会えない死刑囚・袴田巖さんとの出会い
袴田巖さんの存在を私が初めて知ったのは今から22年前、2002年1月のことでした。当時、東京拘置所に収監中だった袴田さんは、すでに逮捕から36年がたっていました。再審請求は「棄却」が続き、メディアに取り上げられることもなく、世間からもほとんど忘れられた存在となっていました。そして袴田さんご本人も、死刑執行の恐怖にさらされ続けた結果、精神疾患の一種である「拘禁反応」と診断され、家族とも弁護士とも面会を拒む状態になっていました。
当時、静岡放送で駆け出しの記者だった私は、ある日、静岡県警の記者クラブで配布された袴田事件のパンフレットに目を奪われました。そこには、袴田さんが獄中から家族に宛てた手紙の短い抜粋が紹介されていました。家族を気遣うその言葉は、ごく平凡で素朴な優しさに溢れたものでした。死刑囚のイメージとはほど遠く、自分と何ら変わりのない人間の姿のように感じられ、そのギャップに興味を引かれたのです。
「この手紙にはきっと実物があるはずだ。ぜひ、その本物を見てみたい」
見たいとなると、もう居ても立ってもいられなくなり、浜松市に住む姉の秀子さんに連絡を取ったのが、すべての始まりでした。
『宣告の果て』で見えてきた獄中のこと
「死刑囚を主人公にして番組を作る...ある意味、無謀な挑戦だったかもしれません。それはまったく「画にならない取材」です。『でも、やってみたかった』。それが本音です。」
これは、2005年発行の『月刊民放』3月号に、当時の私が寄稿した文章です。静岡放送に勤務していた2004年、私が初めて制作したドキュメンタリー番組がSBSスペシャル『宣告の果て〜確定死刑囚 袴田巖の38年〜』でした。その番組の制作過程について、当時の私は"無謀な挑戦"と表現していました。なぜなら、番組の主人公である袴田さんは確定死刑囚であり、私自身は面会することも、文通することも許可されない相手だったからです。この社会のどこかに、私たちがその姿を見ることも、声を聞くこともできない人がいて、今この瞬間もそっと息をしながら生きている......。そのことを知った時の衝撃に、私は突き動かされるようにして、袴田さんの生きている証を探す取材に没頭していきました。
当時の取材テーマは、冤罪「袴田事件」というよりも、死刑囚の獄中の処遇に焦点を当てていました。死刑囚は自分が死刑執行される当日の朝に、初めて執行を告げられます。1980年の死刑確定を境に、袴田さんは徐々に精神のバランスを崩しはじめます。独房で徐々に変わってゆく様を、獄中からの膨大な手紙を通して読み取ろうと試みた番組が『宣告の果て』でした。袴田さんは獄中で一人何を思い生きるのか? そして何故、面会拒否をするに至ったのか? その心の変遷を何とかして描こうと、数多くの資料や証言に当たっていきました。
取材によって見えてきたのは、死刑囚に対する厳しい面会制限というものが、実は、死刑再審が認められにくくなったことと密接に関わっている、ということでした。当時取材した一人の弁護士からこんな話を聞きました。1980年代に死刑囚が再審無罪になるという事件が4件続いた後、死刑囚の面会制限が強められたのは、支援運動をしにくくする狙いがあったのではないか。会えない死刑囚に対しては支援運動が難しくなるし、それは安定的に死刑を運用したいという法務省の思惑だったのではないか、ということでした。現に80年代以降、今回の袴田さんの再審無罪まで35年間、死刑囚の再審無罪は一件も認められていません。
「証拠開示」が開いた再審開始への道
「袴田事件」はなぜ、再審無罪までにこんなに時間がかかったのか? その点に関して、私が長年の取材を通して強く疑問を感じていることがあります。それは、「袴田事件」の第一次と第二次の2度の再審請求を比較すると明らかですが、第一次では全く芽の出なかった再審開始への道が、第二次に入った途端、突如歯車が回り出したように、急激に良い流れに変わったのです。
私が事件を知った2002年当時は、第一次再審請求の最中でした。その頃の「袴田事件」といえば「棄却」続きで、再審開始にはほど遠い状況でした。そして2008年、最高裁での棄却をもって、27年もの歳月を要した第一次請求が実を結ぶことなく終結しました。
