看過されてきた旧弊を相対化する機運
年の瀬を迎えて、1年のトピックを振り返る言葉がマスメディアやSNS上に目立つ時期になった。そのなかで、エンターテインメント界に話題が及ぶ際にはしばしば、各分野が長年抱えてきた体質の問題性や、それに起因する深刻な加害を洗い出す契機として2023年が総括される。ことに象徴的に取り上げられるのは、旧ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)の創始者(故・ジャニー喜多川)による性加害、歌舞伎役者・市川猿之助のパワーハラスメント、セクシュアルハラスメント報道と自殺ほう助に至る一連の問題、宝塚歌劇団の劇団員が命を落とした事件およびハラスメントや過重労働などをめぐる問題であったが、ほかにも乃木坂46のコンサート演出過程でのパワーハラスメント、あるいは近年多くの告発がなされるようになった映画界、演劇界の抑圧的な構造など、著しい改善に向かうのかどうか、いまだ不透明な事象は数多い。
被害者の心痛ははかり知れず、とり返しのつかない事態を前にしてまとまらない思いを抱え続けた受け手も多いはずだ。また一見、時を同じくして事態が動き始めたようにみえる、エンターテインメントに関わる諸々の事案だが、それぞれのジャンルや組織ごとに重ねてきた歴史や関係性、社会との関わり方、明らかになっている事実内容も異なり、それらを捨象してひとまとまりの問題として扱うことはできない。ただし、芸能やエンターテインメントが帯びる特殊性ゆえに看過されてきた抑圧に社会が目を向けるようになり、外側から相対化して問い直す機運が生まれつつあるとはいえるだろう。
権力関係の自覚しにくさ
特定の集団内で規律、規範が形成されていくような芸能ジャンルにあっては、ひとりの労働者としての尊厳が、ともすれば自覚されないままに損なわれていく危険をはらむ。宝塚歌劇団について長らく研究、発信を続けてきた文芸・演劇評論家の川崎賢子は、歌劇団内の厳格な上下関係や共同幻想によって形成される規律訓練について論じるなかで、指導といじめが二項対立ではなく連続した面をもつこと、また「教える/教えられる」「様式美を伝える/伝えられる」関係における「パワー」すなわち権力関係の存在を、教える側が自戒する必要について述べている(『世界』2024年1月号、岩波書店)。
同じく川崎は、歌劇団の外部弁護士団による調査報告をもとに、週刊誌にトラブルが報じられた組全員で行なわれたという「自主的な話し合い」について考察し、参加者が上下関係を内面化するような言論空間では、弱い立場にある者が組織内の「パワー」を前にして余儀なく沈黙したり、言葉を発することができないまま傷つく可能性を指摘する(前掲『世界』)。そこにうかがえるのはやはり、集団内に特定の問題が存在することを自覚していたとしても、それをメタレベルの視点なしに「自主的に」解決しようとするプロセスで見過ごしてしまう、自らの組織に埋め込まれた権力勾配である。
構造的な歪みは弱い立場の者に負荷をもたらし、権力を行使あるいは制御しうる立場の者は往々にしてその構造自体に気づきにくい。宝塚歌劇団に限らず、深刻なハラスメント問題を受けて今年なされた、各種エンターテインメントの運営組織の会見や声明において複数みられたのは、そうした構造的な権力を有していることへの自覚が不足した言葉や振る舞いであった。
特有の性質をもつ芸事ゆえに、外部からの規範や社会一般の通念をそのまま当てはめることにはなじまないといった語りも、エンターテインメントに関してはしばしばなされる。しかし、ときに一般的な通念が浸透しにくい世界であるからこそ、その特殊性を自覚したうえでのハラスメントの予防や、不均衡な権力関係がいかに生まれてしまうのかについての自省はいっそう必要になる。
メディア問い直しの契機に
他方、故・ジャニー喜多川が自らの地位を利用して長年行ってきた性加害に関しては、組織内の権力構造による加害の放置と同時に、マスメディアの報道姿勢に関しても強く問い直しが提起された。外部専門家による旧ジャニーズ事務所の再発防止特別チームは、8月29日に発表した調査報告書のなかで「マスメディアの沈黙」という表現を用い、同事務所との関わりの深さから、2004年にすでに性加害の真実性を認める司法判断がなされたのちも、各報道機関がきわめて不自然な対応をしてきたことを指摘した。
