル化などを経て、民放連加盟のテレビ局は地上127社、衛星13社の発展を遂げました。そこで、民放onlineは「テレビ70年」をさまざまな視点からシリーズで考えます。今回は、テレビバラエティの歴史を振り返る2回目です。

〔注〕放送局名と人名を併記している方 は、いずれも当時在籍していた局名です。

1回目はこちらから。


1.萩本欽一によるバラエティの"革命"と
関西発バラエティ番組の人気

◆素人の起用で画期的成功を収めた萩本欽一
「欽ちゃん」こと萩本欽一は、坂上二郎と組んだ「コント55号」で1960年代中盤から1970年代前半にかけて一世を風靡した。そのコントは、萩本が一瞬テレビの画面からはみ出して見えなくなったかと思うと坂上に飛び蹴りを食らわせるといった激しい動き、萩本の鋭いツッコミに追い込まれた末に坂上が見せる土壇場でのボケの面白さなど、従来にない新鮮な魅力を持つものとして視聴者に支持された。それは、ともに浅草での修業を通じて身につけたプロの熟練の技に裏付づけられたものだった。

ところが、やがて1人で司会の仕事をするようになった萩本は、テレビにおける素人のパワーに圧倒される。狙ったものではない素人のごく自然な発言や振る舞いが爆笑を生む場面にたびたび遭遇し、テレビにおいてはプロの芸人よりも素人のほうが爆発的な力を発揮することを実感したのである。

そこから萩本は、自身の企画するバラエティ番組に素人、あるいは歌手の前川清のように芸能人であっても笑いにおいては素人に近い存在を自分の相手役として積極的に起用するようになる。その際萩本は、細かい指示を次々に出したりすることでそうした素人やタレントの素の面白さを巧みに引き出した。『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(1975年~、フジテレビ)、『欽ちゃんのどこまでやるの!』(76年~、テレビ朝日)、『欽ちゃんの週刊欽(※○に欽)曜日』(82年~、TBS)といった番組が軒並み高視聴率を獲得。萩本は、「視聴率100%男」と呼ばれるようになった。

◆関西発視聴者参加バラエティの人気
こうした"素人の笑い"の流れは、全国的人気を博した関西発の視聴者参加バラエティ番組でも顕著だった。

素人同士の公開見合いバラエティ『パンチDEデート』(73年~、関西テレビ〔フジテレビ系〕)、男女大学生による公開合コン「フィーリングカップル5vs5」が人気だった『プロポーズ大作戦』(73年~、朝日放送〔テレビ朝日系〕)、一般の大学生がゲームやアピール合戦を通じて「かぐや姫」と呼ばれる1人の女性の心を射止めようとする『ラブアタック!』(75年~、朝日放送〔テレビ朝日系〕)などが、70年代から80年代にかけて関西ローカルから全国放送になり、評判を呼ぶようになる。

こうした番組は、司会の桂三枝(現・桂文枝)や横山やすし・西川きよし、上岡龍太郎など関西の人気芸人のアシストを受けながら、一般の若者が番組の主役となった点で共通していた。そして同時に、ボケとツッコミを基本とする関西の笑いが全国に広まるひとつの契機になったことも記憶しておくべきだろう。

2.漫才ブームという歴史的分岐点と
その後~「フジテレビの時代」

◆テレビを席巻した漫才ブーム
そうしたなかで、お笑いの世界の内側でもひとつの"革命"が起こった。80年代初頭に巻き起こり、社会現象となった漫才ブームである。むろん漫才は関西だけのものではないが、この漫才ブームは、吉本興業に代表される関西の笑いが漫才という大衆芸能を通じて一気にメジャーになった出来事でもあった。

きっかけは、前出の澤田隆治が企画した『花王名人劇場』(79年~、関西テレビ〔フジテレビ系〕)の漫才特集だった。そこから火がついたブームは、瞬く間にテレビ全体を漫才番組で覆い尽くすほどになる。その中心になったのが、B&B、ツービート、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんちなど、まだキャリアの比較的浅い若手コンビだった。彼らは従来の伝統的な漫才とは異なり、スピーディなテンポで本音を次々にぶつける自作のネタで、それまで漫才に関心を持っていなかった若者から圧倒的な支持を受けた。

このブームを象徴する番組としては、そうした若手漫才コンビが集結してネタを披露するフジテレビの特番『THE MANZAI』(80年~)がある。10回以上にわたり放送されて高視聴率をあげた。またブームのなかで頭角を現したツービートのビートたけしや前述の島田紳助などが、ソロタレントとしてもテレビで活躍するようになっていく。

