【渡辺考の沖縄通信】第2回 戦後80年の奔走と覚悟

渡辺 考
【渡辺考の沖縄通信】第2回 戦後80年の奔走と覚悟

戦後80年である。昭和100年だという。わが業界でいうと、放送開始100年でもある。この節目に何をなすべきなのか。戦後の見つめなおしなど、いくつもテーマはあるだろう。でも私なりのミッションは、やはり先の大戦に焦点をあてることだと強く思っている。戦争を生身で体験した方々の声を、この耳で聞くことができるのは、待ったなしの状態だからだ。

ハンセン病回復者が見せた覚悟

先日も悲しい知らせにふれたばかりだ。昨年の春から夏にかけて密着取材をしたハンセン病回復者で宮古島に暮らす上里栄さんが、ガンで亡くなられたのだ。91歳だった。発症した自覚もないまま父に連れられ、ハンセン病療養所の宮古南静園に「置いていかれた」少年時代の孤独。生家に帰ることも許されず、食料も治療もないまま海岸沿いの壕やアダン林などを逃げ回った戦時中の労苦。「弱い人から死んでいく。子どもから。弱者から」。上里さんが、そう語るように、彼の周りの同年代の子どもたちの多くは亡くなった。上里さんは、たまたま親切なハンセン病患者の夫婦が助けてくれたから生きのびたという。

そして戦後、上里さんは、特効薬により病から回復したのだが、待ち受けていたのは、厳しい差別の目だった。「宮古島では、みんな顔がわかるからね。南静園にいたと思われると、受け付けられなかった。だから那覇に出ていくしかなかった。そこで南静園にいた人に出会っても見ないふりをした」

こんな強い覚悟の言葉が深く突き刺さった。「自分自身も乗り越えなきゃという気持ちがあるから、自分の恥はさらして(体験を語る)。まだまだ偏見差別が根強く残っているからそこを払拭するためには当事者が前に出なきゃなというふうに自分に言い聞かせながら、なんとか生きている」。

栄さんが語る話のすべてが重いものだった。ときおりつく大きなため息が今も耳の奥に響いている。どうにか体力をふり絞って最後のメッセージを残してくれていたのだと今更ながらに痛感する。

元ひめゆり学徒隊の貴重な証言

今、私はいくつかのテーマに同時並行で取り組んでいる。いずれも太平洋戦争に深くかかわるものだ。沖縄では元ひめゆり学徒隊の方にレンズを向け、彼女の半生をつぶさに追っている。山内祐子(さちこ)さん。97歳。私はやんばるの今帰仁村(なきじんそん)に暮らす彼女のもとを訪ね、何回かインタビューを重ねているのだが、絞りだすような言葉の数々は戦争に傷ついた少女の心の叫びそのものだった。「学友が次から次へと死ぬからね、死んだといってもね、一滴の涙も出ない。涙なんか、どこに行ったのか、もうわからない」

九死に一生を得た山内さんは、戦後、小学校の教諭となった。「あの苦しかったころを思い出したくなかったし、忘れたいと思っていました」

自身の体験を封印していた山内さんが重い口を開くようになったのは、還暦前のこと。教師を定年退職するのを機に、戦争体験を紙芝居にまとめたのだ。「絵はまずい(=上手ではない)ですけど、戦争を知らない人にね、戦争のむごい話をしたって、ああ、そうだったのかというだけでね、本当にあの戦争の時の苦しみは、ていねいに話してもなかなかわからないんじゃないと思ったんです。だから絵にして残すことにしたんです」

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ひめゆり学徒隊らの名前を刻んだ「ひめゆりの塔」>

以後、10年前に引退するまで、地域で読み聞かせを続けてきた。知ったつもりになっていたひめゆり学徒隊だが、体験者本人からの言葉は深く、初めて知ることばかりである。引き続き、やんばるに通い、貴重な証言に耳をすませていく所存だ。

広島で取り組む被爆の継承

不思議な縁で結ばれた広島では、原爆関連番組に取り組むことになった。NHK広島放送局では、戦後80年を機に、「わたしが、つなぐ。」プロジェクトを通じて被爆継承に取り組んでいる。その大きな柱が、「未来へつなぐヒバクシャからの『手紙』」だ。2007年から始まったもので、寄せられた被爆された方々からの手紙は、2,200通にのぼる。

母を失った被爆者はこう書く。「お母さん、どこに逃げたの。毎日探したけど、見つけてあげられなかったね。ごめんなさい。千の風になって、いつでも私の側に来てくださいね」。姉を失った人は、「どうか安らかに眠らないで、怒って私を刺激し、私に勇気を与えてください」。妹の遺品を平和記念資料館(原爆資料館)に寄贈した人は、複雑な心境をこう綴る。「でも私はまだ一度も資料館に入った事はありません。私の中では原爆は見たり知ったりするものでは無いと感じているから」

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爆心地近くにつくられた広島の「平和記念公園」(筆者撮影)>

貴重な言葉の数々を軸に、若いディレクターたちとともに次世代への継承を主題とした番組に取り組んでいる。被爆者に会い、話を聞き、ゆかりの土地を訪ね、原爆の実情をどうにかとらえたいとあがいている日々だ。長崎在住時に取材した話と重なりあうものはあるものの、広島のことをここまでわかっていなかった自身に愕然としている。あらためて長崎も訪ね、ふたつの被爆地の重く深い被爆体験の数々を心に刻んでいる。

さらに東京では、未公開資料をもとに、戦時下の音楽家たちが果たした役割を見つめなおし、8月の特集に結実させることになった。

リセットされた戦後が来ないために

いずれもが10年後の「戦後90年」には、やりたくても実現は困難であろう。今年は太平洋戦争をしっかりと考えることができるラストチャンスで、大事なタイミングなのだとあらためて実感する。

そんなことで今年に入って沖縄、広島、東京(そして長崎)を何度も往来し、取材と打ち合わせ、そして撮影を重ねている。

ハタと思う。へんだぞ。昨年末に会社組織を離れ、脱サラした理由のひとつが、自分の時間をしっかりと確保することだった。のんびりと進んでいこうと思っていたのだ。これでは、全く想定とは違うではないか。しかし、怠惰な己に鞭打ちしっかりと動きまわるべき時なのだろう。明るい未来を築くために。リセットされた戦後が来ないためにも。

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