おおよそ今年10月以降、各テレビ局は同事務所と自局との関係についての検証を相次いで発信する。11月26日にTBSホールディングスが公開した調査報告書には、長らく性加害を報道してこなかった背景に「人権意識の希薄さ」「週刊誌報道の軽視」があったことが記されている。あるいは、3月の英国BBCのドキュメンタリー番組以降の対応の遅れに関しては、旧ジャニーズ事務所と関わりの強いTBS内の他部局への配慮がはたらいていたと考えるほかないとの言及もなされている。11月27日放送の『荻上チキ・Session』(TBSラジオ)では同報告書を読み解く時間が設けられたが、前述のような論点のほか、出演者のジャーナリスト・青木理が着目したように、「民事判決にすぎない」「警察が動いていなかった」事案に対する意識の乏しさなど、そもそも調査報道について慣習化していたメディア側の姿勢や体制を根本から見直す重要な契機にもなるだろう。
こうした報道一般についての洗い直しの機運がみられる一方、巨大で強固なファンダムをもつエンターテインメント各分野に関して、当該ジャンルのファン向けのメディアがハラスメント等に関わる問題をいかに扱いうるかについては、まだ改善の余地は大きい。もちろん、ファンに向けて当該エンタメの魅力を伝えることが、それらファン向けメディアの第一義的な性質ではある。しかし、そのジャンルの実践の魅力や価値を伝えることと、ジャンルが抱え込んだ問題性に批判的な目を向けることはもちろん両立する。と同時に、その両輪が機能することこそがジャンルそのものを、そして演者の心身をロングスパンで守ることにつながるはずだ。
「外側」からの視線をいかに受け止めるか
多くのファンをもつエンターテインメントの各分野で、抑圧構造をあらわにする問題が相次いだことは、ファン文化をめぐる議論をも呼び込んだ。しばしば目立つもののひとつが、「推し活」のあり方を見直すような言説である。近年、人口に膾炙した「推し」「推し活」といったフレーズは、対象への愛着を示す言葉として広まり、ごくカジュアルかつ広範なニュアンスをもって用いられるようになった。支持されやすい言葉に育っただけに、例えば商業主義に踊らされる人物像を想定してそのあり方を批判的に捉え直そうとする議論などにおいては、かえって疑念を向ける対象として「推し」という言葉は呼び出されやすい。
ただし、不均衡な権力関係のなかで労働者としての尊厳を失わせるような芸能組織内の問題系と、ファンに継続的、能動的な関わりを促すエンターテインメントの方式、あるいは対象が何であるかにかかわらず個人レベルでバランスを著しく欠いた消費や言動に至ってしまう受け手が存在することとは、相互に連関してはいるものの、論点としてはそれぞれ独立して整理すべきものである。そして、それらを横断しつつ、ともすれば語り手のロジックに奉仕するために、便利に運用されやすい言葉として「推し」はある。これら水準の異なる要素を、昨今のエンターテインメントをめぐる論点として雑駁につなぐことは、各分野が抱える問題のありかや、そのジャンルが育んできた文化としての意義を細やかに捉えることから遠ざかってしまう。
なにがしかのエンターテインメントのファンであれば、このような「外側」からの偏見や揶揄まじりのまとめられ方に歯がゆい思いをしたことはあるだろう。そうした粗雑な視線は、いたずらに論点をうやむやにしてしまう。しかし一方で、2023年に大きく報じられたエンターテインメント関連の問題は、組織の「外側」から相対化する視線がもたらされたことで、ようやく事態が動き始めたものも少なくない。愛着のあるジャンルを守るつもりで、ファンダム外から投げかけられる言葉をかたくなに拒絶しようとすれば、その振る舞い自体が当のジャンル内にいる実践者たちの、労働環境の改善を阻害することにもなり得るはずだ。自身が思い入れをもつジャンルに明らかな問題が生じているときにこそ、それをどのように受け止め、対峙できるのかが重要である。そして、今年クローズアップされた諸問題を一時の関心事とするのではなく、送り手・受け手双方が、自らへの継続的な問いにつなげていくことも忘れてはならない。