「山田太一さんと、テレビドラマと、私と母と」

岡田 惠和
「山田太一さんと、テレビドラマと、私と母と」

作家・脚本家の山田太一さんが11月29日に亡くなられました。89歳でした(山田さんの略歴は巻末に脚注として追記しました)。そこで、山田さんの『想い出づくり。』を「バイブルのようなもの」とし、脚本家の先輩として私淑していた岡田惠和さんに山田さんの思い出とファンレターをつづっていただきました。

※タイトル下の山田太一さんの写真は民放連が編集していた『月刊民放』
2011年12月号掲載の座談会にご出席の際に編集部で撮影したものです。


山田太一さんを語ることは私にとってテレビドラマとの出会いを語ることになり、それは私と母の歴史について語ることにもなる。脚本というものがドラマにはあること。脚本家という職業があることは、母に教わった。小学校の低学年くらいだったと思う。

最初に名前を覚えた脚本家は山田太一という人だった。「この人のドラマは面白いから好き」。そう母は言った。その時の笑顔を覚えている。今でいう推しを語る女の子の顔。

もちろん俳優さんの贔屓(ひいき)もいたのだろうが、つくる人を気にしたり、語ったりする人だった。1930年生まれだった母は(山田さんよりは少し年長)テレビドラマが好きだった。沖縄生まれで、幼少期に家族で東京に来て女学校から三越に就職。51年に起きた三越ストライキ(有名らしい)の際に活動家というか戦士で、逮捕され最後まで口を割らなかったので裁判にかかったことが自慢?な人だった。武勇伝を語るときはドヤ顔だったな。

わが家のチャンネル権は母が握っていた。テレビが一家に一台しかない時代。当然子どもも一緒に観ることとなる。

ドラマならなんでも好きだったわけではない。母はとにかくTBSのドラマが好きだった。信じていたと言ってもいいかもしれない。二つの枠をとても楽しみにしていた。一つは「東芝日曜劇場」。欠かさず観ていた気がする。ついでに私も観ていた。どれくらい理解していたかはわからない。芸者さんである池内淳子さんと長山藍子さんと山岡久乃さんが、今でいうキッチンカーで、おにぎりと味噌汁を売る「女と味噌汁」シリーズとか、母は心待ちにしていた。始まる前にいそいそと家事をやっつけてしまう顔を覚えている。

ときどきある地方局がつくる回も大好きだった。旅行なんてそんなに気軽にいかない時代だったし、ドラマを観ることが一つの旅だったのかもしれない。石井ふく子さんの名前は信頼のブランドだったようだ。「いいねぇ、わかってるよねえ」 なんてよく口にしていた。後年、私が脚本家になったとき、石井さんに使ってもらえるといいね、と言っていた。まだ実現していない。チャンスはあるだろうか......

絶大なる信頼を置いていたもう一つが「木下恵介劇場」から「木下恵介アワー」と続くドラマ枠。『3人家族』というドラマに私と母は、今でいうところの、はまっていて。竹脇無我さんと栗原小巻さんという、うっとりするような美男美女コンビの、都会派ラブストーリーなのだが、なかなか出会わない、なかなか心のうちを語らない男女の心の声を、笑ってしまうくらい生真面目な声で、すべてナレーションで語ってくれるのだ。なぜだか私はこの心の声が大好きでツボに入って真似をして。母と二人でナレーションごっこをして遊んだ。「惠和は思っていた。」みたいな感じ。牧歌的だ。

このときに、母が教えてくれた。あなたの好きなこのドラマは脚本家と呼ばれる人が全部書いていて、このナレーションは全部山田太一さんという人が書いているのだと。覚えておいた方がいい。この人はいい!そんな言葉だったと思う。つまり私にとってのファースト山田太一は、母と観た『3人家族』だったと記憶している。なので、私にとって最初で出会った山田太一さんは、都会派のしゃれていて笑ってしまうようなラブストーリーを書く魔法使いみたいな人だった。

つづく、同じ竹脇、栗原コンビの『二人の世界』も良かった。楽しかった。そして『それぞれの秋』。ここまでは母と観た気がする。久我美子さんが母はとにかく好きで、「綺麗」ってよくつぶやいてた。「本当はものすごいお嬢様なのよ」って何度も言っていた。でももう思春期の息子と母の関係は以前のように親密ではなかった気がする。無言でじっとドラマを見つめた。母はため息をついた。
「すごいドラマだわ、これ、すごい」。私はどれくらいそれを理解していただろうか。主人公の気弱な小倉一郎さんにすっかり感情移入していて、不良少女役の桃井かおりさんに思い切り心を奪われてたし、妹役の高沢順子さんにも恋してた。どっちを選ぶべきか勝手に悶々としていることを母に悟られないようにしていたのを覚えている。

