『水戸黄門』の55年――"時代劇ホームドラマ"の基本 守り続けて

ペリー荻野
『水戸黄門』の55年――"時代劇ホームドラマ"の基本 守り続けて

8月11日、BS-TBSで「放送55周年記念『あゝ人生に水戸黄門あり』」が放送された。長く佐々木助三郎(助さん)を演じ、五代目黄門となった里見浩太朗をはじめ、横内正、大和田伸也など歴代助さん・格さんによる撮影の思い出話、由美かおると野村将希の対談、六代目黄門の武田鉄矢と三代目・風車の弥七の津田寛治のトークなど、盛りだくさんの2時間特番となった。

30年来、時代劇の現場を取材し、『水戸黄門』関係者に取材を続けてきた私も、初代格さんの横内が印籠を出すことになったのは「舞台をやっていて声が大きかったからでは」といった話は初耳で、長年の『水戸黄門』ファンにとっても、楽しい内容だったと思う。

視聴者の嗜好をいち早く反映

国民的時代劇『水戸黄門』は、テレビ史的にも大きな意味を持つ番組だ。TBS(当時)の月曜20時「ナショナル劇場」で『水戸黄門』がスタートしたのは1969年8月4日。当時の関係者は「そこに至るまでは、大変だった」と口をそろえる。企画の中心を担ったのは、松下電器(現パナソニック)宣伝部員の逸見稔氏と『隠密剣士』(1962年)などを手がけた制作会社C.A.Lの西村俊一氏。後に逸見氏は独立してプロデューサーとして活躍する。「ナショナル劇場」枠は、それまでハナ肇とクレージーキャッツのコメディドラマ『ドカンと一発!』(68年)、布施明主演の青春ドラマ『S・Hは恋のイニシァル』(69年)など現代劇も多かったが、なかなかシリーズが定着しなかったため、京都発の時代劇をやろうと決まった。それが『水戸黄門』だった。

放送は8月からと決まっていたのに実際に動き出したのが4月。準備時間がほとんどない中、脚本を大御所に依頼したところ、あがってきたのは大作映画のような壮大なストーリーで、目指していた路線とはまったく違っていた。『水戸黄門』が目指したのは、黄門様を中心にした時代劇のホームドラマだった。確かに『水戸黄門』は、がんこなご隠居と頼もしい息子のような助さん・格さん、後にかげろうお銀やうっかり八兵衛らが加わり、家族のような雰囲気で旅を続ける物語だ。

1960年代は、森繁久彌の『七人の孫』(64年)、進藤英太郎の『おやじ太鼓』(68年)、京塚昌子の『肝っ玉かあさん』(68年)などホームドラマが全盛期を迎えつつあった。70年には、視聴率50%を超え、お化け番組と言われる『ありがとう』(主演・水前寺清子)や『時間ですよ』(主演・森光子)も放送が始まる。『水戸黄門』は、そうした視聴者の嗜好をいち早く時代劇に反映した番組だったのである(放送局はいずれもTBS/視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区、以下同)。

さて、原稿をつき返された大御所脚本家からは「そんな時代劇が視聴率をとるわけない」と言われたという。困ったスタッフは急遽、新東宝から東映に移り、娯楽作を多く手がけていた宮川一郎に脚本を依頼。宮川は制作意図をよく理解し、記念すべき第1話「俺は助さんお前は格さん」を書き上げた。

ところが今度は出演者の問題が起きる。黄門役は森繁久彌と決まってかつら合わせまでしていたのに、東宝の専属だった関係で無理となった。またまた困ったスタッフは急遽、俳優座の東野英治郎に出演を頼みこんだ。東野は夜の撮影が続くと「年寄りをいつまで働かせる気だ!」と短気な一面もあったが、翌日にはけろりとした愛嬌のあるベテラン。初代助さんの杉良太郎、格さんの横内正は東野を尊敬し、よく気遣う。俳優座で東野の後輩である風車の弥七の中谷一郎は兄貴分。いいバランスの座組みが出来上がった。

当初は第1部で終了のはずが......

