78年後の『尋ね人』の時間 沖縄戦を伝える思いとは

渡辺 考
78年後の『尋ね人』の時間 沖縄戦を伝える思いとは

現代版『尋ね人』が映し出す埋めきれない空白

敗戦の翌年から始まったラジオ番組に『尋ね人』というものがあった。私は世代的に聴くことはなかったが、戦争で別れ別れになった親族や友人知人の消息を、電波を通して探るというもので、1962年まで続いた。6月24日に放送されたETV特集『置き去りにされた子どもたち〜沖縄 戦争孤児の戦後〜』は、まさに現代版『尋ね人』ともいうべき作品だった。
私がかみ締めたのは、歳月が埋めきれない空白だった。

去る6月23日、沖縄は、慰霊の日を迎えた。沖縄戦の組織的戦闘が終わって78年目となる。沖縄の放送局は、この日を軸にどのような番組を放送したのか。また、慰霊の日はどのような意味を持つのか。今年放送された番組を振り返りつつ、沖縄に深いゆかりを持つ番組制作者たちの話に耳を澄ませてみたい。

前記ETV特集『置き去りにされた子どもたち』を手がけたのは、NHKエンタープライズディレクターの伊東亜由美である。敗戦直後に、600人ほどの戦災孤児が暮らしていたコザ孤児院を起点に、孤児たちの戦後の葛藤、そして現在を丹念に描いた。戦争と戦後の混乱で生じた空白を埋めようとする人々の希求と苦悩が、番組全編を覆っていた。

伊東がこの話に取り組み始めたのは、4年前のこと。開口一番、語ったのは、直面した複数の「壁」だった。

「最初から覚悟はしていましたが、取材をお断りされる方も多かったです。ご健在かどうかがひとつ目の壁、会って話を聞かせてくださるかどうかがふたつ目の壁、カメラの前で話を聞かせてくださるかどうかがみっつ目の壁でした。取材をお断りされる理由としては、育ての家族に配慮したり、子どもにかかる迷惑を恐れたり、ご近所から批判を浴びた過去があるなど、いずれも切実でした」

それでも伊東は、孤児たちに手紙を書き、彼らのもとに足繁く通い、10人近くの孤児たちから撮影許可を得た。

そのひとりが「チャーリー」さんだ。
コザ孤児院で米兵から「チャーリー」と名づけられたものの、本名がわからないまま今日を迎えた彼は、「いくら探そうとしても俺自身で探せない。俺は、いったい、何者かと自分で疑問に思う」と嘆き、「戦争に聞いたらいいさ。俺もわからねえよ。なんでこんな運命か」と放り出すようにつぶやく。名を奪われた半生は、こちらの胸ぐらをつかまれるような過酷さの連続だった。国家からの補償や援助はなく、まるで凍結されたように多くが未解決のまま現在につながっていた。それは他の人々も同様だった。

「これは過去じゃない、今の問題なんだというのが一番の驚きであり発見でした。撮影を了承してくださった方々に共通していたのは『子どもや孫に、同じ目に遭わせたくない』との思いでした。当初は『沖縄に詳しくない自分が取材者でいいのか?』という逡巡もありましたが、四の五の言ってないでやらなければ、という思いに変わっていきました」

番組後半で私は衝撃を受けた。番組はテレビ的物語構築をあえて放棄し逸脱するのだ。

リコーダーで奏でられたピーター・ポール&マリーの「パフ」が流れてくると、画面はブランコをする少女のスローモーション映像になり、こうナレーションが流れる。

行方不明の肉親を今も探し続けている孤児たち。次の方々について心当たりのある方々は、手紙でこちらまで情報をお寄せください。

そして、NHKの住所と番組名がテロップで表示された。
まさに『尋ね人』だった。
前記に続けて肉親を探している、孤児たちの思いが綴られる。

妹・弟に会いたい。本当の家族を知りたい。物語に依拠しない、シンプルな「尋ね人」へのメッセージは、それだけに切実な問題提示となり、見る側をくぎ付けにする。

「今ごろきても『遅すぎる』というお叱りも受けましたし、そのたびに『本当にそのとおり』と反省しました。もっと早く取材して発信できていれば、事態は少しでも違ったのではないかと思います」「戦後の社会は、『空白』を抱える痛みも苦しみも個人任せにしてきましたし、私たちマスコミもそれを取り上げませんでした。その決着まで個人任せで『本当にいいんだろうか』という疑問を、今からでも、ひとりでも多くの人と共有したいと思いました」

