NHK沖縄放送局・渡辺考さん 不断の対話にむかって【戦争と向き合う】②

渡辺 考
NHK沖縄放送局・渡辺考さん 不断の対話にむかって【戦争と向き合う】②

民放onlineは、シリーズ企画「戦争と向き合う」を新たに始めました。各放送局で戦争をテーマに番組を制作された方を中心に寄稿いただき、戦争の実相を伝える意義や戦争報道のあり方を考えていきたいと思います。

第2回はNHK沖縄放送局の渡辺考さん。なぜ戦争を描いてきたのか、ご自身の足跡をたどりながら、放送メディアの役割を考えます。(編集広報部)


たのしくなければテレビじゃない。

バブル期の熱に浮かされたような空気のなか、わたしは、テレビ制作の道に足を踏みいれた。トレンディドラマは最盛期。現役女子高生や女子大生がタレントのように振る舞い、いまでは考えられないような海外中継を含む巨額の大型プロジェクトが散見されるいっぽうで、実験的な深夜番組があったりと、冒頭にあげた某民放のキャッチフレーズのごとく、テレビは「たのしく」賑やかだった。放送局の熱気や華やかさへの憧憬が原動力で、具体的な目標も社会的意識にも欠如していたわたしは、何か新しいことをやろう、びっくりさせるような面白い番組をつくりたいという意気込みだけで、むなしくも徒手空拳であがき続けた。やがてバブルも崩壊、たのしいだけでは成り立たなくなったテレビの世界でわたしは迷子のようにさまよった。

転機となったのは、2001年9月の同時多発テロ事件だった。タワーに突入する飛行機をライブで目の当たりにし、憎しみと報復の連鎖が世界的な危機を招来するのではという不安が己を覆いつくした。ふたりの幼子を前にただただおろおろし、自分の無力を諦念とともに痛感した。

しかし。

このまま手をこまねくままでよいのか。自分のなかで何かが動いた。憎悪と対立が引き起こす、その究極系としての戦争を見つめることが、自分がなすべきことなのではないかと思い直したのだ。子どもたちのためにも。

その翌年、思わぬ形で戦争番組にかかわるようになった。太平洋戦争中に「海の生命線」と呼ばれた南洋の島々をめぐるシリーズ特集(ETV2002「緑の島は戦場になった」)が進行しており、後輩ディレクターがサイパン戦を手掛けていたのだが、体調不良で撮影半ばで降板、急遽わたしがピンチヒッターとなったのだ。

番組では、玉砕した日本軍将兵が死を前に家族に宛てた手紙にこだわった。それらは、日本に届くことなく米軍に接収され英訳されたうえで、戦後永きにわたって米国立公文書館に眠っていた。わたしは言葉をあつめ、作家の重松清さんとともに、玉砕を前にした極限状況で、兵士たちはなぜ言葉を書きつづったのかを探っていった。こうしてできたのが同『人々は見捨てられた サイパン島』である。

番組終了後、残された課題があった。目の前にある言葉の数々を、このままにしていいのか。それらは、本来宛てた遺族のもとに届けられるべきではないか。

重松さんと話し合い、サイパン島だけではなく、ほかの太平洋の島々の戦場で書き残された言葉もアメリカで探すことにした。膨大な数の言葉が手つかずに眠っていた。「天皇陛下万歳」や「お国のために死んでいきます」、といった殉国的なものもあったが、そのほとんどが身近な家族や恋人をこがれ、思いやる優しい文面だったことに驚かされた。

重松さんとともにガダルカナル島、パプアニューギニアなど言葉が紡がれた戦場を歩いた。さらに重松さんとともに全国をめぐって、将兵のつづった人生のラストメッセージを遺族のもとに届け、90分のハイビジョン特集『最後の言葉~作家・重松清が見つめた戦争~』として結実させた。

