2022年民放連賞 テレビグランプリ受賞のことば 山形放送 『三つめの庄内~余計者たちの夢の国~』

三浦 重行
2022年民放連賞 テレビグランプリ受賞のことば 山形放送 『三つめの庄内~余計者たちの夢の国~』

この番組で最初に取材したのは、2017年3月に山形県鶴岡市の善宝寺で営まれた満州開拓親子地蔵尊の70年法要でした。開拓関係の碑というと、「拓魂」とか勇ましい感じのものを多く目にしますが、地蔵さまから伝わってきたのは煎じ詰めたような悲しみです。建てられたのは敗戦の2年後。食うや食わずの暮らしの中で、生き残った人たちも自ら浄財を出し合いました。山形県の庄内地方一円からの初めての満州開拓団となった「三股流庄内郷開拓団」。法要にはゆかりの人たちが参列していました。

開拓団の生還者の一人・佐藤末子さんは「伝えたいことはいっぱいあるけど、話したくない」と語りました。同じく、村井とよみさんは「満州では死ぬのが当たり前。母が死んでも涙も出なかった」「皆さんに分からせようとしても分からない問題。みんな口をつぐんだ」と話します。

開拓団の人たちから名簿を借りて、まとまった人たちが住む青森県六ヶ所村と北海道豊富町に「取材をさせてほしい」と、17年の夏前に手紙を書きました。電話よりこちらの思いが伝えられるのではないかと思ったのです。返事は一通もありませんでした。もう触れられたくないのかもしれない......。そんな不安を抱えながら、私たちは8月に六ヶ所村に向かいました。最初に出会ったのが佐藤政美さん。少年時代を満州で過ごし、農協の組合長も務めた政美さんは地区の顔役の一人で、私たちを地区の集会所に案内してくれました。そこで出会ったのが、ヒゲの団長・佐藤繁作さんと開拓者たちの写真の数々、そして入植30周年から10年刻みで書き継いできた記念誌でした。私たちは翌年11月まで、故郷の名を冠した「六ヶ所村庄内」に通い、多くの人たちから話を聞きました。開拓一世のご夫婦は子や孫に聞かせるように往時のことを語ってくれました。政美さんに手紙のことを聞くと、「そんなの来てたかもな」と答えました。

「牛歩確実也」。入植30周年の記念碑に刻まれた文字です。六ヶ所村の人たちも北海道豊富町の「天北の庄内」の人たちも酪農に活路を見いだしました。やませ(偏東風)や雪、泥炭と水に耐え、やせた大地に踏ん張りながら、ゆっくりと一歩ずつともに歩む開拓者たちの姿が牛の姿と重なりました。もうひとつ、耐え難い結末を迎えた満州の記憶を決して吐き出すことなく、何度も反すうするイメージもまた牛の姿とダブりました。口にできない、したくない満州の記憶を、思いを、開拓団の人たちは決して忘れようとはしませんでした。それが満州に残してきた人たちとの約束であるかのように......。語られるべき物語が語られるときを待っていました。

山形の若者たちはなぜ満州を目指したのだろう、そして、それは今にどうつながっているのだろう......。私たちは酒田市の旧家で貴重な資料を見つけました。佐藤繁作さんとともに開拓に人生を捧げた鈴木壮助さんが、生い立ちや満州での生活、戦後の開拓など、自らの体験を記した千枚を超える手記です。「耕す土地を持たず、行き場のない農家の次三男の未来を開きたい」......。壮助さんの手記からは、山形の農家の生真面目な若者たちの使命感や、満州で家族全員を失いながら、戦後の厳しい開拓にかけた心境など、生の声が伝わってきました。壮助さんたちの物語もまた語られるときを待っていました。満州開拓も戦後の緊急開拓も「国策」です。誰も責任を取らないのが国策なら、彼らは自分たちで責任を引き受け、それを果たそうとしました。「三つめの庄内」にはかつて余計者と言われた人たちの志と覚悟が今に受け継がれています。

山形放送では1960年代から夕方のローカルニュースの中で、8月に「戦争の語り部たち」という特集を放送しています。この番組もその積み重ねの中から生まれました。そしてローカルワイド番組で繰り返し特集しながら育ててきました。小さな放送局が地道に積み重ねてきた取り組みが評価されたことを、それにつながる者の一人としてとてもうれしく思います。

最初の取材から5年余りの間に、末子さんも政美さんもこの世を去りました。本当に残念ですが、つらい話も誠心誠意していただき心からありがたく思っています。画面に登場しない人たちも含めて、誰一人欠けてもこの番組は成立しませんでした。

最後に取材したのは今年3月の満州開拓親子地蔵尊の法要です。そこに開拓団ゆかりの人たちの姿はありませんでした。誰が手向けたのか確認のしようもありませんが、地蔵さまにはその朝、花束が一つ供えられていました。

TA-テレビ教養「三つめの庄内」②.jpg

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