同じ作り手として決して他人事と捉えてはいけない伊東の言葉は、胸に深く突き刺さるものだった。

埋もれた事実を掘り起こす

これだけ多くの制作者が調べ尽くし、さまざまなアプローチを続けてきたのに、いまだに沖縄戦をめぐってこのような事実が埋もれていたのかと衝撃を受けた番組が、NHKスペシャル『戦い、そして、死んでいく』(6月25日放送)である。新たに発掘した海兵隊の音声記録をベースに、100歳を超える当事者たちの証言もまじえ、沖縄戦の実相に迫った。戦場での切迫した赤裸々な声の数々に圧倒された。

制作したのは、NHK沖縄放送局ディレクターの三宅佑治だ。奇縁がもたらした、貴重な音声記録との巡り合いだった。

「2年前、沖縄の本土復帰50年に向けて、戦後の沖縄に関する映像・音声史料を、海外の公文書館や博物館で探していました。世界最大規模の史料所蔵のあるアメリカ議会図書館の担当者とのやり取りの中から、沖縄の戦場における音声記録が保管されていることがわかりました」

米軍は、米国民に向けて戦争の正当性を訴えるため、沖縄戦の最中、戦場の様子を音声で記録していたことは知られていたが、まさか、その現物が残っているとは......しかも、30時間をこえる記録だという。連絡を受けた三宅は、当初、半信半疑だった。

「戦時中の映像はすでにたくさん見つかっていますが、戦場で録られた未編集の素材がここまで大量に残っていることがあるのだろうか......と。まずはごく一部の音声を取り寄せてみました」

送られてきたのは、銃爆撃音が鳴り続ける最中で実況する兵士の生々しい肉声だった。三宅は、すぐさま関連音声すべてを取り寄せた。そこには200人を超える将兵の声が収録されていた。それらをふんだんに構成した番組は、スクープの連続で、こちらを未知の世界に誘うものだった。

「特に驚いたもののひとつは、遠くから歩いてくる女性らしき人物について実況する通信兵の緊迫した声です。もしかしたら男性で日本兵なのではないか、仮に女性だったとしても危害を与えてくる可能性があるのではないかと疑い、米兵たちは武器を構えていました。この一部始終を聴いたとき、軍民混在の悲劇の実態を痛感し、米軍側の音声にそれが残されていることに衝撃を受けました。当時、米軍は住民を極力保護する方針をとっていましたが、地上戦では結局、そこはないがしろになり、無辜(むこ)の人々が犠牲になっていくことをまざまざと突きつけられました」

これだけでも十二分な発掘なのだが、三宅はさらに実際の関係者たちも見つけ出し、アメリカに赴きレンズを向けた。

「最初は、参戦した米兵が戦争前後に住んでいたであろう自宅住所を調べて手紙を出していましたが、1カ月ほどすると宛先不在で帰ってくるものばかりでした。やはりすでに亡くなっているケースが大半でした。ようやく100歳の元兵士が見つかり喜んでいたところ、『あの戦争のことは語りたくない』と断られたこともありました。それほどまでに沖縄戦の傷が今も残っている証拠なのだと感じました。それだけに、今回『後世に伝えたい』とインタビューに応じてくださった元兵士や住民の方々にはいくら感謝してもしきれません」

