このような賞をいただき、うれしい気持ちでいっぱいです。何よりも青森県だけでなく、全国の人に聴いて、考えていただける機会を得たことは感謝の言葉もありません。宇佐美翔子さんと岡田実穂さんが願う、性的少数者が暮らしやすい社会になればと思います。
「パートナーシップ制度が使えるところに生きる人は使える、それがないところの人には制限がある。私たち、この日本に生きるものとして平等な権利が得られているとは思えない状況だと思っています。青森は田舎に行くと山間部で交通も大変だということもあります。なので、全国どこでも隅々まで行きわたる、そうした保障が必要です。これは命にかかわる話です。どうか急いで決めてください、私が死ぬ前に。どうか頼みます。」
これは翔子さんが願ったことの一つ。宇佐美翔子という人は、誰一人取り残さないという理想を体現し続けた人です。このような人が青森にいたことを、多くの人に知ってほしいと思い、番組を制作しました。
私が性的少数者やDV被害者、生活が苦しいなどさまざまな悩みを抱える人の相談に乗るカフェの存在を知ったのは2016年でした。最初は興味本位でお店を訪ねました。取材者として何か面白い話が聞けるのではないかと下心があったのは否定できません。
母が亡くなり、パートナーの実穂さんと27年ぶりに青森に戻ってきたこと。このお店「Osora ni Niji wo Kake Mashita(お空に虹をかけました)」は、自らが追われた故郷に性的少数者が安心して集える居場所を作りたいと開いたこと。そういった話を、翔子さんは丁寧に聞かせてくれました。
<宇佐美翔子さん㊧、岡田実穂さん>
14年、東北で初めて性的少数者が誇りを持って街を歩くことで、その存在を目に見えるものに変えていく「青森レインボーパレード」が実施されました。青森を"帰れる街"にしようと、たった3人でレインボーフラッグを持って青森駅前の商店街をパレード。私はラジオのワイド番組で16年からパレードの取材を行ってきました。
東京とは違い、青森のような地方では身元がバレるので、参加したくてもできないという声を多く聞きました。そんな中、ラジオは音声だけなので、カメラを向けるよりも取材しやすい利点があり、翔子さんと実穂さんの協力で毎年パレードを紹介してきました。パレードの取材以外でも、お店にはたびたび顔を出していました。それは、翔子さんや実穂さんと話をする時間が心地良かったからです。
18年のパレードで、翔子さんはがんを患い、闘病生活に入っていることを公表。病院で「緊急時にパートナーに連絡が行かないかもよ。それが嫌なら違う病院に行けば?」と言われたことを訴えました。21年9月30日、青森県でのパートナーシップ制度の実現に向けて県知事に要望書の提出を準備していましたが、彼女はそのパートナーシップ制度の実現を目にすることなく旅立ちました。
翔子さんが亡くなり、追悼の気持ちを込めて、これまでの活動をまとめようと、構成編集を担当した山本鷹賀春ディレクターと、翔子さんが願っていたことは何だったのか? 宇佐美翔子とは何者だったのか? ......何度もミーティングを重ねました。
山本ディレクターから「LGBTQ」という言葉を使わない番組を制作しようという提案がありました。その言葉から、これまで自分がラジオの生ワイドの中で放送してきたのは、パレードで訴え続ける"強い"宇佐美翔子だけだったことを認識しました。それは翔子さんの一面であり、亡くなったあとに見えてきたのは実穂さんとの普通の生活です。これまで、自分は翔子さんの強い部分しか放送してこなかったことに気づかされました。
自分が接してきた、カフェで実穂さんと楽しそうに話をしていた翔子さんは、どちらかといえば、のんびりしたところもある人でした。今回の番組制作を通じて、活動している人の一面だけでなく、普段の姿を伝えることの大切さもあらためて感じました。この経験を活かし、これからも、青森に生きる人々を伝え続けたいと思います。