小倉一郎さんを見ているとあなたを見ているような気がすると母は言った。あんまり嬉しくなかった。優柔不断そのものみたいな役だったから。

『高原へいらっしゃい』も一緒に観た記憶がある。そんなに無言にはならなかった。いつかモデルとなったホテルに行ってみたいと言っていた。連れてってやれなかったな。
 
『岸辺のアルバム』。この頃は、もう一緒には観ていない。でも私はどうやって観てたんだろう。母の記憶はない。
ドラマに登場する、多摩川の小田急線の陸橋は毎日通学で乗っている電車だった。あの嵐も覚えている。電車が止まる可能性があるので、学校が休みになったのを覚えている。

『沿線地図』というドラマが私はとても好きだった。ほの暗くて、救いもあまりなくて。真行寺君枝さんがひたすら美しく、あんな人とならドロップアウトも辞さない覚悟だったけど、そういう人は現れなかった。母との記憶はない。

そして『想い出づくり。』。もうすでに実家を出て一人暮らしをしていた。母とはたまに電話で話すくらいだった。自分から用があってかけると、電話代が高いからと、すぐかけなおしてくれたのを覚えている。
『想い出づくり。』の話のときだけ電話は長くなった。あぁ母は息子と話がしたいんだなと、生意気にも息子は理解し、付き合ってやった感があったかもしれない。母は絶賛だった。そこは同感だった。山田太一さんの名前をよく語った。

ね?だから言ったでしょ?この人はいいって。自慢気だった。まるで自分が発掘して育てたみたいな口ぶりで。森昌子さんと古手川祐子さんと田中裕子さんが、母は可愛くて仕方ないみたいだった。柴田恭兵さんにキュンとしているようだった。とにかく配役がいいのよ、素晴らしい。一番のお気に入りは、森昌子さんの見合い相手の加藤健一さんだった。あれは誰なの?あの役者は。何度も同じ話をした。

こんなドラマを書く人になりたいと息子は思い始めていたのだが、なかなか言い出せずにいたのを覚えている。何度もこのシナリオを手書きで書き写した。あんまり何度も手書きで書き写してると、途中から自分で書いたドラマみたいな気持ちになった。

最終回が終わった数日後に電話で語ったのも覚えている。彼女たちが結婚式場に立てこもったシーンは、自分のかつてデパートでのストライキ中のピケを思い出したらしい。泣いたらしかった。そしてベストシーンとしては前田武彦さんと、佐藤慶さんと、児玉清さんのお父さん3人の事件の後始末シーンであると、母と一致した。

山田さんのドラマについて母と語った思い出はこのあたりで途絶えてしまう。
のちに向田邦子賞をいただいたとき、何よりも審査員に山田さんがいたことを母はよかったねえと何度も言った。そしてあなたが脚本家になれたのは全部自分のおかげであると、顔が言っていた。

母が教えてくれた脚本家という職業に就き、教えてくれた山田太一さんにあこがれて書いてきた。どうしてもこの頃の山田さんのドラマが好きだ。

そして天国で、だいぶ先に行っていた母が山田さんを待ち構えていた気がしてならない。息子の憧れの作家にお礼を言っただろうか。そしてあなたを見つけて育てたのは私だとドヤ顔で言ってる気がしてならない。

山田太一さんのドラマに出会えて、私はとても幸せでした。これからもずっと憧れです。


【山田太一さんの略歴】
やまだ・たいち/1934年東京都生まれ。58年早稲田大学教育学部卒。松竹に入社、大船撮影所で木下惠介監督に師事。65年に退社。以後、テレビドラマの脚本を中心に小説、戯曲、映画シナリオ、エッセイなど多岐にわたる執筆活動を続けた。テレビでは『岸辺のアルバム』『男たちの旅路』『獅子の時代』『ふぞろいの林檎たち』『早春スケッチブック』『日本の面影』『ながらえば』『冬構え』『ありふれた奇跡』『時は立ちどまらない』『五年目のひとり』ほか。小説に『異人たちとの夏』『飛ぶ夢を見ない』『丘の上の向日葵』など。2023年11月29日没、89歳。

これらの番組の一部は横浜の放送ライブラリーで収蔵・公開されており、無料で視聴できます。詳しくはこちらを。

                         (編集広報部作成)

最新記事