粘り強い根気と、沖縄戦の実態を後世に伝えたいという制作者の思いが、大きな鉱脈発掘へと連なった。

身内の話ばかりが続くようだが、今年NHK福岡放送局は、慰霊の日に沖縄を意識した特別編成を組んだ。九州各局および沖縄局は、朝ニュースでの中継(全国放送)を皮切りに、昼のニュースの前後の沖縄全戦没者追悼式(一部ローカル)、19時半から定時の情報番組『TheLife』でもと白梅学徒隊員で今年初めに亡くなった中山キクさんを追悼し(『"平和のバトン"託し続けて』)、22時からは、沖縄戦と米軍基地に翻弄されて南米に新天地を求めた宜野湾市のある集落の戦後を追った特集番組『流転〜沖縄 引き裂かれた集落〜』を放送、さらに引き続きドキュメント72時間『沖縄 オールナイトで弁当を』(全国放送)でやはり宜野湾市のある弁当仕出し店の人間模様を追った。ちなみに前記『流転』は、この4月から5月にかけて私自身がブラジルロケをした拙作である。 

動画配信で全国へ

民放では、琉球放送(RBC)が6月21日に2時間の特集『池上彰も知らない慰霊の日のこと』を放送している。スタジオべースの番組であるが、池上自ら、集団自決の舞台となった読谷村のチビチリガマなど県内各地を巡り、自らの言葉で沖縄戦をとらえようと模索する姿が印象的だった。また慰霊の日は特別編成で固め、これまでRBCが撮りためた沖縄戦体験者の貴重なインタビューを再編集したRBCスペシャル『戦ぬ姿〜沖縄の証言1975−2023』、連続して1984年制作の『第32軍の興亡 沖縄戦とは 軍隊とは』の再放送を日中の時間帯に電波に乗せた。

慰霊の日当日の番組表をつぶさに見たつもりだったが、沖縄戦関連番組がさほど多くない印象を持った。しかし、それは私の大いなる間違いだった。在沖各局は、地上波のみならずTVer、YouTube、そして各社ウェブサイトなど動画配信サービスに力を入れていたのだ。背景にあるのは、広く全国に沖縄戦のことを伝えたいとの強い意志力である。

沖縄テレビ(OTV)では、沖縄全戦没者追悼式をオンライン中継し、その前後にドキュメンタリー番組『むかし むかし この島で』と過去のニュース企画を組み合わせ、2時間半にわたってYouTubeで生配信した。

『むかし むかし この島で』は、2005年に制作された作品である。沖縄戦の記録フィルムを検証する作家の活動と連動し、県内各地で上映会を開き、人々の胸の奥にしまいこまれた戦争体験を導き出し、丹念に物語に紡いだ。

オンライン配信し、数日で13万回の再生があったという。全国で劇場公開され評判を呼んだ『サンマデモクラシー』の監督で、この番組を作った山里孫存に話を聞いた。

「毎年この時期になると、沖縄の各局は、全国に沖縄戦をどう伝えたらいいか、悩み苦闘してきました。正直、キー局では、慰霊の日だからといって、特別の枠を組んでくれるわけではありません。でも数年前からオンラインをしっかりと活用しようと。沖縄県民のために、テレビのローカルニュースを充実させ、さらに、ネット配信で全国に沖縄のことを届けようとしているのです」

琉球朝日放送(QAB)は23日、夕方のニュース情報番組『キャッチー』のなかで、30分の沖縄戦の特別番組を放送、その後、番組ウェブサイトで公開した。

慰霊の日の番組を出し終えたある記者が、こう語ったのが深く心に刻まれている。

「慰霊の日の報道、番組は年を追うごとに真剣な取り組みがなされていると思います。私も今年の慰霊の日が終わったとたん、来年の慰霊の日のことを考えています。次は何をテーマにすべきなのかを」

一連の番組を見て、関係者たちの話に耳を澄まし、痛いほど沁みたのは、沖縄戦を風化させてはいけないという制作者たちの強い思いだった。

いまだに『尋ね人』の時間が続く沖縄。まだまだ眠っている事実はあるに違いないし、それをこじ開けるのは、テクニックなどではなく、各人の不屈の精神なのだと確信した。やるべきことは山積している。

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