ところが第二次再審請求審が始まった静岡地裁では、検察側から膨大な点数の新たな証拠が開示されたのです。複数回にわたる開示で約600点の証拠が出てきたのですが、それらは検察にとって必ずしも有利とは言えない証拠です。検察は長年にわたりそれらを公にせず、いわば"隠して"いたのです。
その中には、袴田さんの死刑判決の最大の根拠とされた「5点の衣類」に関わる証拠も含まれていました。「5点の衣類」とは、袴田さんが逮捕された一家四人殺人放火事件が起きてから1年2カ月後、公判の最中に突然、事件現場となった味噌製造会社で見つかりました。商品として仕込まれていた味噌が入ったタンク内で発見された衣類には、多量の血痕が付着していました。そのため裁判所は、それが犯人が犯行時に着ていた衣類であり、袴田さんのものだと認定し、死刑判決を下したのです。第二次再審で開示された証拠の中には、その「5点の衣類」が発見された直後に撮影されたカラー写真が含まれていました。写真に写った鮮明な「色」が、味噌漬けになった衣類にしては不自然だと考えた弁護団によって、新証拠が提出されます。そのことが、今回の再審無罪への大きな道筋をつけることとなりました。
こうした「証拠開示」が、袴田事件の無罪への扉を開いたことは間違いありません。ただ、その開示がもしも第一次再審の段階で行われていたとしたら......。袴田さんはずっと早く無罪を勝ち取っていたことでしょう。そのために失われた時間は、決して戻っては来ないことを思うと、再審制度の不備も含め、今後の教訓として生かされなくてはならないと強く思います。
巖さんが言った通りの「無罪判決」
第二次再審ではまず、2014年に最初の「再審開始決定」が出され、袴田さんは即日釈放されました。以来、故郷・浜松で姉の秀子さんと暮らすようになり、10年がたった今年の9月26日、58年越しでようやく「再審無罪」の判決が言い渡されたのです。それに対し、検察は控訴を断念。ついに無罪が確定しました。
静岡地裁の判決では、「無罪」を認定しただけでなく、「ねつ造」が認められました。中でも「5点の衣類」については、「捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、1号タンクに隠匿されたもの」(静岡地裁判決より)だとして、捜査機関による完全な自作自演だったと断定されました。
暴走した権力が、袴田さんという一人の人間を社会から抹殺しようとしたのだと思うと、驚きと同時に背筋が凍るような恐怖を覚えます。しかし、実は袴田さんは獄中からの手紙などで、事件が"でっち上げ"であることをずっと訴え続けていたのです。
「...捜査陣が被告人の無罪を阻むために血染の衣類に偽証して、こがね味噌一号タンクに隠す結果となったのである。」(1976年 袴田さんが最高裁に宛てた「上告趣意書(草案)」より)
当時は、そのような獄中からの切実な訴えに耳を傾けていたメディアはなく、世間も多くは無関心でした。そんな中、長年塀の中と外で別れ別れのまま、それでも弟を信じ続けた秀子さんは今、こんなふうに話します。「すべては巖の言った通りの裁判の成り行き」だと。
一方の私は、袴田さんの第二次再審が始まった頃には、静岡放送を退社して中京テレビ放送に転職。2015年よりフリーランスのドキュメンタリー監督になりました。そしてこの10月には、念願だった袴田巖さんを主人公とするドキュメンタリー映画『拳(けん)と祈り ―袴田巖の生涯―』を完成させ、現在全国約60館で劇場公開を行っています(映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』公式サイトはこちら)。映画には、再審公判で「無罪」を言い渡された袴田さんが、晴れて死刑囚からいち市民に戻ったところまで盛り込みました。私が袴田さんの存在を知った当時の、獄中での絶望的な状況からすると、今は奇跡のような光景が広がっています。
私が見つめてきた22年という歳月は、まさに死刑執行の恐怖と絶望の淵にいた袴田さんが、釈放され、ついには再審無罪となった年月でもあるわけです。しかし私の取材はこれで終わりません。何故なら今回の無罪は、死刑囚からいち市民に戻った袴田さんの人生の、新たなスタートに他ならないからです。その行く末を見届けるまで、私のカメラは回り続けます。