◆「フジテレビの時代」とアドリブの笑い、社会的影響力を強めたお笑い芸人
その裏には、このブームを主導するなかで、「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを掲げてバラエティ路線を突っ走ったフジテレビの存在があった。フジテレビは、82年から12年連続「視聴率三冠王」(ビデオリサーチ調べ)となり、一時代を築くことになる。その原動力となった番組が、フジテレビのプロデューサー・横澤彪が中心となって企画・制作された『オレたちひょうきん族』(81年~)や『森田一義アワー 笑っていいとも!』(82年~)などだった。さらに87年にはこうしたバラエティ路線の集大成とも言える「FNS27時間テレビ』(開始当初は24時間、97年から27時間に)がスタートする。

この時期の笑いの主たるコンセプトは、アドリブの笑いであった。その場の即興的なノリから生まれるハプニングの面白さを重視した笑いである。それは萩本欽一が持ち込んだ"素人の笑い"をさらに突き詰めた側面を持っていた。またその結果、ドリフターズの作り込まれた笑いとの対立構図も生まれることにもなった(『8時だョ!全員集合』と『オレたちひょうきん族』は同じ土曜夜8時台の放送であり、当時「土8戦争」と呼ばれた)。

そしてそうしたアドリブの笑いの中核を担ったタモリ、ビートたけし、明石家さんまは「お笑いビッグ3」と称され、長くバラエティの世界に君臨していくことになる。さらに彼らに続く世代としてとんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンらの「お笑い第三世代」も台頭し、バラエティの隆盛期が築かれることになった。

この時期を語るうえでもうひとつ重要なのは、お笑い芸人がかつてないほど社会的影響力を持つようになったことである。それまでお笑いは低く見られがちな部分があったが、ここで評価は大きく逆転する。お笑い芸人は知的な存在とみなされ、ネタ以外の普段の言動にも注目が集まり、若者から尊敬を集めるようになった。たとえばビートたけしなどは、本業以外にもコメンテーターや文筆業、さらには俳優、映画監督など活躍の場をマルチに広げていくようになる。

3.テレビバラエティが現実と交わるとき
~テリー伊藤という演出家

◆『天才・たけしの元気が出るテレビ‼』のバラエティ史的意味
そして同じ頃、お笑い芸人だけでなく、バラエティ番組そのものもまた一種の社会的影響力を発揮するようになっていく。テレビバラエティが自ら立てた企画を推進力にして世の中を巻き込み、現実を動かすような流れが生まれてくるのである。

『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(85年~、日本テレビ)はそうした時代の扉を開けたパイオニア的番組と言っていいだろう。たとえば、寂れた商店街からの依頼を受けて客足を取り戻すためにさまざまなイベントを仕掛け、その一部始終を番組で伝える。現在のバラエティ番組でもよく見るタイプの企画だが、その嚆矢となったのがこの番組だった。

またヘビメタ(ヘビーメタル)軍団やパンチパーマ軍団などをフィーチャーした企画、現在の若者のダンスブームを先取りしたとも言える「高校生制服対抗ダンス甲子園」など、素人が主役の人気企画も多かった。それらは、素人にありのままの個性を自由に発揮させ、そこに面白さを発見するという点で、萩本欽一の時代よりも一歩進んだかたちでの"素人の笑い"があった。それもまた、ここではバラエティ番組が現実と交わるひとつの表現だった。

◆テリー伊藤の過激な演出、その時代背景
そこにおいて、番組の総合演出であるテリー伊藤(当時は伊藤輝夫)が果たした役割は小さくない。70年代にテレビ業界に入った伊藤は、「シマウマの地肌は本当に白黒なのか?」「バカが売りのたこ八郎に東大生の血を輸血したら頭がよくなるか?」といった過激な企画を次々に打ち出し、注目されるようになっていた。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に至って、その企画力が時代とシンクロしたのである。

以来、テリー伊藤は、バラエティ史に残るヒット作を次々に生み出すことになる。それらは、とんねるずと組み、「ねるとん」という言葉を広めた集団お見合いバラエティ『ねるとん紅鯨団』(87年~、関西テレビ〔フジテレビ系〕)、一般女性が整形したことをカミングアウトする「整形シンデレラ」、中華料理人の周富徳と金萬福を人気者にした「中華大戦争」といった人気コーナーを擁した『浅草橋ヤング洋品店』(92年~、テレビ東京)など、やはり過激さと素人性を融合させた番組であった。

漫才ブームなどにも当てはまることだが、こうした番組が人気になった背景には、高度経済成長期を経た日本社会の豊かさがひとつのピークに達したことがあるだろう。とりわけ80年代後半になると、バブル景気もあって"遊び志向"がますます高まってなんでも遊びの対象にするようになり、その流れを反映してバラエティ番組もより過激になったと言える。

第3回につづく〕

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