ふたつの番組を通じて、戦争がいかに人間関係を暴力的に破壊し、個々人の内面に深い傷をもたらすのか、その不条理を突きつけられた。同時に国のために殉ずることを運命づけられた若者たちの命のはかなさに悲しみと憤りをおぼえた。そして、わたし自身、戦争番組をつくる意義の大きさを肌感覚でひりひりと感じていた。

これらの番組がトリガーとなり、戦争の不条理と、虐げられ弱い立場に追いこまれたひとびとにフォーカスをあてるようになる。NHKスペシャル『学徒兵 許されざる帰還~陸軍特攻隊の悲劇』では、機材トラブルや不時着によって生き残った隊員への取材をベースに特攻隊の実相とそのメカニズムの残忍さにせまった。「みんな若者だったし、死にたくはなかったんです」という元特攻隊員・大貫健一郎さんの言葉はいまも胸に深く響いている。

朝鮮半島にも目を向けた。ETV特集『シリーズBC級戦犯 韓国・朝鮮人戦犯の悲劇』、同『もうひとつのシベリア抑留~韓国・朝鮮人捕虜の60年~』では、戦争の時代、そして戦後永きにわたって朝鮮半島のひとたちが被った艱難辛苦を描いた。特攻隊、BC級戦犯、シベリア抑留の問題を通して、国家が牙をむき、暴力性を前面に押し出すと、個人の力では何も抵抗しえないことを思い知らされた。

さらに世の中の空気をオピニオン醸成によって作り出す働きを担う作家や知識人の戦争とのかかわりを見つめた。西田幾多郎と京都学派、そして作家・火野葦平や大西巨人、思想家・加藤周一や政治学者・丸山真男のことも番組化した。

当然のことながら、わたしたち放送メディアは、戦争の時代、いったい何をしていたのかという己のルーツを問い直す問題に行き着くことになる。2009年、プロデューサー・塩田純の呼びかけで先輩の大森淳郎とわたしはETV特集・シリーズ「戦争とラジオ」を担当することになった。大森は国内放送、わたしは主に海外向け短波放送を担当、音源と関係者を探し出し、戦時下の日本放送協会が何をもくろみ、どんな放送をしていたのか、深掘りした。そのあたりは、大森の近著『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』(NHK出版)、拙著の『プロパガンダ・ラジオ』(筑摩書房)に詳述しているので参考にしていただきたい。後日談めくが、ラジオと戦争の切り結びの探求は、いまも続いており、BS1特集『沖縄 戦火の放送局』で戦時下の沖縄でのラジオ(日本放送協会沖縄放送局)の功罪を見つめた。それらを通して、はっきりと見えてきたのは、わたしたちメディア、ジャーナリズムのなすべき最大の役割は、国家や権力の暴走を見過ごさないための不断の努力につきるということだ。

あらためて戦争はなんで起きるんだろう、と思う。その理由は、遠くにあるわけではないことに気づく。わたし自身のなかにもすくう「我」がそれである。自己拡張欲求。プライドやメンツ。差別と偏見。誤解と忖度。誰もがもっている人間の特質。これが集団心理になって、戦争に突き進んでしまうのではないか。

本能だから仕方がない、とあきらめるしかないのか。でも......でも、である。

話し合い認め合うこと。世界各国、同じ価値観を共有はしていない。基本、みんな自分と違うという観点から、コミュニケーションをすること、自分と思想信条が違うから敵だという二元論的価値観からの脱却が肝要に思う。いまだからこそ「対話の重要性」を痛感してやまない。

そして実感する。

テレビやラジオこそ、対話のためのコミュニケーションツールではないか、と。個々の価値観が矮小化し、たこつぼ化していくいまこそ、わたしたちの役割は高まっているのではないだろうか。

沖縄戦、米軍基地問題、自衛隊のミサイル配備......。過去の戦争の痛みと現代社会の軋みが地続きになっているのが沖縄だとつくづく思う。

これからも、この島に身を置き現実を見つめながら、戦争の酷さ、そして対話の重要性について考え続けていこうとしみじみ思う。

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