書評 本、気になって(第6回)『ことばの番人』

石井 彰
書評 本、気になって(第6回)『ことばの番人』

気になる本=ことばの番人
髙橋秀実 著 発行=集英社インターナショナル 発売=集英社

毎週のように巡回している隣町の中規模書店で、2024年10月初旬、本書はやや目立つ新刊コーナーに平積みされていました。全面活字だらけの素敵なブックデザイン(鈴木成一デザイン室)と、飛び込んできた帯の警句「目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫。事実関係を無視したデマの垂れ流し。これでよいのか?――校正せよ!」に惹かれ、思わず購入しました。とはいいながら、いつかじっくり読もうと、机の上に積んだまま時間が経過します。ところが面識のあった著者が11月に急死したことを新聞の訃報で知り、あわてて読み始めたのが、髙橋秀実(ひでみね)さんの『ことばの番人』です。年下の知人が亡くなることへの目眩のようなものを感じながらも、それ以上に内容の面白さに、ぐいぐい引き込まれて読了しました。あらためて、髙橋さんが亡くなってしまったことへの喪失感を、受け止めかねています。

髙橋さんは1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経てノンフィクション作家に。第10回小林秀雄賞を受賞した『ご先祖様はどちら様』をはじめ、自身の狭い体験からスタートして広大な普遍性まで語ってしまう『はい、泳げません』『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』など、多くの優れたノンフィクション作品で、私たちを楽しませてきました。かつて駅頭で無料配布していたフリーペーパー「R25」の連載エッセイ「結論はまた来週」が楽しみで、毎週わざわざ駅まで出かけたことを思い出します。髙橋さんとは日本民間放送連盟賞の審査員として何度か同席して、楽しく語らいました。互いにテレビ番組制作会社出身ということで、いかに使えないAD(アシスタントディレクター)だったか、暮らしの役に立たない雑学をどれだけ溜め込んでいるかなど、自慢しあったものです。

髙橋さん自身が「あとがき」で明言されているように「本書は『校正』をめぐるノンフィクションです。校正とは文章の誤りを正すこと。誤りとはなにか? 正すとはどこをどうするのか?(略)このたび私はあらためて日頃お世話になっている校正者の皆さまを取材させていただきました」

この校正者の皆さまが、ただものではない。職業柄、ついつい地味な人たちと先入観を持ちそうですが、いやいやなかなかの逸材ぞろいというか、とても興味深い人たちばかりなのです。もちろん好奇心旺盛な取材者である髙橋さんの質問の鋭さもさることながら、その回答が校正された文章のように明晰なのです。

「文章というのは、ちょっとした違いでよくなることがあるんです」と言い切るのは、校正者として25年以上のキャリアを持つ、山﨑良子さん。彼女は文章の改善策は、次の三点だといいます。

・句読点をひとつ入れる。
・言葉の順番を変える。
・修飾語と修飾される語を近くにする。

なるほど......。ここまで書いた文章を、この三箇条を活かして書き直してみました。いかがでしょうか?

そして伝説的な校正者の境田稔信さん。「辞書は、根拠です」と語る彼の家の蔵書は、辞書だけで7,000点を超え、台所の食器棚にも本が並び、家中が本で占拠されています。

「『この辞書にはこう書いてある』というのが、根拠になるわけです。校正者は根拠がないと指摘できません」ここで面倒なのは「辞書によって語釈は異なる」ので、ひとつの辞書だけを根拠に著者に「間違っている」とは言い切れず、複数の辞書を参考にしなければならなくなることです。

境田さんの話から、校正そのものが歴史的な変化をとげたことも明かされます。平成時代になると、それまで中心だった活版印刷からコンピューター写植に転換して、まず原稿通りに活字が組まれているかを確認する=原稿照合の必要性がなくなります。原稿がテキストデータで送られるようになり、校正はむしろ事実確認が求められるようになっていきます。「校正」というよりも、「校閲」の役割が求められてきたといえるでしょう。

こうした役割の変化にとどまらずに、なんと自分で辞書『新潮日本語漢字辞典』(新潮社、2007年)まで作ってしまった校正者が、小駒勝美さん。彼は「日本人の漢字の使い方を普通に理解できる辞典が必要」と考え、10年かけて3,000ページ近い大著を実現させてしまいました。

いやはや校正者おそるべしです。もっともヨーロッパでは「聖書に誤植が見つかると、校正者は死刑に処された」といいますから、命懸けの職業といえるかもしれません。校正者もすごいけれど、じつは著者髙橋さんの博覧強記、天衣無縫、引用自在も読んでいて呆気にとられます。筆の向くまま、哲学者のプラトン、ヴィトゲンシュタイン、言語学者のソシュールから剣豪宮本武蔵にいたるまで、校正の真髄につながるであろう言葉や考え方を、縦横無尽に引っ張り出してしまうのです。

そして校正者への取材はいつのまにか、誤植があることで知られる日本国憲法、そして誤ってコピーした遺伝子の校正を続ける私たち人間にまで、広がっていきます。この広げ方が、髙橋さんはいつも巧いんです。読み終わると「やられたぁ」と叫びたくなります。その書きっぷりは、フーテンの寅さんの啖呵売(たんかばい)よろしく、なるほどなぁと思わせてしまう無駄のない文体です。無駄はないけれど味はあるんです。

もう新作が読めないのは残念でなりません。髙橋さん、あなたは言葉の番人ではなく、守護神でした。素敵な遺作をありがとうございます。

書影(ことばの番人).jpg

ことばの番人
髙橋秀実 著 発行=集英社インターナショナル 発売=集英社
2024年9月26日発売 1,980円(税込)四六判/224ページ
ISBN:978-4-7976-7451-4

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