「50年前に沖縄で会った人を探してほしい。会いに行けるのは年齢的に最後のチャンスなんです。」
県外からの電話を、録音しながら対応したところからこの番組は始まります。個人情報のこともあり難しいだろうと思いながらうかがっていました。しかし「復帰後の沖縄で一緒に働いた」「道路に白線を引き続けた」「一緒に作業したのが饒平名(よへな)君」......振り絞るように続く声に「なんとかして会わせてあげたい」と心が動きました。
電話は早川亨さん。83歳。本土復帰後、名古屋から沖縄に通い730(ナナサンマル)の交通方法変更に間に合うように、中央線など道路の白線を引いた方でした。730とは1978年、沖縄の道路を、アメリカ式の右側通行から日本式の左側通行に一夜で変えた一大プロジェクトのことです。ただ、饒平名という苗字は沖縄に多く、早川さんを雇った会社もとうに解散。警察でも探偵でもない私たちにはまさに雲をつかむような話、それも50年も前の雲を。そんな心許なさのまま、まずは、私がパーソナリティを務める生ワイド『華華天国』で呼びかけを行うことにしたのです。結果、二人は奇跡的に声の再会を果たします。いえ"奇跡''ではなく、リスナーさんの力のおかげです。ラジオは人と人をつなぐ、心を通わせる、ずっとそう信じ、その実感を重ねながら放送してきましたが、実際に人がつながったことに驚き、感謝し、リスナーさんと喜びを分かち合いました。
番組の前半はその生放送を再編集したものです。ここで終わっても目的の再会は果たせたでしょう。でも、協力してくれたリスナーさんにも再会シーンを届けたい、そう思い、早川さんと饒平名さんの旅にお邪魔させていただくことになったのです。ちょうど2022年の「復帰50年」のお祭り騒ぎも落ちついたころで、もしかしたら私たちがとりこぼした何かが見つかるかも、そんな期待もありました。
早川さん念願の来沖は2023年9月中旬。平日の4日間だったので、番組がある私は、早朝と放送後に県北部まで繰り返し合流。毎日ワクワクしながら旅を楽しみました。作業した本部町などを回り、お話もたくさんうかがいました。アメリカの白線はすぐ剥がれるので、溶融式と呼ばれる日本の白線の引き方を早川さんがイチから教えたこと、炎天下100㎏の施工機を手押しで毎日1㎞引いたこと、目に入るきれいな海には仕事が忙しくて一度も入れなかったこと、ヤモリが大発生したこと、コーラがおいしかったこと......。
お話をうかがうにつれ、私も730の準備や背景についてもっと深く知りたくなり、当時の関係者を探し訪ねました。番組後半ではお二人の旅を重ねながら、730の裏側を伝えています。「右から左へ、一夜で表示を変えるため、左用の看板を黒いカバーで隠しておく」名案と思えたこの大作戦も、カバーをはがすためにはバーナーの火熱が必要、なのに当日朝はまさかの台風で雨だったそう。前例のない作業に立ち向かった沖縄県警、路線バス運転手など今は90歳を超える先輩方の貴重な体験もまとめました。
「変わった沖縄」「変われない沖縄」そんなお話もでてきますが、本部町で早川さんが「当時と同じ」と言ってくれたどこまでも青い海、「変わらない沖縄」を観てもらえたことは本当に良かったです。お二人の名前は730の資料には残っていませんが、沖縄の白線を見ると、あの日お二人が仲間たちと流した汗水の結晶なのだと胸が熱くなります。
受賞に際し、早川亨さん、饒平名知昭さん、取材にご協力くださった皆さまに感謝申し上げ、これからもさまざまな声や音、小さなものや取りこぼしてしまいそうなものもお伝えしていけるよう精進したいと思います。ありがとうございました。