撮影にも苦労が多かった。時代はちょうど娯楽が映画からテレビに移ったころ。テレビに慣れてないスタッフも多く、映画と同じようにワンカメで撮るため、とにかく時間がかかる。テレビは映画より下に見られていたため、ステージ(スタジオ)も思うように使えない。週1本のペースで作品を仕上げるために、深夜作業も続いた。以後、長くフィルム撮影が続いたが、98年の第26部からはVTR撮影に、2003年の「1000回記念」よりハイビジョン収録となった。また、「ナショナル劇場」は2008年の第39部から「パナソニック ドラマシアター」に枠の名称が変わっている。

「時代劇ホームドラマ」は、視聴者に受け入れられ、第1部は26話の予定が32話まで延長され(こうした延長も現在では、まず考えられない)平均視聴率21.7%と高視聴率を記録した。しかし、当初は続編があるとは思わず、宮川は「これにて終わり」と第1部の最終回の台本に書いていたため、あわてて最後の文言を書き直すことになった。

東野英治郎は第13部まで主演し、二代目西村晃、三代目佐野浅夫、四代目石坂浩二、五代目の里見浩太朗と主役は代替わりしても、助さん・格さんと諸国漫遊しながらの世直しという筋立ては不変。「この紋所が目に入らぬか」と葵のご紋の印籠を掲げ、悪者たちをぎゃふんと言わせる。ただし、先日の特番でも紹介されていたが、第1部に印籠シーンはない。最初の印籠は神先頌尚プロデューサーが用意したもので、色も赤っぽく、安価な物だった。しかし、撮影技術の向上もあって、しっかりと映し出される印籠は高級化。最終シリーズでは、人間国宝級の職人が作った輪島塗の印籠になった。今もジュラルミンケースに入れられて東映の金庫に大切に保管されている。

このシリーズが長く愛された一番の理由は、時代劇ホームドラマの基本を守り続け、誰もが安心して観られる内容であり続けたことだろう。親子の情けや友情、夫婦愛、手仕事の尊さといったテーマも繰り返し描き続けた。高齢の視聴者の方から「来週まで命があるかわからないから前後編にしないで」と投書があってから、1話完結で通した。第16部からレギュラーになった由美かおるの入浴シーンも話題となった。

旅・グルメ番組の先駆けにも

また、ヒットの背景には、時代の変化もあった。大阪で万博(万国博覧会)が開催された1970年、国鉄(日本国有鉄道、現JRグループ)の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンがスタート。日本を見直す旅がブームになる中、ご老公一行は日本中を旅してその土地の良さを紹介する。スタッフは新しいシリーズが始まる前に、一行の旅程に沿って脚本のためのロケハンをし、舞台となる土地の名物や食べ物や芸能などを調査。撮影時には京都に地元の職人を呼んで作業のシーンを撮る。「播州手延べそうめん」「小鯛の笹漬け」など、このシリーズで有名になった名物も多い。関西のある名物団子を紹介した途端、ファンが殺到して大繁盛。お礼にと撮影所にトラック一杯の団子が届けられたこともあったという。『水戸黄門』は、旅やグルメ番組の先駆けにもなったのだった。

映画、お笑い、歌手とゲストも多彩だった。北大路欣也、加山雄三、桂三枝(文枝)、舞の海、氷川きよし、高峰三枝子、大原麗子、森光子、小林幸子、八代亜紀......渡哲也が渡世人で出演した第1部25話「旅烏の子守唄」に子役で出ていたのは、いま『SHOGUN 将軍』で世界に躍り出た真田広之である。トップアイドルだった森昌子は、スケジュールが3日しかとれない状況で、東野が骨折して入院。結局、「片撮り」で、森が映るシーンばかり撮り、後から東野の場面を撮って組み合わせたという。美空ひばりは自身が出演を希望し、スタッフとも何回も話し合ったが、脚本づくりが難しく、実現しなかった。

次世代にどう伝えるか

月曜20時枠での終了決定は、2011年の第43部の放送中だった。急遽行われた記者会見では「スポンサーの意向では」「視聴率低下による打ち切りか」という記者の質問に対して、TBSテレビとC.A.Lのプロデューサーは「余力を残しての幕引き」を強調した。確かに最高視聴率43.7%(79年の第9部最終回)を記録した「超安定番組」であった『水戸黄門』も、10%を割り込む回もあり、それがニュースにもなった。「テレビ離れ」や地上波全体の視聴率低下が指摘され、世帯平均視聴率が10%未満のドラマは少なくないが、『水戸黄門』だけが即座にニュースとして報じられるところに、伝統番組のつらさが感じられた。「余力を残して」の言葉のとおり、17年からはBS-TBSで武田鉄矢主演の新たなシリーズがこれまでに2部まで放送されている。

今春、名古屋の御園座で上演された里見浩太朗主演『水戸黄門』公演は連日完売で、11月にアンコール上演される。地上波、BS、CSでの再放送も続いている。一方で、いまだに番組を観たことのない世代も増えてきた。55周年特番は同窓会のように楽しかった。それだけに『水戸黄門』の面白さを次世代にも伝える方法がないか、考えずにはいられない。

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